第15話 恋敵

 台東区と墨田区の間を流れる隅田川の河畔に設けられている墨田公園は川を挟んで両岸にある。

台東区側の公園にも桜の木があってその時期にはその花弁が奇麗に咲き誇り人気の花見スポットとなっている。

六月に入ると桜の花は姿を消して多くの木々の緑が大きな日傘となって、行き交う人々につかの間の涼しさを提供している。

また広場では子供に手を引かれて日傘をさす母親の散歩する姿が夏らしさを醸し出している。

「きゃー」

川の流を眺めながら歩いていた母親が、突然悲鳴を上げて傘を放り出し尻もちをつく。驚いた子供が母親に抱きついて訳も分からず泣き始める。

そんな異様な光景を目の当たりにした白い自転車に乗っていたお巡りさんが、自転車を放って駆け寄る。

声をかけ、母親が指さす方向に視線を走らせるとすぐに悲鳴の原因は判明した。

「緊急、緊急……」

お巡りさんは慣れているのか落ち着いた声で報告した。

 

 時間を置かずパトカーなどが五台、六台と集まってくる。

指揮を取っているのは浅草署の丘頭桃子警部だ。

水から引き揚げた遺体は腐乱が進み激しい臭いと、衣類はほとんど纏っておらずむき出しの骨肉に思わず目を背けたくなる。

かろうじて頭に纏わりついている長い髪の毛と片方の足に履いていたハイヒールで女性と分かる程度だ。

身元を示すようなものは発見されていない。

鑑識によれば水に浸かっていたので死亡推定時刻を言うのは難しいが、腐敗の状況から死後二週間から三週間ほどだろうとしか今は言えないと言う。

丘頭はすぐ捜索願の有無を確認させる。

目立った外傷も無く自殺か事故の線で捜査を進めようと思っていた。

所持品は川に流されたのだろう何も無かった。が、一応付近の川底をさらうことにはしている。

 解剖の結果、二十代前半の女性で出産の経験は無しで、肩までの長い黒髪に身長は百五十五センチ、体重は五十七キロくらい、珍しく歯に治療痕は無かったようだ。

死亡推定時刻は五月の中旬頃としかわからなかった。

身元も分からずで捜査のしようもなく、丘頭は公開捜査に踏み切った。

それがテレビ放映されたのは六月二日。その翌日浅草署には朝から娘や妹、孫ではないかと心配そうな顔をしたそこそこの数の申出人が集まった。

見せられるものは、微かに身体にまとわりついていた衣類の汚れた切れ端に片方の靴。あと髪の毛だけを写した写真だった。

予想通り手を上げる申出人がいなかったので、念のため全員の毛髪を預かってDNA鑑定をすることにした。

 

 一週間後の六月九日、その中の佐田明子という女性のものが一致した。

佐田以外の申出人にも「残念ですが」と結果を知らせた。

すぐさま飛んできた佐田夫婦を丘頭が遺体のところへ案内し

「遺体の損傷が激しくて見ない方が良いと思いますよ」

言葉を変えて何回かそう言ったのだが、夫婦そろって

「大丈夫。娘がどんな姿になっても見ないうちは信じられません」

あまり強く言うので止むを得ず遺体のある保管室へ案内する。

頭部に掛けられていた白い布を捲った途端に奥さんは気を失って倒れた。

旦那さんは口を押さえ吐くのを必死に我慢しているようなので若手刑事に洗面所へ案内させた。

水を飲ませ三十分ほどしてふたりが「もう大丈夫です」と言ったので、会議室へ案内し発見時の状況と解剖所見とを説明した。

聞いている間もふたりは真っ青な顔をして、震えて歯をがたがたと鳴らせている。

丘頭は暖かいお茶を勧める。

 

 ややあって明子夫人の方が先に落ち着きを見せてきた。

「あのー、自殺なんでしょうか?」と言う。

「はい、解剖の結果でも特に骨折等の損傷や暴行されたり毒物を飲まされたような形跡は無かったので、事故か自殺ではないかと考えています。この先お嬢さんのお部屋とかを調べさせて貰ったり、お友達とか恋人とかにお話も伺うつもりはしているんですよ」

