マトリョーシカのおなか
松原凛
マトリョーシカのおなか
あの家の玄関には小さな守り神がいる。ドットに花柄の赤いずきんをかぶって首のところできゅっと結び、水色の上着に黄色のスカート、黒目の大きな瞳、りんごみたいな真っ赤なにちんまりとしたおちょぼ口。ふたを開ければ中から次々と小さな人形が出てくる極彩色の入れ子人形。ロシアの伝統的な民芸品、マトリョーシカだ。
私たちはもちろんロシアなんて果てしなく遠い場所には行ったことがないし、それどころかこの島国から一歩も外に出たことさえないし、だれかのロシア土産でもないけれど、私が産まれたときからそれはずっとそこにあり、あの家の玄関をつぶらな瞳で見守っていた。
母の言うところでは、二十八年前、つまり私が産まれるより少し前に出て行ったきり帰ってこない私の父の、最後の置き土産であるらしい。
『一番小さな人形に願いを込めて息をふきかけて、ふたをしてまた元通りにしておくと願いがかなうんだって』
輪郭のないぼんやりとした声が、記憶の彼方でふと蘇る。
人形は全部で五体、赤と黄色のずきんを交互にかぶり、一番小さいのは、ごま粒みたいな目鼻をした水色のおくるみの赤ん坊だ。昔はその小さな赤ん坊を手のひらに乗せて、大事な秘密を打ち明けるみたいにそうっと息を吹きかけてみたこともあった。
ひとりの部屋で朝目が覚めて、なぜかふと、あのマトリョーシカが恋しくなった。逃げるように出てきたあの家に帰りたいわけじゃない。けれども、家の扉を開けた瞬間、その存在を主張するように、鮮やかに目に飛び込んでくるあの小さな守り神に、無理に縋りつきたくなった。
早朝のトイレの中で、私は、それほど動揺していたのだった。
どこかで聴いたことのあるようなクラシックが、行き交う声量を邪魔しない程度の控えめな音量で流れている。爽やかなレモングラスの香り、座ると腰が深く沈む柔らかなソファ。土曜日とあって、待合は混み合っていた。ほとんどが私のような三十代前後の女性だが、学生に見える若い女の子や、中年女性も数人いる。誰もが今の私——無意味に雑誌を開いたり閉じたり、何度も水を飲みに立ったりしている——よりは、ずっと落ち着いて見える。
「板倉さん。板倉理代さん」
呼ばれて、私はぎくしゃくと診察室に入った。
「まず内診をしますので、そちらにどうぞ」
眼鏡をかけた温厚そうな医者に促され、奥の部屋に向かった。真ん中に奇妙な形状をした椅子が一台と、荷物を入れるカゴがある。ショーツを脱いで座ってくださいとカーテン越しに看護師に言われ、戸惑いながら従う。腰を下ろすと椅子の下部がゆっくりと持ち上がり、グィーンと足が左右に開かれ、捕獲されたエイリアンみたいな気分に私はなる。
「おめでとうございます。5週目に入ったところですね」
まるで朝の挨拶でもするような口調であっさりそう言われて、私は固まる。覚悟はしていたけれど、いざ面と向かって言われるとどう受け止めていいのかまるでわからない。
「聴こえるかな。ほら、心臓の音」
医者の声に、私はじっとモニターの白黒映像を見つめる。どく、どく、どく、と規則正しい音が聴こえる。音に合わせて影が動く。私の体の中に、もうひとつ、心臓の音がある。信じられない。
「体調はどうですか。なにか変わったことはありませんか?」
「いえ、とくには……」
「悪阻がない人もいますよ。体質や体調によって人それぞれですから。でも、なにがあるかわかりませんから、注意はしてくださいね」
それから別室でいくつか書類を書き、助産師から十分ほどの説明を受けて、待合室に戻った。落ち着かない心地でぼうっと座っていると、バスケットボールを詰め込んだようなまるまるとしたおなかの女の人が、目の前を横切ってゆく。私はその膨らみをじっと見つめた。私も、何ヶ月後にはああなるのだろうか。この平坦なおなかが、あんなふうに。まるで想像できない。どうしてみんな、そんな重いものをかかえて落ち着いていられるのだろう。
私は、動揺していた。朝のトイレで検査薬を握りしめていたときより、バスでここに向かうときより、ここにいる誰よりも、たぶん、動揺している。
板倉さん。板倉さん。声にはっと顔をあげると、看護師がじれったそうにこちらを見ている。
すみません、と私は早口に言って受付に急いだ。
月に二度、修が車で帰ってくる。修の半年間の出張が決まったとき、一応そういう取り決めのようなものはしていたけれど、先月は研修や飲み会が重なったとかで一度しか帰ってこなかった。
今日は土曜日で、修は昼過ぎに着くと言っていた。修の車のエンジン音は、グオオン、と猛獣みたいに唸るのですぐにわかる。十代の頃から変えていないという、田舎のヤンキーみたいにマフラーを改造したヴェルファイアに乗っているのだ。私たちが生まれ育ったこの町はたしかに田舎だが、修はヤンキーでも元ヤンでもなくごく普通の二十六歳の会社員だ。元ある形を自分好みにカスタマイズするのが好きだというが、私にはその魅力がちっとも理解できない。
私たちは地元の自動車メーカーに勤めていて、修は私の後輩にあたる。部署が違うので普段は滅多に顔を合わせることもなく、仕事のやりとり以外で話したのは年末の合同忘年会が初めてだった。
『よかったら、一緒に飲みませんか』とビールのグラスを片手に、修が隣に座って言った。『俺、佐山修っていいます』
