インターハイー3

 練習が終わると、他の部員たちに交じって片付けを始めようとしていた竹史に祐介は声をかけた。


「たけ、おまえ、ちょっと残れ」


 竹史が怯えたような顔で振り返った。疋田と中川が祐介と竹史の顔を交互に見る。


「もういっぺん、行射してみ?」


 無言で祐介の顔を見てから、のろのろと弓を手にする。薄暮れの的場にひとつだけ残されていた的に向かい、ゆっくりと腹に息を落とす。弓構ゆがまえ、打起うちおこし――丁寧に引き分け、かいに至る。いつもより長えな? 祐介がちらりとそう思ったとき、ふつり、と離れ。また、的の右端ぎりぎりに中てている。二射目もほぼ同じところに中てた。三射目に進もうとした竹史を祐介が止めた。


「たけ、今のおまえの射は精密やけど、正確さに欠けちょる。あんな、引き分けんときさ、弓手ゆんでがちょっと力んじょらん? やけん、押しが甘えし、肩が浮いちょるで。肘、伸ばしきるな。もう一射、やってみ。ゆっくりな」


 竹史がゆっくりと所作を確認しながら行射する。弓を引き分け始めると、祐介が伸ばしきるな、と左の肘を軽く叩いた。体に覚え込ませるようにゆっくりとした会を経て、矢を放つ。正鵠。「もう一本」。祐介のその声に導かれるように、再び矢をつがえる。「肘に意識」という声を聞きながら、引き分け、放つ。これも的の中心をしっかりととらえた。「もう一本」――


 四射目であの射がありありと現れた。どこを見ているのかわからない表情で弓を引き分ける竹史の体から冷たい気が放たれる。祐介はぶるりと身を震わせた。もう声をかけることすら忘れ、ただ陶然として射に引き込まれる。集中しちょるときのこいつの射は見ているだけで体に震えが走る。この気配はなんなんじゃろ。



 六射目を終えた竹史がおずおずと振り返り、祐介は我に返った。

「感覚つかめたか?」

「ん。――矢取り、してくる」

「あ、俺が取ってくるわ、ちょっと待っちょり」

「――」


 薄闇に霞的かすみまとがほのかに浮かび上がる。見事にその中心、正鵠に突き立つ四本の矢を見て、祐介は内心舌を巻く。射場に戻ってくると、丁寧に浄めた矢を矢箱に戻しながらつぶやいた。


「なんで、ずれちょったんかの? まあ、いずれにせよ、こんねえすぐに修正できるんはさすがやっち思うぞ」

「――自分じゃ、できんかったけどな」


 投げやりにそう言い、顔をゆがめる竹史をしばらく見つめ、祐介が口を開いた。


「たけ、インターハイの男子チーム、お前を大前おおまえに推薦した」


 竹史は浮かぬ顔で床を見ている。


「おまえの実力は疑っちょらん。やけど、おまえの試合に対して冷めたところが気になっちょる。大前おおまえ、嫌か? みんなで試合に出るのは嫌か?」


「――そげなことは、ねえ」


「そうか。じゃあ、もうすこし、チームに歩み寄れ? 俺ら三年生にとって、このインターハイの県予選が最後の試合になるかもしれん。全国大会に進むんは、みんなの夢じゃ。もちろん、俺にとってもな。団体戦で大前がどげん大事か、わかっちょるよな? 俺はおまえにかけちょる。おまえが、あの誰にもまねできん射で、有無を言わさずチームを盛り上げて、大落おちの俺までつなげてくれるっちな」


 竹史がうめくように言う。


「俺には、わからんのじゃ」

「なんが?」

「ゆうは俺の射を褒めてくれるけど、どこがいいんか、俺にはわからん」


 祐介が少しほっとしたように笑う。


「おまえ、あげん波があるんじゃけ、何となくは感じとろう? すっと、なんの引っかかりもなく矢が放たれるあの感覚、いや、矢を放つ前からこれは外れんっち確信するあの感覚、おまえだって味わっとるんじゃねえか?」