丘頭が捜査の方針を伝える。

「私と一緒にマンションに住んでるんですが、四月の終わりか五月の初めころ失恋したようでして……あっでも落ち込んで自殺するような雰囲気ではなく、相手の父親のせいだとか言って家へ押しかけるみたいな事言ってたので、……あんまり恥ずかしいことするんじゃないよって諭したくらいなんですよ」

言葉を詰まらせながらも確りと母親が話してくれた。

「へーそうなんですか。じゃ結構気の強いほうのお嬢さんだったんですね」

「えぇ私に似て。だけどどんな姿であれ娘を見て気を失うなんて母親失格ですね」

項垂れて涙を流す。

丘頭が見た両親の初めての涙だった。涙を忘れるほど、それほど強烈な衝撃を受けたのだろう。

「お母さん大丈夫ですよ。遺体を見ない親御さんも多いんですから」

そう言って慰める。

母親が突然はっと顔を上げて何かを思い出したのか浅く座り直してテーブルの上で拳を握り締める。

「それに失恋なら高校に入学してすぐの時にもあったんです。中学時代から付き合っていた彼が同じ高校に入って、クラスは別々になったんですが……。それで半月したら別れたいと切り出されたんです。理由を言わないので問い詰めて、問い詰めて、仕舞には相手のクラスにまで乗り込んで、そのクラスに新しい彼女が出来たことを突き止めたんです。それで納得して諦めたことがあったんです」

「なるほど、で、その相手の娘に何かしなかったんですか?」

「本人は別に好きな娘ができたっていう事がわかれば、それは仕方のないことだから諦めるって言ってたんです。だから、失恋くらいで死ぬなんて考えられないんです。警部さんもっと調べて下さい。お願いです」

お母さんは深々と頭を下げる。お父さんはそう言う話を聞いていなかったのかキョトンとしている。

「お母さん、今日はやっと親子が会えたばかりなんです。捜査をどうするかはこれからなんです。お母さんの気持は確りと受け止めましたから安心していて下さい。何かあったら必ず連絡しますから。……それで早速なんですが自宅を見せて頂いてよろしいですか? それとも葬儀を済ませてからにしますか?」

「いえ、恵子と一緒に一旦家に帰りますから、その時一緒にどうぞ……」

 

 数日かけて浅草署員が恵子の持ち物の捜査や友人知人の事情聴取を行わせたが、事件に結びつくようなものは出てこなかった。

女友達は口を揃えて、「彼女は負けず嫌いだから、男に振られても涙の一つも零したらからっとして新しい恋人探しするような娘よ。それで自殺するなんてねぇ……」

どうやら母親の言う通り自殺するタイプの女性ではなさそうだと丘頭は感じる。

 別れたと言う恋人は現職の財務副大臣の柴田翔の息子で総理大臣秘書の健治だった。

丘頭がその彼氏に話を訊くと、別れたのは四月の終わり頃でそれ以降は一度も会っていない、と言う。

デートで良く行ったというレストランや公園など多くの場所で聞き取りしたが、連休以降ふたりを見かけたものはいなかった。

恵子の両親は家に帰って来なくなったのは五月の中頃だと言い、旅行でも行ったのかと軽く考えていて捜索願を出そうとは思っていなかったと言う。

丘頭は自殺とも事故とも判断しかねていた。

 

 