少しはにかんだその顔が、近所の柴犬に似ていると思った。短い茶髪に素朴な顔立ちが、そう思わせたのだろう。私たちはグラスをかつんと合わせ、宴会場の隅で雨やどりをするようにぽつぽつと喋っていた。
二つ年下の人懐こい男の子。はじめはそんな印象しかなかった。部署も違うし、今日が終われば関わることもないだろう……と思っていたのに、それから度々食堂や自販機の前ですれ違うようになった。
電話が鳴って、私は思わず身構えた。修からの電話は、なぜかすぐにわかる。特別に着信音を変えたり、車のエンジンみたいに改造しているわけでもないのに、どこか他とは違う響きを持っている。
『あ、もしもし、理代?』
「どうしたの?あ、もう着いた?」
それがさあ……と歯切れ悪く修が切り出す。
『車関係の知り合いにさ、メンバーがひとり足りなくなって急にイベントに参加してくれないかって頼まれちゃって。その人には借りもあるし、けっこう雑誌の取材とかもくるでかいイベントでさ、ほんとに急で申し訳ないんだけど——』
修の言うイベントとは、いわゆる改造車好きが集まって愛車自慢をする会合のことだ。でかいとかちいさいとか、正直私にはどうだっていい。どうせ雑誌と言っても、特殊な店にしか置いてないようなマニアックなのでしょう——なんて心の声は、ひとまず喉の奥の粘膜あたりに貼り付けておく。
「うん、いいよ。行ってらっしゃい」
『ほんと?今度埋め合わせするから。月末はどっか行こうな』
「二回目は怒るからね」
『わかってるって。行きたいとこ考えといて』
どうして今怒れないのだろう、と思う。せめて今日は帰ってきてほしかった。会って、顔を見て、言いたかった。
「修」
『ん?』
「……月末、楽しみにしてる」
結局、本音の代わりに向こうに届くのは、いつもと代わり映えのしないつまらない台詞ばかりだ。
『ごめんな。早く理代に会いたいよ』
修はたまにこんなふうに、陶器の器に蜂蜜を垂らすように甘い声を出す。絶妙なタイミングで、私の頭の骨を抜いていく。
「……うん、じゃあね」
私も会いたいだなんて絶対に言ってやるものか。
とひそかな反抗を試みるが、電話を切った後に怒涛の後悔に襲われる。
言えなかった。言えるはずなかった。そんな大事なことを、電話で、顔も見ないで。だって私は、よくわからない車のイベントに負けたのだ。しかし実際に会ったとして、ほんとうに言えたかどうかはまた別問題なのだけれど——、
タイミングを失った言葉たちが、いつまでも喉元で嫌な感じに燻っていた。
幼い頃、目の前で人が死ぬ瞬間を見たことがある。交通事故だった。ものすごい勢いで車が突っ込んできて石ころみたいに人を跳ねた。
亡くなったのは、近所に住んでいた、田村さんという認知症のおじいさんだった。
私と母は、その光景を見ていた。飛び散る血飛沫。悲鳴。耳をつんざくブレーキ音。私を抱き寄せる母の手は震えていた。
りよちゃん。りよちゃん。どうしよう——。
真夜中に突然、下腹の痛みで目が覚めた。子宮だ、とわかった。尖った指の先で強く押されるような痛みを、子宮の真ん中辺りに感じた。呻きながら布団の上に蹲る。乾いた秋の夜に、私の背中はじっとりと不快に汗ばみ、額から生ぬるい汗が流れる。
どうしよう。救急車を呼ぶべきか。もう少しだけ待ってみようか。でも、もし、手遅れになったら——怖い、と思った。ここから動くことも、動かないことも。正しい選択が、わからない。
私は枕元の携帯に手を伸ばした。とっさに電話をかけたのは、救急車でも遠くの恋人でもなく、家を出て以来滅多に会わなくなった母の千恵子だった。こんな真夜中に電話に出てくれそうな人が、ほかに思いつかなかったからだ。
今にも枯れそうな声で事情を話すと、母はすぐに行くと電話を切り、ほんとうにすぐにやってきた。
「理代ちゃんっ!」
玄関を開けるなり、母は血相を変えて雪崩れるように抱きついてきた。お店から、急いできてくれたのだとわかる。細い母の腕に包まれながら、私はどっと全身から力が抜けていくのを感じた。さっきまでの下腹を金槌で打たれるような痛みさえ、安心感に溶けてゆくようだった。不安に満ちた真っ暗な夜の中で、ひとりじゃないということに、私は泣きたいほど救われた。
「ねえ、ほんとに病院行かなくて大丈夫?」
母心配そうに眉を寄せる。揚羽蝶のようにひらひらの黒いドレスを床に垂れさせている母は、いつも通り華やかで、この質素な部屋にはひどく不釣り合いに見えた。
「もう大丈夫みたい。なんかごめんね」
「どうして理代ちゃんが謝るの」
「だって、仕事抜けてきてくれたんでしょ?」
「そりゃあ心配だもの。お店はしーちゃんに任せてきたから大丈夫よ」
そっか、と私は少しホッとして微笑んだ。
「でも、やっぱり診てもらったほうがいいわよ、何があるかわからないし」
「明日は日曜日だから休みだよ」
「じゃあ念のため、月曜に行ってきなさいね」
母が営むスナックは繁華街にある。成人したばかりのような若い女の子もいれば、用心棒のような巨体のニューハーフもいるし、五十歳の母より年上の元ホステスの熟女もいる。母よりもずっとママの風格があるその熟女が、従業員の中で一番古株のしーちゃんだ。私も幼稚園の頃から面倒を見てもらっているので馴染みがある。
少し落ち着くと、今度は質問攻めが始まった。修くんは知ってるの、え、知らない?だめでしょうちゃんと言わなきゃ、出張?大丈夫なの?
