青翠のにわか雨

雲矢 潮

一日目

 終わらない競争に疲れてしまって、私は静岡の自宅を出た。不慣れな新幹線にもなんとか乗ることができ、私は一路、四国の祖父母宅を目指した。岡山駅で下車し、何度か列車を乗り換えれば、山に囲まれ、青々とした水田が広がる小さな町に到着する。無人の駅舎を出て、スマホの地図と幼い記憶を頼りに歩を進めた。

 舗装された道はやがて、水田や畑の脇を伝って伸びる畦道になった。

 景色が変わっていなくてよかった。忙しなく代謝する都会とはやっぱり違うんだ。

 父方の祖父母の家はやはり自宅に近い街にあるから、すぐに家に戻って来られない居場所はこの四国の母方の祖父母宅だけだ。お祖母ちゃんたちが帰りなさいと言うならば、私は元来た道をトンボ帰りするしかない。

 元々、大した理由があって家を出たわけじゃないのだから。数年ぶりに会うことになるお祖母ちゃんたちは、私を受け入れてくれるだろうか。

 いかにも古風な広い家々がぽつぽつと並ぶ中に、祖父母宅はあった。

 表札は「赤野」。母の旧姓だ。

 冷たくあしらわれるかも知れない。何しに来たの。学校は。すぐに帰りなさい。不安で心臓が鳴った。

 怯えながらも、意を決して呼び鈴を鳴らした。

「……ごめんください。頼羽です。清水頼羽です」

 家はしんと静かで、答えはなかった。見れば、車庫にはあのマニュアルのバンはなかった。二人とも出かけているらしい。

 玄関の脇に座って、帰りを待つことにした。履いているスカートが土に汚れるのは気にならなかった。私は、雲が流れる碧い空を見上げた。空は静岡の街よりもずっと広い。真っ白な雲が、向こうの山々に影を落としていた。

 穏やかな風に吹かれて、木々の枝や稲穂がサワサワとそよぐ。ずっと眺めていても、景色は変わらない。経った時間が数分だけなのか、数十分待ったのか分からなかった。

 家の前に一台のバイクが停まった音がした。

 そしてひょっと姿を見せたのは。

「えっ?」

「頼羽ちゃん? どしたのこんなとこで」

 それは、東京にいるはずの従姉の香奈さんだった。

 私が問いに答えないでいると、香奈さんは何かを言いかけてから一度口を噤んだ。

「とりあえず、中入ろうか。えっと、鍵、鍵……」

 香奈さんはたっぷり数分かけて鞄の奥から鍵を取り出して、家の扉を開けた。カラカラカラと引き戸が懐かしい音を立てた。

「奇妙な出会いだね。まさかここで頼羽ちゃんに会うとはーー」

 香奈さんと私は広い玄関で靴を脱いだ。

「ーー思わなかったよ」

 居間に続く床が、ぎしぎしと鳴る。

 香奈さんとの出会いは、私にはそんなに嬉しくない出会いだ。

 母が姉妹同士で仲が良いから、高校に入る前は頻繁に会っていた。ずっと前から私よりも優秀で、それを誇ってどこか見下すような香奈さんが、私は苦手だった。

 大学は東京に行って、いい仕事に就くーー。そんな香奈さんだから、今この四国の田園にいるのは確かに奇妙だ。

「何か飲み物は、あっ、緑茶なら冷えてるよ。どうする? …………緑茶にするね」

 食器棚から小さなグラスを二つ取り出して、氷の入ったボトルから淡い色のお茶を注ぐ。香奈さんはTシャツにパンツとラフな格好で、長かったはずの髪も短く切り揃えられている。

 とぽとぽとお茶が立てる音が、じっと座っている私の時間を引き延ばしたか、あるいは、押し縮めた。どちらか分からない。ともかく、時間の感覚がおかしくなった感じ。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 私の目の前で、淡緑の液体が揺らめいた。

 香奈さんは、ここにいる訳を訊ねるでもなく、私がグラスを手にとって緑茶を飲むのを眺めた。それから鞄の中のノートパソコンを食卓の上に引っ張り出した。廊下の掛け時計の秒針の音とキーボードを打つ音が、静かでひんやりとした居間に響いた。私はただ俯いたままじっと座っていた。

