第7話 浅草

 北海道旅行からひと月が過ぎた。

一心が寒いと言いたくなるような四月の北海道の涼しさに比べ、浅草の五月頭の大型連休明けはすでに暑い。

二十年以上住んでいて慣れているはずでも暑いものは暑い。

一心がぶつくさ言うと

「そないにごちゃごちゃ言わいでも、初夏なんやから仕方おまへん。それとも北海道に引越でもしまひょか?」静が言う。

「いやいや、北海道の冬の寒さは半端じゃない。生きてく自信が無い」

「何言うてますのん、何百万人もの北海道のおひとにそないに言ったら済まん思わはらしませんか?」

「まぁそこに住んでる人は寒いのに慣れてるからな」

「せやかて、あんたはんは暑い東京に慣れたりしないんどっしゃろ?」

「わかったよ、もう、暑くない!」

喋りじゃ静に叶わないのは百も承知。一心は手早く引き下がる。

 仲見世通りで買った団子を持って、首を長くしている子供らの待つひさご通りの岡引探偵事務所に向かって仲良く歩いていた。

 雷門通りを曲がってすぐ、若い女性が数名の男に絡まれ黒のワンボックスカーに無理矢理連れ込まれそうになっているところに出くわした。

「いやです。離して!」

女性は嫌がってもがいている。

一心がそう思った時、すでに静は男らの真ん中へ突っ込んでいった。

「その手を離しよし!」

怒鳴る声と共に男を突き飛ばして女性の手を握り自分の後ろへ。相変わらず素早い。

男はバランスを崩したが、体勢を立て直してすばやく振返り

「何すんだ!」叫んで静を見てにやついて「邪魔すんなおばさん!」

ほかの男らもみんなにやついている。

完全に口うるさいおばさんだと舐めてかかっているようだ。

 ――あぁやばいなぁ……舐めてかからなくってもやられるのに……

男の静に向けて突いた手が空振りしてつんのめる。その男の背を静がちょんと押すと、男はアスファルトに口づけでもするかのような恰好で顔面をアスファルトに擦り付けて悲鳴を上げる。

「何しやがるこの婆ぁ!」

別の拳が静の顔面に飛ぶ。すでに遠慮会釈もなくなっているようだ。

殴られたっと思った瞬間頭を下げて静得意のアッパーが男の顎に命中し、骨の折れるような鈍い音がして男は後ろへ綺麗な円弧を描いてぶっ飛んだ。

まだやられていない男のひとりがナイフを取り出して気合と共に静に斬りつける。

その手首を左パンチで叩くとナイフが宙を飛ぶ。

男が驚いた顔をするのと同時に右フックが男の顔面に激突! ガギッと音がして鼻血をだらだらと流す。

様子を見ていた残りの二人は「行くぞ、早く乗れっ!」

叫ぶと同時に車を走らせる。

乗り遅れた鼻血男が「待ってー」と何回も叫びながら車を追ってダッシュ。

「怪我はおまへんか?」汗一つ掻いていない静。

ボクサー色に染まっていた静の目が元の優しい目に変わって女性を気遣う。

「静は大丈夫か?」

遅ればせながら静の華麗な動きに合わせシャドーボクシングの真似をし、薄っすら汗を光らせる一心が声をかける。

「へぇおおきに」と静は答え、当たり前だと言いたげな顔を一心に向けたが、すぐに視線を女性に戻す。

女性は顔色を無くしぶるぶる震えながら何回も頭を下げる。

「なんや危ないよって家にお寄りなはれ」

女性は困ったような顔をしていたが

「大丈夫、今浅草署の警部来るから事情話してあの男ら捕まえて貰おう。俺ら仲いいんだ警察と……」

一心はそう言って名刺を出して、探偵の岡引一心と名乗り、助けた女性は妻の静だと紹介した。

 

 程無く浅草署の丘頭桃子(おかがしら・とうこ)警部が数名の刑事を引きつれてやってきた。

「一心、その娘?」

「そう、話聞いてやって……」

警部が手帳を開いて女性に見せて名前を訊く。

女性は庵華蓮と名乗った。

「警部、俺らの証言もあるだろうから事務所で団子食いながら話さない?」さっき買ったばかりの団子を高々と持ち上げて得意気に示す。

「あら良いわねぇ、じゃ華蓮さんパトに乗って、一心の事務所で話を聞くわ」

普通なら有り得ないこういう行為も岡引一家と浅草署の間では普通なのだ。

 

 事務所で静の淹れたコーヒーを一家と浅草署三名と華蓮の九名で啜りながら事情を聞く。

華蓮はカップを両掌で持って「あーあったかーい」と言って、ふーと大きく息を吐き出した。

少し落ち着いたのか頬に生色が戻る。

「……そうしたら、その建築屋の嫌がらせのひとつだと思うんだね」

警部の問いに華蓮が頷いた。

「その会社に警部が行って圧掛けた方が良いんじゃないか? 俺、さっきの車の車番メモしてるし、静のパンチ食らった男は鼻折ってるから病院へ行ったはず、お面付けてるからすぐ分かるよ。一緒に俺と静行ったら話早いと思うんだけど」