そんなに一気に答えられないよ、と私は苦笑して言った。
「一応、半年間ってことになってるから」
「じゃあ、産まれる前には戻ってくるのね?」
たぶんね……と私は心の中だけで呟いた。
「パパが帰ってきたら喜ぶわねえ」
ふふ、と喜びを分けあうようにそう言った母に、私はひやりと背中に冷たいものを感じた。こういうとき、私はいつも、何も答えないことにしている。おなかの痛みに耐えるように、じっと身体を硬くして、時間が過ぎるのを待つのだ。
母は普通じゃない、と私は思っている。二十八年前、私が産まれる前に出て行ったきり帰ってこない父を、今でも待ち続けている。たとえば、学校の運動会やピクニックのとき、母は必ず家族三人分の弁当を用意した。だって作ってあげないと、パパが寂しがるでしょう。 当たり前のように母はそう言った。母が営むスナックはふたりの出会いの場で、当時一従業員だった母は、先代のママが引退するときに店を引き継いだという。店を離れなかった理由は、いつかパパがふらりと帰ってくるかもしれないから——。おそろしいほどの根気、いや、ここまでくるともはや怨念に近いものを感じる。
母の異常性に、私は幼い頃からずっと気づいていた。友達に知られるのが恥ずかしかったし、同じように修に紹介するのも嫌だった。同棲をはじめるとき、挨拶くらいしたほうがいいんじゃないの、と修は言ったが、私は実家に連れて行くのを拒んだ。会えば絶対、修は母がおかしいことに気づくだろう。
「じゃあママ仕事に戻るけど、ほんとに大丈夫なのよね?」
「もう大丈夫。ありがと、行ってらっしゃい」
午前四時。母を見送って私はふらふらとベッドに戻り、夏用のままの布団に包まれて、冷たい泥に沈むように深く眠った。
数時間後、チャイムの音で目を覚ました。寝不足気味の気だるい頭を起こしてドアを開けた。そこにはさっき見送ったはずの母が、大きな旅行鞄を抱えて立っていた。
「……どうしたの?」と呆然としながら尋ねると、
「やっぱり理代ちゃんひとりじゃ心配だから、しばらくここに泊まることにするわ」
朝の光の下で、母はにこにこと笑みを浮かべてそう言った。
あんたたち、この人形みたいにそっくりね。
ずっと昔に、誰かがそう言った。あの家の玄関に立ち、下駄箱の上にちょこんと置かれた赤いずきんのマトリョーシカを見て。小さい頃から、私と母は、ことあるごとに似てる似てると言われ続けてきた。目鼻立ちや、頬骨や髪の毛の癖やなんかがまるで生き写しのようだとか。私はそれが嫌だった。中から次々と縮小版の人形が出てくるそれに例えられるのは、まるで母のコピーと言われているみたいでいい気がしなかった。
私は意地になって、母とは真逆の方向性を目指した。就職先に地元の中堅自動車メーカーを選んだのもそのためだった。とにかく、母とは違うことがしたかった。夜ではなく昼、おしゃべりをしながら酒を飲むより、こまごました部品のチェックや伝票を作っていたほうが、自分に向いていると思った。修と付き合いだして、一緒に住むかと言われたとき、私は心底ホッとした。ああ、私はあの家を離れたかったんだ、そのとき初めて本音を拾われたように、気持ちが軽くなった。
それなのに、なぜ。私は早くも、数時間前の自分の行動を後悔しはじめていた。
「ねえ理代ちゃん、アイライン持ってるー?」
母が仕事用のメイクをしながら、鏡越しに訊いてくる。
「ペンシルのならあるけど」
「ああよかった、切れたのすっかり忘れてた」
はい、と私はアイライナーを手渡しながら、部屋のありさまにげんなりする。母の私物があちこちに散乱したこの部屋は、常にごちゃごちゃとして落ち着かない実家を思わせた。どうしてこのひとは、人の部屋でここまで好き勝手できるのだろう。
「ありがとう、助かったわ」
くっきりとメイクを施した母が振り返る。同じ顔で、同じ化粧品を使っても、私には到底出せないような色気を纏っている。
「どうしたの?」
私の視線に、母が少女のように小首を傾げる。色気の隙間に垣間見える少女のような仕草に、私はまたひやりとしつつ、ううん、と首を振る。
母が仕事に出て行ってすぐに、修に電話をかけた。
『おー、どうした?』
電話の向こうから、呑気な声が響く。
「今、どこ?」
『今?家だけど?』
「……そっか」
酒を飲んでいるのか、修の声はいつもより低く、どこかくぐもって聞こえる。明日はお互い仕事で、ゆっくりと日常に戻ってゆく時間だった。窓の外の葉の隙間で、リリリ、と鈴虫が小さく鳴いている。
『なんかあった?』
「ううん、声が聞きたかっただけ」
『お、理代さんが甘えるなんて珍しい』