「ないわけやねえけど――」


 歯切れ悪く、また黙り込む。祐介も口を開かず、しばらく口をつぐんだまま二人は立ちすくむ。むせかえるような春の夕闇が一段と濃さを増す。


 竹史が目を上げた。消え入りそうな声でしゃべる。


「これが俺らにとって最後っちゅうのは、わかっちょる。そげん大事な試合で大前おおまえに抜擢されるんは、正直、荷が重いけど――おまえに認められたんは光栄やっち思っちょる」


 一瞬口ごもり、熱っぽい口調になる。


「ゆう、お願いがある。これから試合が終わるまで、朝練、つきあってくれん? やるなら、万全を期して臨みたい。」


 その昂然たる口ぶりに祐介は驚いた。ハシバミ色の瞳が正面から祐介を見つめている。いつも斜に構えた竹史がそんなひたむきな表情をするとは思っておらず、祐介は虚を突かれた――いや、そうではない、この表情には見覚えがある。高校一年の、筋力がつき始めて弓を思うがまま引けるようになりつつあったあのころ、たけはしばしばこんな顔で目を輝かせて弓を引いちょった。いつからこの真摯なまなざしを見んようになったんじゃろ――


「わかった。もちろん、俺も今まで以上に練習せんといけんけえ、朝練は願ったり叶ったりじゃ。ただ、毎朝は勘弁してくれるかの。勉強もあるけんな」


 竹史が声をたてずに笑い、祐介はその密やかさに、どこか後ろめたいものを感じた。



 翌朝から朝練が始まった。朝六時に弓道場に集まり、ひたすらふたりで弓を引く。当初、朝六時に練習を始めたいと言う竹史に、せめて六時半にしてくれと頼み込んだ祐介だったが、三日ほど二人で弓を引くうちに物足りなくなり、結局六時から始めるようになった。どうやら竹史は祐介が来る三十分前には弓道場に来てふたりの弓の準備をしてくれているようだった。


 幾重にも張り巡らされた紗幕が一枚一枚切り落とされるように目覚めていく弓道場でふたりで一心に弓を引いていると、一年生の春、本格的な弓道の練習を始めた竹史にあれこれアドバイスしていた時のことが思い出された。竹史は今では祐介とほぼ同レベルにまで成長していたものの、祐介が再び真剣に竹史の射を見るようになると、素直に教えを請うようになった。


 竹史に足りないのは狙いの確度だった。矢所やどころは精密なのだが正確さに欠けるのだ。ひどいときには安土あづちの同じところに、それこそ継矢つぎやをせんばかりの精度で何本も矢を射込む。それを見ていた祐介が、たまらず、竹史にストップをかけた。


「待て、待て、どこ狙っちょる? 矢が痛むわ。おまえさ、自分の体が今どっち向いとるのかっちゅう感覚を、もう少し磨いたほうがいいな」

「――」

「繰り返し精度は超優秀や。その制御能力には感服する。でも肝心の狙いが、いかんせん、甘いわ」

「――」

「なんが足りんのかの? ちょっとさ、俺がゆっくり引いてみるけん、後ろで見ちょり?」


 そう言って祐介が竹史の前で行射する。ねばりのある下半身に支えられ、ゆったりと動く上半身。じっくりと狙いをつけ、弓を引きしぼるのを竹史が目に焼き付けるように凝視する。


「たけ、やってみ」

「ん」


 竹史が射位に立ち、行射を始める。今度は、甲矢はや乙矢おとやとも、当たり前のように的の中心に吸い込まれる。祐介は正鵠に打ち込まれた二本の矢をにらみ、首をひねった。何かが引っかかる。


