第4話 横浜臨海公園
佐田竹郎は北道大学の大学院博士課程を卒業してそのまま当時の物理学教授の助手として働き始めた。
三十代半ばで准教授となり四十三歳で教授になった。
三十三歳の時に宇宙物理学の中原当時は准教授と知合い宇宙空間という一体化した認識から、無限大の「空間」の中に有限の「宇宙」が無数に存在するという考え方に到達し、その研究を続けていた。
私生活では大学院時代に知合った三歳年下の明子と卒業後結婚し長女の恵子が生まれた。
恵子は親とはまったく世界の違う政治に興味を持ち、東京の大学で政治を学びたいと言って家を出た。
四年前の事だった。
その頃佐田は中原博士と空間を構成する素粒子研究の為白老の研究所に泊りがけで行くことが多かったので、札幌にひとり残された妻の明子は娘が心配だからと言って東京の台東区にマンションを借りて娘と一緒に住むようになった。
ひと月に一度は佐田の面倒を見に札幌に帰って来るのだが、佐田が白老へ行っていて顔を合わせることは少なくなっていた。
*
佐田恵子は大学二年生の時に先輩の柴田健治(しばた・けんじ)と知合った。
大学の政治研究会で一緒になって政治の話で盛り上がったし、健治の父親が現職の国会議員だと知って一層興味を持って接していた。
声を掛けたのは研究会の会合を終えて身支度をしているときに健治の方からだった。
「ねぇ、佐田さん、飯食いに行かない?」
「えっ良いけど、誰と行くんですか?」
「いや、ふたりなんだけどダメ?」
恵子には健治がちょっと緊張気味に言ってるように感じたが意味が分からず気軽な気持ちで頷いた。
「じゃちょっと母に夕食外で食べて帰るって電話します」
健治が案内したのはなんの変哲も雰囲気も無い居酒屋だった。
「えっここですか? 私お酒飲めないんですけど」
恵子は誕生日の前でこの時はまだ十九歳だったのだ。
「あっいや、ここの料理色々あって美味しいんで、俺も今日は飲まないから……」
そこでもやっぱり政治の話ばかり二時間語り合った。
別れ際に「また食事誘って良いかな?」と言われ「良いですよ」笑顔で返事をした。
それから、二週間に一度くらい食事をしながら政治を語ることが続いた。
三年生になって「あのー、一歩前進しないか?」
健治に言われ政治への取り組みのとこを言っているのかと思ったので
「お父さんの事務所に行って何かするってことですか?」と訊くと健治は笑って
「そうじゃなくって、俺と佐田の関係さ……」
何か煮え切らない言葉だったが、凡その見当はついた。
嫌いではなかったけど、付き合いたいと思うほどの気持は無かったので
「今のままで良いと思ってますけど、だめですか?」
「お、俺、佐田ともっと親しくなりたいと、そのぉ……思ってて……」
はっきり言わないので「このままにしておいて下さい」と言い切ってしまった。
どうも健治は意志が弱い所があって人に流されることが多いので、好きと言われたら考えるけどそうでなければこちらから積極的に告白するほどの気持は無かった。
そんなことが二回、三回と続いて、とうとう「佐田、好きだから俺と付き合ってくれないか?」
と告られた。
始めは感心が無かったけど、思わせぶりな態度や言葉が次第に恵子の心の中の健治の存在を大きくしていって、何故か待ってましたとばかりに笑顔で「はい」と言ってしまった。
それからの健治は恵子は自分の物だとでも思っているのか、振り回してくる。
三年生も終わりに近づいたころにはそんな健治の作戦にやられて、居酒屋でお酒を少し飲んだあとラブホテルへ行って抱かれた。
恵子もゆっくりだが強く好きだと思うようになってきて、健治の思いのままにされたし、してあげた。
心も身体も捧げた初めての人になった。
卒業が近づいたころには母親にも「恋人です」と照会して、母親の手料理で一緒に食事もした。
ただ、健治の家に呼ばれた時に、お母さんは優しく接してくれたけど、父親は財務副大臣と言う立場になっていて、家の格とか品位とかを喋り恵子を受け入れてくれているようには思えなかったし、父親のいう事に恵子を庇う様なことを一言も発せず頷くばかりの健治が気にはなったが、帰り道そんな話をすると、「大丈夫、俺は恵子のためにこの家を出ても良いんだ」とまで言って恵子を喜ばせたのだった。
卒業が決まってふたりで北海道へ三泊四日の旅行にでた。
途中、札幌に父親がいることを確認したうえで健治に会わせ一緒に夕食を取った。父親も優しく接してくれて恵子は幸せだと心から思った。
その晩は近くの定山渓温泉の温泉付きの部屋に泊まって、ゆったりとお湯に浸かり心も身体も満足する旅になった。
