第9話 交通事故

 夜、霧雨の渋谷の住宅街を一台の乗用車が駆け抜けて行く。タイヤが濡れた車道の水を巻き上げ一層見通しを悪くしている。

EV車のようで夜のしじまを壊すことなく静かに走っていた。

 前方の暗闇の中からライトに照らし出されて、淡い藤色の傘を差して白っぽいレインコートを纏った女性の道路を横切ろうとしている姿が、微かに、そしてしだいにはっきりと見えてくる。

運転手と助手席の女性は談笑していて気付いていなかった。

「キャー」助手席の女性の悲鳴ではっとして前を見て急ブレーキをかけたが間に合わず、激しい衝突音を立てて轢いてしまった。

一瞬の出来事だったが運転手の脳裏に、被害者の女性の驚いて目を見開き口を大きく開いて悲鳴を上げている姿がこびりついた。

高々と撥ね上げられた傘を追いかけるように空中を舞う女性、かなり遠くに頭から落ちる。

運転手は一旦は車を停めたが辺りを見回しそのまま走り去った。

 しじまを突き破る激しい物音に近所のひとが外へ飛び出して倒れている女性を見つけて救急車を呼んだ。

 

 警察の調べで車の破片が何種類か発見され、目撃者の証言から白っぽい乗用車だと分かった。

被害女性は持っていた運転免許証から近所に住む庵愛蓮二十一歳と判明した。

警官は家族に連絡を入れた。

 

 

 庵と妻娘の三人は取物も取り敢えずタクシーを呼んで渋谷警察の遺体保管室で変わり果てた姿の愛蓮と対面した。

愛蓮は家を出たままの化粧をした綺麗な顔のままだった。

後頭部に大きな損傷があると伝えられていた。

内臓も破裂し衝撃の大きさを物語っていたと説明してくれた。

後頭部も綺麗にしてくれていて庵は警官に感謝の言葉を述べた。

「なんで愛蓮がこんな……こんなことになっちゃったの?」号泣する妻に掛ける言葉も見当たらない。

庵も声を出して泣いてしまった。

しばらくの間、華蓮は愛蓮の顔を見て固まってしまい、じっと見詰めたままでいたが、妻の反対側に回って

「愛っ!」叫んで愛蓮の身体を抱きしめるようにして身体を揺すり妹の名前を連呼する。

肩を揺すって起そうとする妻の姿は悲しみを受け入れられない、死んだことを否定したいと思う気持ちの表れ。

ふたりの号泣が止まない。

立ち合いの警官も涙を幾度も拭っている。

庵も涙を堪えなかった。

そして愛葉は頬擦りし頭を撫で「愛蓮、愛蓮、……起きて、愛蓮……」と呼びかける。

「なんで家までタクシーで帰って来なかったんだ……そうすれば、こんな……」言葉が詰まる。

建築屋の嫌がらせが続いたので一人歩きは危険だと何回も言ってあったはずなのに……。

「まだ、二十歳過ぎたばっかりだぞ……お茶の修行もまだまだこれからだって言うのに、死んでどうすんだ! 父さんが代わってあげたい……」

 

「そうだ、お巡りさん、轢いたのはきっと引地という建築屋です。捕まえて下さい!」

庵は涙を溜めている警官にすがった。深々と頭を下げた。

「仇をとって下さい……」

「はい、すでにひき逃げ事件として捜査してます。必ず犯人を逮捕します」

警官は声を詰まらせながらそう言ってくれた。

言ってくれたことが嬉しくてまた泣いた。

 

いつの間にか朝になっていたようだ。

促されて妻と二人で葬儀社の話を聞いた。

……

通夜の夜、佐田博士や中原博士に留市、田口のふたりも来てくれた。

式の後残ってもらい、別室で事故の背後にあると庵が思っていることを話した。

「だから仇を取りたい。あたら若い命を散らした犯人を許せないんだ。だから力を貸して欲しい」

庵は切々と訴えた。

 あっという間に初七日も過ぎた。

娘の存在がこんなに大きく自分の心を占めていたなんて思いも寄らなかった。

ついこの間まで反発して悪いグループに入って親を困らせていたのに、茶道の道なんか歩み始めたばっかりに死なせてしまった。

後悔が苦しくて妻にそんな話をした。

「私も同じことを考えてたのよ。事故が偶発でも故意でも、そこへ導いたのは私だったと……」

「何が正しいなんてどうでもいい、生きていて欲しい。それだけだ」

「そうね。私は一生後悔し続けるわね。後悔以外何もできないもの」

「俺もだ。だけど俺は復讐する。愛蓮を轢いたやつ、それを仕向けた奴を……」

庵は自分を責めたい気持ちと同じくらい強く復讐を誓った。

「明日、あの建設会社に乗り込んで社長に白状させてやる」

怒りに任せて庵が言うと「それなら私も……」

 