 母親の明子は居ても立ってもいられず柴田翔の自宅に健治を訪ねようと出かけた。

夫はこんな時だというのに仕事だと言って白老に帰っていた。

道路から少し奥まった所にある正門へ曲がろうとして、その角で若い女性とぶつかって、ちょっと小太りな明子がワンピースを着ている華奢な感じの女性を弾いてしまう。

女性は軽く悲鳴をあげて転ぶ。

「デブでごめんなさい。弾き飛ばしっちゃったわね」

そう言って手を差し伸べて立たせると、ストッキングが大きく破れているのに気付く。膝も擦りむけ血が滲んでいる。

「あらあら、ストッキングが……膝も擦り剥けちゃって、ごめなさいねぇ」

「いえ、大丈夫です。ストッキングはそこらで買いますから」女性は恥ずかしそうに言う。

明子は立ち上がった女性の前に屈んでハンカチで膝についた土をほろい、バッグから持っていたストッキングをだして、

「これ、いつも持って歩いてんの……あれ、あそこのカフェへ行って履き替えてください」

カフェの看板の出ている店へ半ば強引に手を引いてゆく。

コーヒーを頼んで、女性に履き替えるよう促す。

女性は恥ずかしそうに頭を下げてトイレへ。

戻ってから自己紹介する。相手は栗坂萌絵(くりさか・もえ)という二十四歳のお嬢さんだった。

明子は軽い雑談の後、何の用事で柴田の家に行ったのか気になってずうずうしく訪ねると、以外にも素直に答えてくれた。

「私、柴田さんの息子さんの婚約者なんです」

その言葉に「えっ……」思わず反応したが、驚きで息が詰まって続く言葉を言えないでいた。

萌絵は首を傾げ「どうかされました?」

「わ……私の娘が、健治さんと四月までお付き合いしてて、急に別れてくれって言われて……」

不意に涙が溢れ言葉を詰まらせてしまう。

「……警察は自殺だって……遺体を確認したばかり……」

萌絵が綺麗なハンカチを貸してくれた。優しい香りのする刺繡入りの可愛いハンカチ。

涙を押さえて「マンションに帰って来なくて、私バカだから旅行へでも行ったんだろうなんて勝手に思ってて、捜索願も出さないで、……それで警察から隅田川に……」

押さえようとしても押さえきれず嗚咽する。

今度は萌絵が可愛らしいクリっとした瞳に涙を一杯溜めて、

「あのー四月まで恋人だったんですか? ……私、おじさまにどうだって言われたの四月なんです」

また明子は驚いた。

「えっ四月に健治と知合ったんですか?」

「知合ったっていうか、お見合いのようなものでしたけど」

「じゃ、健治は恵子と付き合ってるのにあなたとお見合いしたんですか?」

明子は怒って良いのか蔑むべきなのか悲しむところなのか分からなくなるほど頭の中が混乱する。

「そういうことになります……」

萌絵は悲しそうな顔をしてさらに

「おじさまは、右月総一という今の総理大臣なん……」

話を続けようとする萌絵の言葉を遮って、明子は驚きの声を店内に響かせた。

「えーっ総理大臣?」

口に出してしまってから慌てて口を押さえたがすでに遅い。客も店員も全員がこっちを注目している。

明子はすっと立って頭を下げる。

そして声を落して口に手を添えて

「じゃ、政略結婚って、言葉悪いかも知れないけど、そういうことなんですか?」

萌絵も明子に顔を寄せて

「はい、そうです。……でも、ごめんなさい。私が、うん、と言ったばかりにお嬢さんを死なせてしまって……」

明子は最後まで喋らせずに言葉を重ねる。

「いやいやいや、それはあなたのせいじゃない。健治が、いや、副大臣の父親が悪い。自分の出世のために息子を政略結婚させようなんて……でも、あなたの方というか、総理大臣になにかメリットあるんですか?」

「私は、政治は嫌いなので良く分かりませんが、先々味方につけておくと役立つ、とでも考えたんじゃないでしょうか」

利発そうな、こんなに可愛らしいお嬢さんが、……言い寄る男は沢山いるだろうに……そう思って訊いてみる。

「あなたはそれで良いの?」

「いえ、嫌です。でも、父は総理にお世話になっていて総理からの話を断ることができないんです。私が嫌だって言えば父は無理強いをしないかもしれないけど、そうすると父が可哀そうかなって思って……」

「萌絵さんって優しいお嬢さんなんですねぇ」

明子はこんな娘なら欲しいと思いついしげしげと見詰めてしまって、萌絵が恥ずかしそうに目を逸らせたのではっと気付いて視線を落とす。

そして、もう柴田家へ行く必要が無くなったと感じたし、このお嬢さんを健治になんかもったいないとさえ思う。

「あの、会ったばかりのお嬢さんにこんなこと頼むなんておかしなおばさんって思うかもしれないけど、時々会ってもらえませんか?」

言ってはみたが明子自身変な事を言ってると分かっているので、まともに萌絵の顔を見ることができず俯いたままでいた。

「えぇ良いですよ。佐田さん、娘さん亡くして悲しいし寂しいですよね。私に会う事でそのお気持ちが少しでも和らぐのであればいつでも呼んでください。結婚する積りで仕事を辞めて花嫁修業をしているだけですので……お話を聞くまでは……」