 一時間も経っただろうか。燃費の悪そうなエンジン音が近づいてきて、家の車庫に停まった。

「お祖母ちゃんたちだね。ちょっと見てくるから」

 やがて引き戸の音がして、お祖母ちゃんと香奈さんの話し声が聞こえた。

 ここに来た理由、ちゃんと話さなきゃ。帰りなさいと冷たく言われるかも知れない不安で心臓が痛い。

「頼羽ちゃん」

 穏やかそうなお祖母ちゃんの声が、私を呼んだ。

「お祖母ちゃん、……お邪魔してます」

「いいえ」

 お祖母ちゃんは、さっきまで香奈さんが座っていた椅子に腰を下ろした。

「あの、」

「よう来たね。えっとぶりに顔が見れて嬉しいわ」

「あの、……。しばらく泊めてほしくて」

「うん。どんくらいおるん?」

「え?」

「理由なんや聞きゃせんわ。お母さんには話つけとくから、ゆっくりしていき」

「あ、ありがとうございます」

「ほんで、どんくらいおるんや?」

「えっと、」

 私は学校を無断欠席している。欠席日数が足りなければ進級できなくなる、その期限は。

「一週間だけ」

「一週間な。ほな、お母さんに電話してくるけんな。ここにおる間は、どう過ごしてもええよ」

 そう言って、お祖母ちゃんは席を立った。お祖父ちゃんは、あちらの椅子で目を閉じて息を吐いていた。

 ひょっと香奈さんが顔を出した。

「頼羽ちゃん、部屋、僕と一緒で大丈夫?」

「え、あ、はい」

「荷物置いてこよ。手伝うわ」

「これひとつだけなので……」

 無造作に床に置かれたリュックサックを指した。

 香奈さんが使っている部屋は、階段を上がって一番手前にあった。和紙の匂いがする障子がすぅーっと開いた。畳の部屋は整然と片付けられていて、すっきりしている。もう一人泊まるくらいの余裕はあった。

 苦手な香奈さんと同じ部屋で寝るのか。

 ここに来てから香奈さんは優しく接してくれたけど、それでも少し落ち着かない気がする。

 でも、それよりも。

「……香奈さんって『私』じゃなかったっけ」

「布団は押し入れの中にあるから」

「わぁっ」

 いつの間にか、香奈さんが部屋の入り口のところに立っていた。

「ごめん、驚かせようとしたわけじゃないんだけど。明日からは僕の服そのまま使っていいよ。僕低身長だから、多分頼羽ちゃんも着れると思う。さて、」

 香奈さんは、にこっと笑って言葉を継いだ。

「頼羽ちゃん、ちょっと出かけない? 夕方までまだ時間あるからさ」

「えっ?」

「ほら、せっかくこんなところまで来たんだから、家にいてばかりじゃ勿体ないよ」

 私の心の中には、家出した解放感と後ろめたさが雑居していた。正直、家に一人で籠っていたかった。でも、昔とは変わった香奈さんにちょっと好奇心もあった。

「別にここで過ごしてもいいけど。どうする?」

「行きます」

「おっけー。お祖母ちゃんにバン借りるから、先外出てて……って。服汚れてるじゃん」

「あ」

 玄関先で待っていた時だ。

「ふふ。もう僕の服着ちゃって」

 香奈さんは部屋の小さな棚を漁り始めた。

「そうだなぁ、これとか」

 取り出したのは、しっかりした薄褐色のパンツだった。

 記憶の中の香奈さんはいつもスカートで、パンツを履いていたことはなかったけれど、今はパンツの方が似合っている。

「はいこれ。そのスカートは後で洗濯すればいいから。あとは、これ羽織って行こう。……うん、大丈夫。似合ってるよ」


 お祖母ちゃんに鍵を借りて、バンに乗った。古びたマニュアル車は数年前と変わらず、色んなものが手動だ。香奈さんが鍵を捻ってエンジンを始動させた。

 いつの間に運転免許を取ったのだろうか。

 マニュアル車の変速装置の操作はよく分からない。香奈さんは左手でレバーをガタガタと動かし、バンを後退させた。慣れた手つきだ。

「お祖母ちゃんいつも頭から入れるからなぁ。出す時が面倒なんだよね」

 ギアをもう一度切り替え、バンは水田の間の畦道を山の方へ走り出した。

 車内はしばらく沈黙の時間が続いた。香奈さんが私に家出の理由を訊ねないから、私も彼女の変化について聞けなかった。

 すると、香奈さんが突然口を開いた。

「頼羽ちゃん、僕のこと好きじゃないでしょ」

「あ、え、は、はい」

 思わずそう答えてしまった。

「やっぱりそうだよね。……前まではさ、頼羽ちゃんも僕も、似たもの同士だったと思うんだ」

「似たもの同士?」

「うん。二人とも、優等生してたでしょ。僕はずっと負けず嫌いだったから、年下の従妹に負けるものかっていうモチベーションもあったんだよね。それで頼羽ちゃんと会った時はいつも見せつけるようなことしてさ」

 私は以前のことを思い出した。

 いくら私が優秀な成績を残しても、香奈さんはいつもそれを越してきた。競争は同級生とだけではなくて、香奈さんともそうだった。負けるのが悔しくて、彼女への苦手意識は募るばかりだった。

 確かに、私たちは似たもの同士だった。

「世間知らずだったなって。ずっと学力ばかり見てたけど、それだけじゃないんだよね。それに気付いて、今ここにいるんだ。いや、ここに来てから、ほんとにそれに気付かされたのかも」

 香奈さんはもう競争から抜け出して、自分の道があるんだ。

 羨ましいと思う気持ちもあれ、また私の先を行くんだと少し嫌になった。

「頼羽ちゃんはどうかな。ここに来た理由、聞いてもいい?」

「……香奈さんみたいな、大層な理由じゃないです」

「そっか。おっと、もう着いちゃった。また今度にしよ。今はほら、センス・オブ・ワンダーを楽しもう」

「ここ、どこですか?」

 私たちは、山の中の小さな谷川を見下ろしていた。

「糸岐川だよ。お気に入りの場所なんだ」

 水の音は、さらさらと谷間を駆ける。ごつごつした岩が流れる水を割る。両岸では目一杯の傾斜の上で、青々とした木々が育っている。細い道路は斜面に沿って伸びていて、途中で曲がって見えなくなった。

「と言っても、町の人はみんな知ってるんだけどね。夏は、蛍が見れるんだ」

 私はそのせせらぎを見つめていた。水の流れは絶えないけれど、それは常に変わっていって、一時として同じにはならない。

 足下が何かそわりとして、ふと目を落とした。

「ひゃっ」

「ん? ああ、カニだね」

 香奈さんはしゃがんで、そのカニをじっと見た。

 カニは香奈さんに向かって小さな鋏を振って威嚇している。

「多分サワガニだね。サワガニさーん、こんにちは」

 カニは彼女の挨拶に応えず、いきなり走り去って岩の隙間に消えていった。

 なんだか愛想の悪いカニだ。

「ね、ここ綺麗じゃない? 賑やかで落ち着くよね」

 問われて、私は周囲を見回した。

 緑に輝く葉々が風に吹かれ、木漏れ日の陰を揺らしている。

 澄んだ水が、岩を濡らして流れ去る。

 虫が飛び回り、カニが走り回る。

 谷川は静かなようでその実、活気に溢れている。

「そうですね」

 私は香奈さんの問いに、努めて素っ気なく答えた。

 心がざわざわと波打ち、震えていた。

 私は、山や空気、水、太陽、生き物たちが織りなす協奏を目にしたのだった。それは都市の忙しなさと似て非なるもの。それでいて、人の営みとは異質なようで、実はひどく似通った喧騒だ。

 耳障りに五月蝿い都会から逃げてきたと思った。

 でも本当は、生命ある場所はどこでも賑やかだ。


~頼羽母と祖母の電話~

祖母「もしもし、友里ちゃん」

母「お母さん? どしたの、今ーー」

祖母「頼羽ちゃんが家に来とってね。一週間だけ泊めてくれって」

母「嘘でしょ。頼羽、お母さんのとこまで行っちゃったの? ほんとにもう……。いや、困惑してるのよ、私も。あの子が家出なんてすると思ってなかったから。あの子、なんて言ってた?」