修はたまに、私をさん付けで呼ぶ。付き合いはじめの頃みたいで、なんだかくすぐったい気分になる。
「じゃあね」
『おう、おやすみー』
携帯を置いた瞬間、スプーンから零した蜂蜜が途切れるように、ふと我に返る。くすぐったいとか言ってる場合かと、持ってもいないスプーンを床に投げつけたくなる。
会いたい。帰ってきて。大事な話があるの——ほんとうに言いたいことを、私は、いつも言えない。
月曜日の夕方、仕事終わりに向かった産婦人科の待合に、懐かしい顔を見つけた。ゆったりとした紺色のワンピースに黒髪を上品におだんごにまとめ、ソファに腰を埋めて雑誌を読んでいた。雑誌を手に立ち上がった彼女と、ふと目があった。瞬間、彼女は大きな目と口を開いてこちらに駆け寄ってきた。
「理代ちゃん!」
「久しぶり、しーちゃん」
しーちゃんに会うのは二年ぶりだった。実家にいた頃は、酔い潰れた母をよくうちまで送り届けてくれたりした。朝方、出勤前に化粧の濃いふたりを見ると、根こそぎ出勤意欲を奪われたものだったが、目の前の彼女はオフバージョンで、威圧感のある目力はいつもより三割ほど減っていた。
私は受付を済ませ、壁際のソファに並んで座った。しーちゃんがにやけ顔で腕をつついてくる。
「聞いたわよお、理代ちゃん、おめでとう」
「お母さん、口軽すぎ……」
「嬉しくて仕方ないのよ。もうすごい浮かれっぷりで、お店でもその話ばっかり。今何ヶ月だっけ?」
「まだ二ヶ月」
「じゃあ、まだ見た目は変わらないね」
しーちゃんは愛おしそうに、私の平坦なおなかに軽く手を触れた。柔らかい手の感触に、ふと懐かしさを覚える。昔、よく頭を撫でてもらった。ふっくらしていて、夜型なのに肌は餅みたいに弾力がある。独身だけど、子どもの扱いは母よりずっとうわ手だった。年の離れた弟のおかげで面倒見がよくなったのだという。
「なんだかじんときちゃうね。あんなにちっちゃかった子が、もうすぐお母さんになるんだもの」
「私、覚えてるよ。しーちゃんの子守唄、好きだったな」
「嬉しいこと言ってくれるねえ」
ねえ、理代ちゃん。としーちゃんは大きな体ごと私のほうを向いて言った。
「今、幸せ?なにか、困ったことはない?」
まっすぐなその視線、その言葉に、どきりとする。どうして、そんなことを訊くのだろう。
「ごめんね。急に変なこと言って。でもね、ずっと思ってたの。あなたもそろそろ、ほんとうのことを知るべきなんじゃないかって」
力のある彼女の目が、今はどこか寂しげに私を見つめている。内側まで入り込んできて、ざわりと血が騒ぐ。なにを、と私はしぼり出すように言った。
しーちゃんの口が慎重に動く。
「お父さんのこと」
そのとき、名前を呼ばれた。
「板倉さん。板倉しずるさん」
言葉を失った私の横で、はい、と応えてしーちゃんが立ち上がった。
「検診が終わったら、向かいの喫茶店に来てくれる?そこで話しましょう」
「子宮筋腫だって。早急に手術の必要があるって、さっき言われちゃったよ」
焦げ茶色の壁に包まれた喫茶店で、湯気の立つコーヒーを飲みながら、しーちゃんは言った。
子宮筋腫。名前くらいは聞いたことがある。たしか、子宮にできる良性の腫瘍のことだ。
「できた場所が悪かったんだってさ。はじめは軽い腰痛で、歳のせいかと思ってたんだけど、だんだんひどくなってきて、ああこれはただの腰痛じゃないなってなんとなくわかってね」
私はふいに、一昨日経験した冷たい夜に放り込まれた心地になった。あの子宮を限界まで指で押されるような強い痛み。荒い呼吸の畝り。あまりの痛さに、ただ布団の上で疼くまることしかできなかった。手術の必要があるくらいなら、あれ以上の痛みなのだろうか。
「……怖く、ないの?」
「この歳になると、怖いものなんかたいしてないよ。むしろ原因がわかってスッキリしたね」
しーちゃんがコーヒーのおかわりを頼み、私はどうしようか迷って、ホットのココアを頼んだ。とろりとしたココアの甘みが、仕事で疲れた体にするすると心地よく溶けてゆく。
「お父さんのことって、なに?」
私が言うと、しーちゃんの表情が、少し苦くなった。そして静かにカップを置く。
彼女は何か、大事なことを言おうとしている。私はそれを聞きたくないと思う。二十八にもなって、今さら会ったこともない父親の新しい情報なんていらない。私には必要ない。突っぱねたいのに、それもできない。
「他人だったら、さすがに口出しはしないけどね、あなたの実の叔母として、どうしても本当のことを知ってもらいたかった。あなたが人の親になる前に、きちんとね」
え、と私は口を開いた。しーちゃんが、私の叔母?それなんの冗談?