明子は萌絵の優しさにまた涙が溢れてしまった。

「ありがとう。あなたのようなお嬢さんに会えて良かった。このハンカチは洗ってからお返しします。ほんとにありがとうございました」

明子は、萌絵が言った言葉の後にどういう言葉を続けようとしていたのか、それを問うことは出来ず何回もお礼を言ってレシートを持って先に店を出た。

歩きながら明子は萌絵との出会いを佐田に電話した。

 佐田は娘の自殺をどうしても受け入れることができず、中原博士が息子のことを岡引探偵に調査依頼したと聞いていたので、自分も白老に戻る前に岡引探偵に調査依頼してきたと言う。

そして研究所での仕事を中途半端にしてたのでそれを片付けて明日中に東京へ戻ると言った。

明子は電話を切って、萌絵が口にしなかった言葉の続きを思い描きながら家路へと急いだ。

途中、萌絵のハンカチを握ったままなことに気付きバッグに仕舞おうとしたとき、ふっと優しい香りが漂って来た。

 

 

 岡引一心は、留市龍生の自殺、中原隼の自殺と今回の佐田恵子の自殺、この疑問符の付く三件の自殺について調査することになった。

すでに龍生については、ハッキング担当の美紗が、現場付近の監視カメラの映像と、数馬と一助が走り回って集めた柴田翔親子や外務省の関係者の名簿と顔写真および歩く姿とを、手作りのマッチングアプリで照合を進めていた。

 隼に関係しても自宅マンション付近の監視カメラの映像と、隼の関係者の名簿と顔写真および歩く姿とを、同じシステムを使って静に照合させていた。

 数馬と一助の手が空いたところで恵子の友人知人の名簿と顔写真を集めるよう指示した。

 一心は、佐田研究所の関係者が立て続けに事件の被害者になるなんて何か背後にありそうだなと感じている。

それに三人とも柴田翔と関りがあることも気になった。

 

 静と美紗は事務所の三階にある美紗の部屋を作業場としているので、ちょっと覗いてみた。

「美紗、どうだ作業は進んでるか?」

一心は慰労しようと軽い気持ちで声をかけたのだが

「ごちゃごちゃうっせーなぁ。見りゃ分かんだろう、やってる最中だろうがっ!」

かなり苛立ってるんだろう、いきなり怒鳴られた。

美紗は高校生のころから男言葉を使うようになって二十歳を過ぎてもなお治らない。ただ、外で知らない人と話す時は普通に女言葉になると美紗の友人から聞くことはあるが、今のこの父親を父親とも思わぬ発言を聞くととてもそうとは思えない。

「悪かったな。邪魔した」

そう言って並んで作業をしている静に目をやるとにこにこ微笑んでいる。きっと俺を笑ってるんだと思い黙って部屋を出る。


 監視カメラと簡単に言っても実際に関係する地域だけに限っても最低でも数百台はあるし、キーとなる顔写真も数十枚はある。監視カメラの映像も死亡した数日前から、特に恵子の場合は日にちが特定されていないからひと月前からマッチングすることになる。

ひと月じゃ終わらない作業量だということは過去の経験則から一心にも分かる。

 探偵は「足だ」と昔は良く言ったが、今は「足プラスハッキングだ」と一心は思っている。

監視カメラの映像を分析できないような探偵は人探しなんかできやしない。やってもどれだけの月日を掛けるのかって話になる。

 美紗と静は朝食を食べたら夜の十一時頃までびっしりパソコンと睨めっこしているから、疲労は相当蓄積されているはずだ。

一心たちも朝食は玉子か納豆にみそ汁とご飯だし、昼は各自勝手に食べることになっている。

ふたりの為にパンとかおにぎりとかを毎日買って机の傍のテーブルに置いておくのが一心の仕事になっていた。

そして夕食は仕出し弁当だ。注文を忘れたり仕出し屋が休みの時は近くのラーメン屋の出前と決まっている。

 言っとくが、それだけが一心の仕事じゃない。

例えばだが、中原隼の首つりが他殺で密室にトリックがあるとすれば、すでに一心はそのトリックを見破っている。

分かるものなら考えて見るがいい。分かりやすいヒントを誰かが提供してくれている。「ふふふ」

頭を使って調査方針を決定したり、犯行を推測したりするのも一心の仕事なのだ。

 

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