祖母「子の心親知らずやね。理由は聞いとらんわ」

母「困るわ、すぐ帰してもらわないと」

祖母「今は香奈ちゃんと外出とるわ。あの子も状況を分かって一週間言うたんやろ。ほなええわ、好きなようにさせよう思て」

母「お母さんって放任主義だっけ」

祖母「歳いったら分かるようなったけん。教育は押し付けるもんちゃうわ、助けるもんやて。昔はごめんな、苦労したやろ」

母「ふふっ。謝らないでよ、感謝はしてるわ。お母さん、変わったわね。分かった、一週間は待つことにする。寂しくなるけどね。頼羽を頼みます」

祖母「はい、分かりました」

母「ちなみに、香奈ちゃんもそっちにいるの? 東京で大学生してるものだと」

祖母「うん、おるよ。休学して、見つけたいものがここにあるんやて。楽しそうにしとるよ。頼羽ちゃんも来て、家ん中が賑やかになりそうやわ」


 糸岐川から帰ると、お祖母ちゃんが夕飯を作り始めようとするところだった。

「僕手伝いますよ」

「ありがとね。なかなか帰ってこんから、一人で作ろうとしよったわ」

「頼羽ちゃんも来て。これ着て、そうそう。よし、お祖母ちゃん、何作るの?」

「食べる人が増えたけん、とりあえずカレーにしよか」

「おっけー、頼羽ちゃんはどこまでできるかな? 炊飯器使える?」

「それくらいなら……」

「じゃ、お願いしまーす。四合ね」

 米びつはあの棚の中にあるから、と台所の一角を指す。

 炊飯器の釜に、透けるような米を注ぐ。水道から水を入れて、ーー腕をまくりーー力を込めてリズミカルに米粒を洗う。手のひらのざらざらとした感触が心地いい。二度洗ってから釜を炊飯器に戻し、あとは炊き上がるのを待つだけになった。

 私がそうしている間に、お祖母ちゃんと香奈さんの二人は、あらかたの作業を終わらせていた。

「あとはルー入れるだけだから。先に座ってていいよ」

「えっ、でも」

「楽だからカレーにしたんだよ? 明日からは仕事増えるからね」

「……はい」

 お客さんになるのは嫌なんだけどな、と口の中で呟きながら食卓の席についた。

 いつもはこうやって空いた時間ができた時はスマホを開いて、クラスの噂話や学校の愚痴に目を通したり、誰かが撮った写真を流し見したりした。でも今、部屋にあるリュックサックから取り出して電源をつけるのはちょっと億劫だった。

 やがて少し嗅ぎ慣れない匂いのカレーの皿が並び、皆が席についた。

「いただきます」

 出来たてのカレーは湯気を立てて熱々だ。小さなジャガイモの塊が口の中でほろほろと砕け、鶏肉は歯を立てると簡単に裂けた。この家に来て最初のご飯は、とても美味しかった。

 片付けを済ませ、お風呂から出ると、私は香奈さんに誘われて二階の部屋に上がった。

 香奈さんが窓を開けると、耳を衝くような雨蛙の合唱が聞こえた。

「これ、どこから聞こえてるんですか」

「田んぼからだね。梅雨前になると雨蛙は繁殖期になる」

 大きな窓からは、涼しい風がそよそよと吹き込んできた。

「頼羽ちゃん」

 いつになく真面目な声に振り向くと、香奈さんはじっと私を見つめていた。

「お昼、ここに来たのは大層な理由じゃないって言ってたよね。でも僕思うんだ、本当は頼羽ちゃんは何か抱えてるんじゃないかって」

 日中の発言の奥を見透かされ、背中を一筋、汗が伝った。外の風に吹かれて揺れたシャツが濡れて気持ち悪い。あのとき私は、自分の先を進む香奈さんに、自分のことを打ち明けたくなかったんだ。同じ道を行く彼女に理解されるのが嫌だった。

「好かれてないのは分かってるからさ、僕に言わなくたっていいよ。でもね」

 香奈さんは窓辺に並んで、雨蛙の声に耳を澄ました。

「ここにいる間、それから逃げないで欲しいんだ。ここならきっと答えが見つかるから、自分で考え抜いて欲しい」

 私は頷くこともせずに彼女の声を聞いていた。

「頼羽ちゃんの悩みは、頼羽ちゃんのものだから……」

 彼女は少し考えてから付け足した。

「……僕のものじゃないからね」

 もう寝ようかと促されて、私たちは会話のないまま床に就いた。

 布団に入ると、意外に心は落ち着いていた。自分の生きる世界から抜け出してきたのに、不安感で細波立つことなく、まるで何かを受け入れるのを待っているように、穏やかに揺蕩っている。

 やがて隣から規則的な寝息が聞こえてきた。

 明日、香奈さんに話そう。

 決意は自然と浮かんできた。

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青翠のにわか雨 雲矢 潮 @KoukaKUMOYA

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