四月から健治の父親の柴田翔事務所の事務員として働くことになっていた。
忙しく働いていた四月の下旬の休みの日、恵子は健治に横浜の臨海公園に連れて行かれた。
大事な話があると言って道中いつもと違って言葉少なだった。
「何? 大事な話って?」
「うん、いや……あのー、……」
「どうした? 言いずらい事なの?」
「あぁ、親父がさ、恵子とさ……何て言うかさ……」
恵子は健治の態度で父親が何を言ったのか想像できた。
「どうして、健治はお父さんの言いなりなの?」
「どうしても、別れろって言うんだ」
「健治は、どんなことがあっても私を守るって言ったよね。あれってその場凌ぎの嘘ってこと?」
「いや、嘘じゃないよ。今でもそう思ってる」
「じゃ、どうして別れるって話するの?」
「だから、親父がどうしてもって……」
「私、嫌だからね……健治が付き合ってって言うからそうなったのに……」
恵子は泣きそうだったけど、理由が父親が言うからなんて子供じゃないんだからと思うと腹が立つ。
無言の健治に「じゃ私、お父さんに直接会って理由を訊くわ。良いでしょう」
「えっダメだよそんな。お父さん忙しいし……」
「そんなの関係ない……」
恵子は健治の言葉を乱暴に遮り健治に背を向けて歩き出した。
腹が立って、色々な事が頭を過る。
……仕事も探さなくっちゃ。
自然に涙が零れる。
そんなに恵子は品のないダメ人間なのか?
父親の言いなりの健治と付き合った恵子自身が悪いのか?
次の日、朝、事務所に退職願いを提出してそのまま帰宅した。
母には話せなかったが、母は恵子が事務所を辞めたと言ったことで想像はついたのだろう、恵子の心を癒すように優しく接してくれた。
それで何日か過ぎてからぽつりぽつり断片的に話をした。
母は黙って聞いてくれて「お母さんはいつでもあなたの味方よ。昔みたいに怒鳴り込むなら、お母さんも一緒に行ってあげても良いわよ」と笑わせてくれたりもしたし、
「癒しの旅も良いかなぁ」恵子が言うと、「いいわねぇ、一緒に行っても良いけど、一人旅の方が傷心旅行って感じでちょっとかっこ良いわね」
そう言ってまた笑わせてくれた。
しばらく経ったある日、仕事探しのためにマンションを出たところで事務所に時折訪れる柴田翔の秘書中野向義徳(なかのむかい・よしのり)と出会った。
ファミレスに連れて行かれてコーヒーを啜りながら中野向が話し始める。
「恵子さんと健治くんの事なんですが……言いにくいんだけど、別れて欲しいんですよ」
恵子はなんで健治との付き合いを秘書まで出て来て言われなければいけないのか理解できなかった。
「健治とのことは貴方にもお父さんにも関係のない個人的な事です。あなたのお話を聞く積りはありません」
そう言って恵子は席を立った。
「健治くんには婚約者がいるんです」
それが恵子の背中に浴びせられた言葉だった。そしてその言葉が恵子の動きを封じた。
「……健治は婚約者がいるのに私と付き合いたいと言った、ということなんですか?」
一拍の間をおいて恵子はゆっくり振向いてそう訊いた。
「そうです。そういう事なんです。だから健治くんも言いずらかった」
中野向は正々堂々正しい理屈を主張しているとでも言いたいかのように胸を張っている。
「どういう女性なんですか?」
「栗原萌絵(くりはら・もえ)という右月総一(うつき・そういち)総理の姪です。二十四歳になるお嬢様です」
恵子はピンときた。よくドラマにある彼女がいるのに良い縁談話があると彼女を捨ててそれに飛び付く輩。
「中野向さん嘘ついてますね。私と付き合っているのにその縁談話が持ち上がって、それが結実すれば総理の縁戚となり、父親の大臣になりたいという夢が現実のものとなる。だから息子を利用する、という事なんですね」
思い切った強い口調で行った。
「ふふふ、頭の良いお嬢さんだ」
中野向はテーブルに封筒を置いてにやりとし
「これは謝罪の意味で健治くんからあなたへの慰謝料だと思って受け取って下さい」
「バカにしないで、お父様に会って直接お話をします」
恵子はかっとしてその封筒を中野向に叩きつける。店員の他に大学時代の友人が店内にいたような気がしたが、やり取りを聞かれていたと思い恥ずかしくてそのまま外へ出た。
そして振返ることもなくハローワークへの道を急いだ。
後から後から溢れ続ける悔し涙を流しながら。
その後ろを尾行する人影にはまったく気付かずに……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます