第6話 茶道教室
早春から晩春へ、そして初夏へと時節が替わり始めた頃、庵の渋谷別宅に数人の客があった。
一週間ほど前にも訪ねたという客は是非と言って「忙しくて会えない」と言う家政婦を困らせ庵が会うことになったのだった。
庵はその客を十分ほど応接室で待たせて用件を訊くために対座する。
丁寧に挨拶をする男の差し出した名刺には、<引地建設(株)代表取締役社長引地慎吾(ひきち・しんご)>と書かれている。ゴルフ焼けなのか真っ黒な顔に吊り上がった細い目、筋肉質だが小柄な男だ。
もう一人は高科陽昏(たかしな・ひぐれ)と名乗ったが名刺は「引地建設の下請けなので……」といって出さなかった。
ソファに座らずふたりの後ろに立っているのは、サングラスをしたまま腕組みをし大股開きで威嚇しているようにさえ思えるむくつけき大男だ。
「で、ご用件は?」
良い話ではなさそうだと思いながらも応接に通した以上訊かざるを得なかった。
「はい、お宅はかなり広い土地に純和風な佇まいですな。結構結構」
引地は嫌らしい笑みを浮かべる。
「で?」
「ある企業がこの辺りにショッピングモールを建てたいという話を持ち込んできて困っちゃいまして、なんてたってこの辺り空き地なんかありゃしません。百坪くらいの個人宅なら良いんでしょうが、数百坪、いや、千坪を超える様な土地となると無いんですよ」
冗談なのか本気なのか分からないような引地の言い方を、庵は、難癖をつける切っ掛け作りの為に言ったのかもしれないと思い、一層警戒心を強くした。
「モールを造りたいと仰るのはどこの企業なんでしょう?」
「ふふふ、それは言えんです。まだ、話ですから。でどうでしょう、この土地私に売りませんか?」
庵はそんな事かと思って
「申し訳ない、ここで茶道教室を開いていて、わたしの家でもあるんです。とても聞ける話じゃありません。お引き取り願いますか」
さらっと流す。
「随分とつれないなぁ……これでも私、この業界では有名人なんですがねぇ」そう言って庵をじろりと睨み「……そんなにあっさり断られたんじゃ立つ瀬がない」と言葉を続けた。
「あなたがどういう立場なのか知りませんが、こういう話ははっきり言った方がお互いの為だと思いますが?」数千人の弟子を抱える家元として、こんな奴らの言う事に動揺していては示しが付かないと思い堂々とはっきりと言い切った。
「良いんですかそんな態度で? 後で後悔することになるかもよ……」
引地は不敵に微笑んで立とうとはしない。
「じゃ、お引き取りを」
庵が立ち上がって出口へと進みドアを開けて手振りで退出を促す。
「話の分からんお人だ」
そう言って庵を睨みつけるが、庵は無視して姿勢を崩さなかった。
しばしにらみ合いが続いていたが、どう思ったのか引地が腰を上げた。
それから数日して、教室に来た娘さんらが師範である華蓮に挨拶もそこそこに
「先生、近くまで歩いてきたら怖そうな男の人がついてきて’どこ行くの?’とか話しかけてくるんです。茶道教室だと答えると’そんなとこ辞めて遊ぼう’って着物の袖掴むんで、走って逃げてきたんです。怖かったぁ」
華蓮から聞いた庵は外へ出て見る。
サングラスの男が生徒にまさに声を掛けようとしているので
「兄さん! ちょっとそこのサングラスの兄さん!」
大声で呼ぶと男が振返る。
「うちの生徒さんだから声かけるの止めてもらえるかい」
そう叫んで男に近づくと男はさっと身を翻して立ち去った。
「久美ちゃん大丈夫? 何かみんなに声かけてるみたいなんだ。ごめんね、怖かったしょ?」
彼女はかぶりを振ったが顔が引きつっている。
帰りはみんなに一緒に帰るように言って、夕食の時妻や娘にその話をする。