「——お父さんは、行方不明じゃない。理代ちゃんが産まれる前に、事故で亡くなったの」
店内に緩やかに響いていた音楽が、人々の会話や足音が、一瞬にして消えた。彼女の発した言葉全てが、理解の範疇の外側にあった。
どういうこと。だったら、なんで——
二十八年間も、母はいったい、何を待ち続けていたのだろう。
子どもの頃、家ではなく母の店の二階で夜を過ごすことが多かった。二階の休憩スペースには布団と低い机があり、いろいろな人が出入りした。みんないい人で、いつもお酒の匂いがして、上機嫌に私に喋りかけてきたり、食べ物を持ってきてくれたりした。日によって具が変わる賄いの焼きそばや、シュウマイ、お寿司、味の詰まった煮物——母の手料理は、あの店で飽きるほど過ごした賑やかですこし寂しい夜を連想させる。
「懐かしいな、この焼きそば」
「店ではよくやるけどね」
「でも焼きそばに鮭って、あんまり入れないよね」
「これはねえ、パパの好物なのよ」
パパ、と母は当たり前のように口にする。まるですぐそばにいるみたいに。数時間後には、この家に帰ってスーツを脱いで美味しそうに鮭の入った焼きそばを頬張る姿まで見えているように。
人の記憶というのは、ほんとうにアテにならないものなのだ。自分以外の誰かによって、勝手にまったく別物に塗り替えられていたとしても、気づきもしない。それとも、私が特別に鈍感だったのか——
「あのさ、お母さん」
焼きそばに絡まる鮭の身を箸で砕く。ぱらぱらと落ちてゆく。
「田村さんって、覚えてる?」
「田村さん?」
焼きそばを食べ終えてお茶を飲んでいた母は、不思議そうに首を傾げた。
「いたでしょ、ほら、近所に住んでたおじいさん」
ああ、と母は思い出したように頷いた。
「残念だったわね。いいひとだったのに、車の事故で……」
ねえ、と私は鋭い視線を投げつける。
「どうして、嘘なんか、ついたの」
言ってはいけない、頭の中に、わずかに残る理性が手を引こうとする。でも、どうしても、許せなかった。
母は嘘をついていた。目の前で車に轢かれたのは、近所の認知症のおじいさんじゃなかった。
「お父さんなんだよね。目の前で死んじゃったのは、お父さんなんでしょ?」
私が産まれる前、父は車に轢かれて死んだ。母の目の前で。母は両手でお腹を抱えて蹲り、泣きながら言葉を吐き続けた。
りよちゃん。りよちゃん。どうしよう。
——信じられないことだけど、私には、そのときの記憶があった。目の前でいちばん大事なひとを失った母の目を通して、その強烈で残酷な光景を、おなかの中でじっと見つめていた。
母は、静かに世界を閉ざした。
母と、父の姉であるしーちゃんは、葬式のときに初めて会ったという。でも、母は、誰の顔も見てはいなかった。呆然とその場に立ち尽くし、焼香だけして帰って行った。心配で様子を見にお店を訪れたしーちゃんを見て、母は笑って言った。あら、広告見て来ていただいたのかしら、どうぞ入って——。
『はじめは働くつもりはなかったけど、誰かが、この子のそばにいてあげなきゃと思ったのよね』
義姉でありながらその事実を隠し、従業員として、そばで母を支え続けた。彼女の存在が、どれほど母にとっての安定剤になっていたか、私にはよくわかった。けれど、母は、現実に耐えられるほど強くなかった。辛い記憶を消して、関係のない嘘の情報で塗り替え、自分も子どもも騙し続けたのだ。
「最低だよ。関係ない人まで巻き込んで、信じられない」
声が震える。頭も、体も、ふつふつと湧きあがる怒りに熱を帯びる。人の死は、こんな風に誰かの都合のいい嘘に使われていいものじゃない。
気づけば私は、母に掴みかかっていた。
「いい加減、目え覚ましてよ。お父さんはもういないの。死んだんだよ!」
「理代ちゃん、なに言ってるの?」
母が眉を寄せて言った。少女のように、黒い真珠みたいな瞳で、私を非難する。
私はぞっとして、思わず母の肩から手を引いた。
おかしい。このひとは、狂ってる。そう思った瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
「——出て行って。今すぐ、ここから出ていって」
ドアを指して叫んだ。母に対して真正面から怒りをぶつけたのは、初めてだった。これ以上、私と修の部屋にいて欲しくなかった。
母はふらりと立ち上がり、何も言わずに、荷造りをはじめた。
母は来たときと同じように、大きな旅行鞄に荷物を詰め込んで、この部屋を後にした。母がこの部屋で寝泊まりしていたのは土曜日からたったの二日間だったのに、母の匂いが驚くほど色濃く残っていた。慣れない化粧品や、熟れた果実のような香水や、母のつくる味の濃い焼きそばの匂い。
ひとりに戻った部屋の真ん中で、私は修に電話をかけた。長いコールだった。最近、電話をかけるのは私ばかりのような気がする。
もしもし、と電話に出た呑気な声に、私はふいに泣きたくなる。
「会いたい」
『え?』
「会いたいの、今すぐ」
私は怒るように言った。もっと可愛らしく言えばいいのに、懇願するように、お願い会いにきて寂しいって言えればいいのに、私はそれができない。
もうだめかもしれない、と思った。約束した日に会いに来ない。電話もかけてこない。何をしているのかもわからない。遠く離れて、心も離れてしまったのだろうか。そうだったら、どうしよう。私は、おなかの子は、どうすればいいのだろう。
『——わかった。今からそっち行く』