 翌日、ふたりは本当に港区の会社までタクシーを走らせた。

受付で「社長に会いに来た」と伝えた。

「お約束が無いようですが?」

そう言う受付嬢に「庵が来たと言えば必ず会うと言うはずだ!」

声を荒げて言った。

受付嬢が受話器を取ってなにやら話して「只今社長は不在でして……」

庵はその言葉を遮って「そんはずないだろう。あんた、社長が外出してたなら何故電話したんだ? お伺いを立てたってことだろう!」カウンターから身を乗り出して受付嬢を睨みつける。

受付嬢は庵を怖がって何も言えなくなってじっと庵を涙目になって見ている。

きっと鬼の形相になっていたかもしれなかった。

「失礼する」そう言って、兎に角会いに行こうと受付を無視してエレベーターへと歩き出した。

愛葉も後をついてきた。

「あっお客様お待ちを……勝手に入られては困ります」悲鳴のように叫ぶ受付嬢を無視した。

エレベータのボタンを押した。

エレベーターに乗ったらどうせ最上階だろうとあてずっぽうに五階を押す積りでいた。

「ダメです。止めてください」受付嬢が庵とドアの間に立とうとするので、肩を押さえて脇へ押し出す。

「きゃっ」悲鳴をあげて倒れる受付嬢。

その声で警備員がふたり駆け付けてきた。

「どうしました?」

「お客様が静止を振り切ってエレベーターに乗ろうとするので、止めようとしたら突き飛ばされて……」と受付嬢。

「えっ突き飛ばしてなんかいない。ちょっと脇へ押しやっただけだ」庵は反論する。

「お客さん! 受付がダメだと言ったらエレベーターに乗るのは諦めて下さい」警備員が言う。

「だから、庵が来たと言ったらあのクソ社長は必ず会うって言うはずだって言ってるだろう!」

庵もムキになって警備員を押しのけてエレベータに乗ろうとする。

ふたりの警備員も力で庵を押さえようとする。

愛葉はエレベーターが降りてくるのを待っていて、ドアが開いた瞬間警備員の間を縫って乗り込んで「あなた、乗って、早く」と叫ぶ。

庵は無理矢理乗ろうとして警備員を引きずるようにエレベーターに一歩踏み込む。

そこへ数人の社員が通りかかって、警備員に声を掛けられ庵を外へ出そうと着物を引っ張る。

中から愛葉が庵の着物を掴んで引っ張る。

大騒ぎをしているうちに警備員の掴んでいた庵の袖がビリビリと破けてしまう。

「あーお前この着物いくらすると思ってんだ。弁償だ! 弁償しろっ!」

庵はその警備員に掴みかかる。

腕を伸ばしたら誰かの顔に当たった。

「いてぇっ!」誰かが叫んで庵が殴られた。

「何すんだ!」相手かまわずパンチすると誰かに当たって……。

それを押さえようと警備員と社員と愛葉とごちゃごちゃに混じってエレベーターは使えない状態になった。

騒ぎを傍観する社員も大勢集まってきて、誰がどこで何の騒ぎを起しているのか分からなくなってしまう。

その騒ぎが何分続いたのか分からないが、遠くから複数のパトカーの近づく音が派手に聞こえてくる。

 

 警官が社員を離れさせ庵の前に立つ。

顔を見ると遺体に立ち会ってくれた警官だった。

「あなたは、愛蓮の遺体に……」

「あぁ庵さんですか。どうしたんですこんなところで?」

「ここの社長が犯人。いや裏でやらせた黒幕に違いないんだ。だから……」

警官は頭を掻きながら

「庵さんは茶道の家元さんでしたよね。少し落ち着いて貰えませんか?」

そう言われて愛葉と目を交えて「あぁ恥ずかしいところを見られてしまった」

破れた袖を手に持ったまま頭を下げる。

口元に血が滲んでいて愛葉がティッシュで拭ってくれた。

愛葉もすっかり興奮していた自分を恥じたのか顔を染めている。

一緒に会社を出て渋谷署で一連の話を聞いてもらった。

それで気持は落ち着いたが、逆に復讐心はメラメラと燃え上って行った。

 

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