一心が言うと静もそうだと言う。

「華蓮さんは行かない方が良いけど写真だけ撮らせてね。それとこの被害届書いてね」

警部がスマホで写真を撮り、テーブルに被害届を置く。

数馬が、華蓮が被害届を書いてから家まで送ることにして、警察三名と一心、静の五名で港区の引地建設(株)へ向かった。

 しかし、夕方五時を過ぎていて玄関に鍵が掛けられ、灯りも点いていない。

「あー警部ダメだ明日の朝一で来よう。ずいぶん早く帰ったな……」

ちょっと疑問を感じる一心だった。

 

 翌朝、そのビルの前にパトカーと一心の車を停めて中に入ると受付のお嬢さんが、用件は? と訊く。

警部が手帳を開いて、「事件の捜査です。社長にお目にかかりたい」と告げる。

慌てた様子で内線でなにやら話すと「こちらへ」と先に立って歩き出した。

応接室か会議室へでも案内するのだろう。

エレベーターで五階へそして社長室の隣の「応接室」と札のある部屋に案内された。

警部と一心、静は席に座り刑事は立って待つ。

 

 真っ黒な顔のがらがら声の小柄な男が引地だと名乗り名刺を五枚出して夫々に配って歩く。

そして、でんと腰を下ろして「事件ですか?」とは白々しい。

「誘拐未遂事件その他です。この車はお宅の会社のものですね?」

写真を一枚出して警部が問う。

「どうかなぁ……」

あやふやな返事をする社長に「ここへ来る前に運輸局へ確認したし、ここの駐車場にこの車があることを確認してきているんだけど、違うと仰るんですね」

引地を見詰める警部の冷ややかな目がキラッと光る。

「いえ、ちょっと認識が無かったもので、そちらで確認済みならそうなんでしょう」

「いえ、社長がご自分で確認してきてください。後でそれは警察が言ったことだと言われてもこちらも困るんで」

面倒くさそうに引地は立ち上がって部屋の隅に置かれている内線電話に何やら喋って戻る。

すぐに社員が書類を持ってきた。そして社長の横に座ってページを捲る。

社長に言われてその車番を探しているのだろう。

やがて「あーありますね。うちの車です」と言って社長に見せる。

「うちのだ」と社長が言うのを待って警部が言った。

「じゃ、ここの男性社員の社員証でもなんでも良いので顔写真を見せてください」

「うちの社員が何かしたのか?」

「だから、始めに言ったでしょう誘拐未遂その他って」警部の威圧的な言いようにたじたじとする引地。

「我社の社員がそんな事するはず……」

喋りかける引地に、「ごちゃごちゃ……」と警部が大声で話し始め引地の言葉を遮る。

「ごちゃごちゃ言わないで、さっさと持って来て!」

厳しく命じた。

「嫌なら、令状持ってくるわよ! それとも犯人隠避であんたも逮捕するかい?」

そう続けて言われて引地はびびったようだ。

また内線電話で指示する。

バインダーを五冊持ってきたので一心と静が見る。

が、該当する人物は居なかった。

「これで全部か?」厳しい警部。

持ってきた社員が「間違いなく全部です」気を付けの姿勢を崩さずに即答する。

しばし沈黙が続く。

「車両運転日誌を出して下さい」警部が再び命じた。

社員が「はい」と元気よく返事をして部屋を出、暫くして十冊以上の日誌を持って現れた。

「ふふふ、誰がこんなに持って来いって言いました? 社長さん車が特定されてるんだからその車の日誌だけで十分でしょ。それとも捜査妨害しようとしているのかしら?」

ぎろりと睨まれ流石の引地も顔を強張らせている。

「ばかやろっ! そのくらい分からんのかっ!」

怒鳴られた社員は小柄な体をさらに小さくして微かに謝る声が聞こえた。

警部が該当車の日誌を開いてページを捲ると前日の記録に見つけたようだ。

「下請け会社に<高科土建>ってあるんですか?」警部が運転日誌の使用者欄を指す。

頷く社長に「その会社の場所は?」

「北区の川縁だよ」

警部はその日誌のコピーを取らせて「今いるかな?」社長の顔色を見る。

「あぁ今日は休みのはずだからいるんじゃないか」

自宅の住所と携帯番号も聞いて北区へ向かう。

 

 三十分で十キロ余り離れた北区のその住所に着く。

目的の会社はプレハブで資材置き場の片隅にあった。

玄関を入ると、いきなり顔にフェイスガードをしている男がソファで寛いでいる。

警部が一心と静を見たのですかさず頷く。

「あんた名前は?」

警察手帳を見せて訊く。

男は逃げ出そうとしたが静がいることに気付いて大人しくソファに座り直す。

「そうだな。これ以上どっかの骨折られたら堪んないもんな」一心が笑って言う。

「女性を襲った時のメンバー集めて」警部は無慈悲に言う。

男が立ち上がろうとするので

「携帯で呼んで!」と圧をかけて警部が言う。

五分程であの時のメンバーが揃った。

静がいることに全員が気付き何も言わずに両の手を差し出した。

手錠を掛けられ刑事に背中を押されながらひとりが静の方を見て「おたく何者よ?」と訊く。

「あては探偵で主婦どす」静は優しい声音で言う。

一心は笑いながら「だけど、プロのボクサー」と付け加えた。

男は納得した様子で項垂れて出ていった。一心も静を促して車に向かった。

「これで、嫌がらせは止まるな」一心が言うと「せやろか、もっと凶暴にならへんかいな……」

何故か心配そうな静だった。

 

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