修の声に、え、と、今度は私が驚く番だった。月曜日の午後八時。高速を飛ばしても二時間以上かかる。
待ってて。急ぐように修が言って、通話が切れた。
車を見るのが好きな修は、高速に乗ると必ずサービスエリアに立ち寄る。喫煙所で煙草を吸いながら、頻繁に出入りする車をぼんやり眺めるのがいいのだという。だから、二時間で着くところを、いつも三時間かけてやってくる。
「ぴったり二時間で着いたぜ」
玄関を開けるなり、修はしたり顔で言った。
「平日のこの時間はさすがに空いてるな。飛ばせるの気持ちよかったなー」
随分久しぶりのような気がする修の顔を、私はじっと見つめた。前に会ったときより、少し髪が伸びた。少し太った。低くて甘い声は変わらず甘く、ふっと気が抜けた瞬間、涙が零れた。
「え、おい、どうした?」
修は動揺しながら私の肩を抱き、とりあえず中入ろう、と促す。
「何かあった?あ、お母さんと喧嘩したとか?」
今まで、なるべく我儘を言わないように気をつけていた。全然大人なんかじゃないくせに、年上ぶってばかみたいに見栄を張った。ただ素直に、会いたいと言えばよかったのだ。
「——できたの」
とようやく私は言った。涙でぼやけた視界の中で、修が、え、と目を開く。
「赤ちゃんが、できたの」
「ほ、ほんとに……?」
揺れる声に、私は頷く。
「今、5週目だって」
「え、気分は?寝てなくて大丈夫?」
「病人じゃないんだから」
「そ、そっか」
修はしばらく沈黙を噛みしめるようにじっとしていたが、ふいに、毛布を被せるようにそっと、硬い腕で私を抱き寄せた。
「ありがとう」
と修は湿り気を含んだ声で言った。
「なんか、お礼言いたくなった。ありがとう」
「うん」
おめでとう、でも、ごめん、でもなく、ありがとう、と修は言った。それはものすごく、修らしい喜びの表現だなと私は腕の中で思う。
修の震える吐息と、肉付きのいい体の質感を感じる。私たちはそっと顔を寄せ合ってキスをした。修はいつもはない慎重さで私の服を脱がせ、それから自分も下穿きだけを残して裸になった。
修のかさついた唇、小さな突起のようなざらついた舌が、私の首筋を降りてくる。あ、と私はまるで初めて触れられたかのように一瞬びくりとし、でもすぐに力を抜いて身体をあずけた。修が舌を這わずたび、卵の薄皮のようにぺらぺらな私の肌がほんのりと熱を帯び、柔く解れてゆくような気がした。
修はまるでしるしをつけていくように私の身体中に口づけをした。鎖骨、乳房、おへそ、足の付け根、膝の裏。修の毬栗のような頭を抱き、胸に埋める。吐息や鼓動を、今まででいちばん近くに感じる。いつものような熱も荒っぽさも言葉もなく、動物がじゃれあうように互いの身体を寄せ合った。
こんなにも心地よく、泣きたいほどに愛おしく、濃密な時間を過ごしたのは初めてだった。ありがとう、と私は思った。どれだけ離れていても、このときを思えば、私はまた幸福感に包まれるだろう。
湿気の多い夜だった。扇風機の風にあたりながら、私たちは夏用のままの布団にくるまって仰向けになった。ねえ、とまどろむ修に声をかける。
「おなかの中の赤ちゃんは、お母さんが見てる世界を見たいって思うのかな」
「なに、いきなり?」修は少し面倒くさそうな素振りをしつつ、肩肘を立てて体をこちらに向ける。
「まあ、あるんじゃないの。自分が生きてく世界がどんなもんか、赤ん坊だってそりゃ気になるだろ」
あっさりしたその言葉に、私は妙に納得した。
そうだ、興味があったのだ。母が見ている世界、自分がこれから生きていく世界は、どんなだろう。その世界は残酷で悲しかったけれど、幸せで美しいこともたくさんあったはずだ。そのどちらも捨てることができなくて、溺れるように身動きがとれなくなってゆく母のことを、私はおなかの中でじっと見つめながら、痛みを共にしていた。あまりに深すぎた痛みは、見えない傷痕のように、ずっと消えずに残っていた。
もういいんじゃないか、と思う。私が母のおなかから出てきて大人になった分だけ、母も歳をとった。もう、楽になっていいんじゃないか。いい加減、あの千切れるような苦しみから、解放されていいんじゃないか。
暗闇の中で手探りをし、寝息を立てはじめた修の骨張った指に自分の指を絡める。反動のように力が返ってきて、私は安心してゆっくりと瞼を閉じた。
数時間眠って、仕事があるからと、日が昇りはじめる前に修は帰って行った。私もあと少しすれば起きて支度をする時間だ。再びがらんとした部屋で、まだ仕事中であろう母に「話がある」と一言だけ、メールを送った。
金曜日の夜、いつもより一時間ほど仕事を早めに切り上げて、まっすぐ実家に向かった。玄関の明かりが、ついていなかった。部屋の中も。もう仕事に行ってしまっだのだろうか、と思いながら電気のスイッチを探していると、「りよちゃん」と暗闇からか細い声が呼びかけてきた。
ひ、と私は小さく悲鳴をあげて壁のスイッチを押し、明るみに浮かんだ光景に、唖然とした。
部屋の隅に、迷子の子どもみたいに膝を抱えて床に座り込んでいる母がいた。長い髪は乱れてあちこち絡まり、顔色は死人のように血の気がなく、よれた部屋着から覗く手足はまるで皮膚と骨だけで繋がっているかのように痩せていた。
「お母さん……何してるの、そんなところで」