「私も変な男に声かけられた」と娘。
「私は変なナンパだなって思ったけど久しぶりだったのでちょっと嬉しかったわよ」
妻は笑いながら言った。
「こないだここ売れと言って引地という建築屋が来たんだけどそいつの嫌がらせかなぁ」
庵はあの真っ黒い顔を思い浮かべた。
「それって地上げ屋って話?」
「かどうかは分からないが、ちょっと隣に聞いてみるか……」
外に出るとまたサングラスの男がいる。
庵がじっと見てると男は立ち去る。それから隣近所に訊いて回った。
「隣も向いもそんな話聞いてないって」外から戻った庵は妻と娘に報告する。
「生徒さんに何かあったら大変だからあなたその時間になったら外へ出てあげたらどう?」
妻に言われて庵もそうだなと同意した。
二週間が過ぎてもナンパ男は毎日出勤してくる。
交番へ行ってその話をするとその時間に警官が巡回してくれるようになったが、その時だけいなくなったものの、またすぐ何処からともなく姿を表す。
この教室に通う生徒は延べ二百三十人ほどいる。その生徒さんを守るため庵は送迎バスを走らせることにした。
それでナンパ男は姿を見せなくなったが、塀に若い女性が忌み嫌う様な性表現の落書きが始まった。
それには監視カメラで対抗した。
そしてその映像を証拠として警察へ被害届を出した。
それが落ち着いたと思ったら、朝玄関の方から女性の悲鳴が聞こえた。
バスから降りた生徒さんが門を潜ったところで血だらけの猫の死骸を見つけたのだった。
庵は現場写真を何枚も撮ってから警察へ通報した。
通りに設置した監視カメラに乗用車が写っていて、サングラスの男が黒いビニール袋を抱いて門の中へ入ってすぐに出てくる。
その時には袋を小さく丸めて持っていた。
警官も「その男が猫を捨てたんだねぇ、動物の愛護及び管理に関する法律違反になるし住居侵入罪にもあたる可能性があるから被害届を出した方が良いよ」と言ってくれた。
数日後映像に写された車番から持ち主が判明して、二十歳の学生がネットの高額アルバイト募集の誘いにのってやったと自供し逮捕されたと聞いた。
それで収まるかと思ったが、何をするわけでもないサングラスの男の姿をちらほらと見かけるようになった。
心配が続くある日の夜、銀座の料亭で茶道連盟の会合があった帰り道、見知った男がふたり飲み屋に入るところに出会った。
その時には誰かを思い出せなかったが翌朝テレビのニュースを見ていて突然思い出す。
「あぁあれ贈収賄事件で騒がれている柴田翔財務副大臣だ!」
妻と娘の三人が突然の大声に食卓椅子から飛び上がる。
「何よ突然大声で……」
「い、いや夕べ会合の帰りどっかで見た男と例の引地建設の社長が飲み屋に入るところを見たんだよ」
「はぁそれが柴田翔だって話なのね」
妻が庵の先回りをして言う。
娘二人は関心が無いのか柴田翔と言ってもピンときていない様子で「誰それ?」
「いや、悪い奴さ。……確か、土村建設という会社が地域活性化の一案と称してテーマパークを作ろうとして国の土地の払い下げを受けたんだけど、国が市場価格の半分近い価格で売却したので国会でも取上げられ問題視されたんだ。その後、ある週刊誌がその売却には柴田翔議員が関わっていて同社から数千万円が議員に流れていると報道された上、同社の社長土村楓(つちむら・かえで)が柴田翔議員の愛人だと別の週刊誌に写真付きで書き立てられ、議員は苦しい言訳をしていたんだよ。さらに検察が捜査に乗り出したという事件さ」
とだけ言った。
――ひょっとしてここを買いたいと言ったのは柴田に関りが? でもどうして? ……
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