そう言うと、母は少しだけ首を動かしてこちらを見る素振りをしたが、その瞳には何も映していなかった。ただぼんやりと、季節外れの蚊のように心許なく視線が宙を彷徨う。こんな母は見たことがない、と私は思い、ほんとうにそうだろうか、と同時に疑う。こんな母を、昔、見たことがなかったか——そうだ、ぼんやりと、覚えている。母のおなかの中にいた頃の、微かな記憶の断片。
父が死んでから、母は来る日も来る日も泣き続けた。仕事に行かなくなり、人に会うのを拒み、カーテンを閉めきった真っ暗な部屋の中で、昼も夜もなくただぼんやりと座って心を失っていた。
同じだ、と思った。あのときの、孤独で真っ暗で氷のように冷たい世界に、母は戻ってしまった。
どうしてこんなことに。いったい誰がこんなことを——ああ、私だ。私が、母を、こんな風にしたのだ。
『お父さんはもういないの。死んだんだよ!』
私は母に、目を覚ましてほしかった。目の前の現実を見据えてほしかった。生きている私のことを見てほしかった。
ねえ、私、大人になったよ。もうすぐ、お母さんになるんだよ。
その喜びを、今ここにいる者同士、一緒に分かち合いたかった。だからこそ、いつまでも過去に足を縛られたままの母に苛立った。
でも——まるで羽を怪我した白鷺のように弱った今の母の姿を見つめて、ようやくわかった。母は、そうしてずっと、自分を守ってきたのだ。そうすることでしか、生きられなかったのだ。父を失ったとき、おなかに私の命を抱えていた母が、どれほどの絶望や重圧に耐えてきたか、私には計り知れない。
「お母さん、ごめんなさい……」
私は、母の前に泣き崩れた。冷たくか細い母の手を、しっかりと両手で包む。一度口にした言葉は取り返せない。母の深く刻まれた心の傷を癒すことなどできないかもしれない。でも、それでも、吐き出さずにいられなかった。
恥ずかしいなんて思ってごめんなさい。友達や恋人に会わせたくないなんて思ってごめんなさい。最低なんて思ってごめんなさい——。
私は、間違っていた。母は、ちゃんと地に二本の足をつけて、毎日仕事をして、私をここまで育ててくれたのに。
「——理代ちゃんが、あのとき……」
じっと耳を澄まじていなければ聞き漏らしてしまいそうなほど微かな声で、母は言った。
「あのとき、言ったの……人が死ぬところを見たって。びっくりして、そんなことあるはずないって……でも、そうかもしれない、目の前で死んだのは、違うひとだったかもしれないって、思って」
うん、うん、と私は母の口から語られる話を聞いた。もういいよ、と言いたかった。もうお母さんは充分苦しんだ。頑張った。私も、しーちゃんも、みんな、お母さんのことを想って寄り添ってくれる人はたくさんいるから。
うまく口にすることができなくて、私は母を抱きしめた。私が不安なとき、修がそうしてくれたように、そっと労わるように。
「ありがとう」
口にした瞬間、そうだ、伝えたかった言葉はこれだったと、初めて思った。疎ましく思うこともあるけれど、それは近くにいるから、家族だから。今まで育ててくれてありがとう。そんな普通なことを、私は、母に言いたかったんだ。
「理代ちゃん……」
母の鏡のような瞳が私を見つめる。両手で私の濡れた?を優しく包み、そっと微笑んだ。
「理代ちゃんの泣き顔見たのなんて、赤ちゃんのとき以来かしらね」
「そんなことないでしょ」
ブー、ブー、と机の上の母の携帯が鳴りだして、母が立ち上がる。
「ああ、きっとしーちゃんね」
その通り、早く店に来いとの催促の電話だった。
「いつまでも心配かけてちゃいけないものね」
慌ただしく仕度を始めた母の様子に、私は安心して少し笑った。そうだ。母は、こういう人なのだ。
結局のところ、あれほど激しい痛みは一度きりだった。たまに下腹にチクリと違和感を覚えること以外は、痛みも吐き気もなくいたって平穏な日々。前回の受診で、妊娠初期にはよくあることだと言われた。あまり気にしすぎてストレスを溜めるのもよくないと。けれど、いつまたあの痛みがやってくるのではないかと、つい身構えてしまう。
「順調ですね。ほら、はっきり見えてきましたよ」
エコー写真を見ながら、医者が皺を寄せて微笑んだ。私は横たわりながら少し首を持ち上げて、エコー写真に目を向ける。先週見えた影が、わずかに輪郭を帯びている。
「すごいな」
「うん、すごい」
私たちは未知の世界に足を踏み入れた旅人のように、ぽかんとして短い感想を洩らした。
採血検査のあいだ、修は壁にもたれてラックにかかっていた料理雑誌を眺めていた。
「なに、料理に目覚めたの?」
私が笑いながら声をかけると、修が顔をあげて「暇だったから見てただけ」と照れ臭そうに返す。
「座ってればよかったのに」
「いや、いいよ、別に疲れてないし」
度々ドアを開けて妊婦さんが入って来るたび、席を譲るために立つのが面倒なのだろう。電車に乗ったときにも、修はいつもそうする。そういうところがいいなと、付き合いはじめの頃にも思ったのを胸に明かりを灯すように思い出した。
会計を終えて、駐車場の端に停めた修の黒いミニバンに乗り込む。グオオン、と大きな動物が唸るようなエンジン音が車内に響く。平らなおなかが、ふるりとわずかに振動する。
「車、そろそろ変えようかな」
おもむろに修が言った。
「え、変えるの?」
「車も長く乗ってればあちこち悪くなるからな。でかい分税金もかかるし、これからいろいろ物入りになるだろ。それに……そろそろ若すぎる気もしてきたし」
肩をすくめて言う修に、自覚あったんだ、と私はくすりと笑みを含む。
「でも別に、今すぐ変えなくてもいいんじゃないかな」
私は車に興味がないしお金は大事だけれど、修がこの車を自分の子どものように愛していて手をかけているのを知っている。その証拠に、八年乗って、どこにも傷がないどころか納車したてのように艶やかに光を放っている。
親になるから、趣味にかける時間やお金がなくなるから、と自分をどんどん削っていったら、いつか何もなくなってしまう気がする。私はそれが、怖かった。自分が少しずつ他の生き物になってゆく気がしていた。でも、そうではないのだ。子どもを産んでも、慣れない育児でやつれてしまっても、自分は自分だし、好きなことを無理に諦める必要はない。今は、暗い憑き物が落ちたようにそう思えた。
「でも、泊まり込みのイベントとかは控えてほしい。なんかあったときに困るから」
「はい、心しておきます」修は少し気まずそうに肩をすくめ、伺うように覗き込む。「……理代さん、なんかあった?」
「ちょっとね。じゃ、行こうか」
私は笑って言った。実家への手土産として買った、お菓子の袋を膝に乗せて。
ドアを開けると、アクセサリーや鍵や写真立てや、物があふれるごちゃごちゃした棚の上に、マトリョーシカの鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。
二十八年前、私が産まれるより少し前にいなくなった父の、最後の置き土産。パパがいつでも帰ってこれるように、と母は言った。この小さな人形はきっと、母の心の平穏を保つための守り神なのだろう。母と私にそっくりだと笑われ、いつしか目を向けることもなくなっていたその人形は、相変わらず円らな黒目でこの家の玄関を静かに見守っている。
「はじめまして。理代さんとお付き合いさせていただいている、佐山修といいます。ご挨拶が遅れてしまってすみません」
いつもよりきれいめの服装に身を包んだ修は、腰を深く折って挨拶をした。
「いらっしゃい。さあ入って」
カラフルな物であふれた空間に足を踏み入れる。この中にもうひとりが加わる数ヶ月後の未来を、私は想像した。私のおなかの中で、米粒からそら豆ほどになり、卵くらいになり、目鼻や手足ができて、やがてはよく熟れた瓜のようにずしりと重みを感じるようになる。スイカのように膨らんだおなかの中で、その子は何を見るのだろう。何を聴くのだろう。幸せなものなら、いいなと思った。
母と修は、拍子抜けするほどあっという間に打ち解けてしまった。母に会わせたくないだなんて、随分傲慢な独りよがりだったのだと思い知る。
「そうだ。理代ちゃんに渡したいものがあるのよ」
ちょっと待ってて、と母が急に思い出したように部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
母の手にあったのは、マトリョーシカだった。二十八年間、この家の玄関を見守り続けてきた、父の最後の置き土産。母の心の守り神。
「マトリョーシカってね、おなかの中にたくさん子どもが入ってるでしょ。だから、妊婦さんへの贈り物にいいんだって。産まれてからはおもちゃにもなるし。理代ちゃんも昔よく遊んでたのよ」
母の店の旅行好きの常連さんからその話を聞きつけた父が、雑貨屋を巡り手に入れたものだという。
「パパ、普段雑貨屋なんて行かないから、探すのに苦労したんだって」
私はそのとき、母が初めて、父のことを過去形で話していることに気づいた。ちゃんと過去に、思い出にしてほしいと、長いあいだそう望んでいたはずなのに、その声はすこし寂しく耳に響いた。
けれど——どれだけの出来事を思い出に変えても、母は決して父を忘れることはないだろう。母の心の真ん中には、今も昔と変わらず、父がのんびりと居座っていることだろう。
「ありがとう」
喉の奥から熱い塊がせり上がるような気持ちで、私は頷いて言った。
その人形に触れたのは、いったいいつぶりだろう。受け取って両手に包むと、ふいに懐かしさが蘇る。卵のような丸みを帯びた表面、つるつるとしたあたたかみのある木の感触。明かりの下で、ずきんの赤やスカートの黄色が鮮やかに光る。ひとつ、ふたつ、みっつ、中から次々とひとまわり小さな人形が出てくる。一番小さいのは、ごま粒みたいな目鼻をした水色のおくるみの赤ん坊だ。
『一番小さな人形に願いを込めて息をふきかけて、ふたをしてまた元通りにしておくと願いがかなうんだって』
私は確信した。ずっと記憶の片隅に残っていたあの声は、やはり父の声だったのだ。父は、私に会うのを心待ちにしていたのだ。今の私と同じように。
私は幼い頃そうしたように、水色の赤ん坊を手のひらに乗せて、そっと息を吹きかけた。
母が意外そうに目を開く。
「あら、そのおまじない、知ってたの?今言おうと思ってたのに」
おなかの中で父の声を聴いたなんて、さすがに信じてもらえないだろうな、と私はひそかに笑みを零した。
鮮やかなマトリョーシカが、私たちの部屋の玄関にちょこんと置かれているところを想像してみる。あの色のない質素な部屋では、さぞかし浮いてしまうだろう。けれど、来年の夏を迎える頃には、子どものおもちゃや服やたくさんのカラフルなものたちに囲まれてじきに違和感がなくなってゆくのが、鮮やかに目に浮かぶようだった。
マトリョーシカのおなか 松原凛 @tomopopn
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