 しばらく考え、思い当たった。高校二年の秋まで、祐介は団体戦では一貫して大前おおまえを務めていた。竹史は団体戦のチームに選ばれたときには、二的にてきあるいはなかで行射することが多かった。つまり、大前おおまえの祐介のすぐ後ろとなる。そして、その立順になったとき、竹史の的中率は祐介に並んでいた。さらに記憶をたどる。たまに疋田や中川の後ろで弓を引いたとき――竹史はやはり前の射手の癖に引きずられ、その結果、彼の的中率には大きな波があった。


「――たけ、おまえさ、思いっきり、前のやつに引きずられちょるの? っていうか、前んやつの体の動きを、的と自分の位置関係を見定めるんに利用しちょろう? そげなことできるんは器用やっち思うわ。でも、大前おおまえは前に誰もおらん可能性があるぞ? この先大前おおまえを務めるなら、そのやり方は止めて、自分自身で完結するようにせんと。

 自分の体の座標をつかむん、そんなに苦手か? 足踏みんときから、的と自分の位置関係を、もっと厳密にしぼれ。自分の体の感覚も、もっと研ぎ澄ませ」


「――」


「おい、たけ!?」


 祐介が右手を竹史の頭に置き、軽く揺さぶる。


「起きちょん? 聞いちょん? きちんと返事しろ。何のために一緒にやっちょるんか、わからんやろ? それとも、やっぱりひとりで練習したいんか?」


 渋面を作ったまま竹史が祐介の目を見る。


「そんなことはねえ。今の俺は、体の位置や向きを精密に把握できちょらん。同じことは繰り返せるけど、ずれの微調整はできん。ゆうは、どげして、いつもそげん安定させちょるん?」


「俺か?」


 なぜか祐介は苦しそうに笑った。


「俺は全部、覚えるんよ。体の向き、体軸の傾き、物見ものみの深さ、顎の角度、弓手ゆんで馬手めての位置、力の入れ具合、そう言った細けえポイントを全部記憶して、毎回ひとつひとつ体に命じて、体が同じ動きになるように調整するん――やけん、おまえならわかろう? 俺の射は一本の流れになっちょらん。

 あとはな――俺、見たもんはそのまま頭の中で再生できるんよ。やけん、的中した時の画像を頭の中に引っ張り出して、今、目で見ちょる映像がそれとぴったり重なるよう、狙いをつけるん。これってさ、もう、弓道っち言っていいんか、わからんよな――」


「そげんこと、ねえ!」


 竹史が強い調子で祐介の言葉を否定する。祐介が目を見張る。


「そげんこと、ねえ。流れだけが弓道の美しさじゃなかろ? 緻密にこね上げた塑像みてえな、静的な完璧さだって、弓道の美のひとつじゃっち、俺は、思う。俺は、ゆうの射が好きじゃ」


 そう言うと、竹史はうつむいた。祐介はその言葉をかみしめるように口の中で繰り返す。


「――ありがとの、たけ。でも、おまえんことに話をもどそう。そうな、おまえは体の感覚に従って同じことを繰り返しちょるやろ? それができるんはすげえで? でもさ、一射目の狙いだけは、もっと意識的に、細心の注意を払って的と自分の位置関係を見定められんか?」


「やってみる」


 祐介は、ふと、高原の射と竹史の射を比べた。ふたりとも小柄だけれど、それを感じさせない大きな射を行う射手だ。でも印象はまるで違う。


 高原の射は陽だ。燃えさかろうとする炎を内に抑え込み、ふつふつとたぎる熱を弓に矢に注ぎ込む。時に制御しきれぬ炎が瞬間燃え上がり、闘志となって彼女の顔を染めることもある。粗削りながら、退くことのない攻めの射。


 かたや竹史の射は陰だ。内に内にとすべてが固く閉じ込められた射。凍てつき張りつめていく世界のなかで、耐えきれなくなった枝がぴしりと折れ、的を射抜く。破れた静寂から漏れ出す冷気が見るものの背を凍らせる。


 どちらの射も祐介にはまねできない美しさを誇っており、どちらの射も祐介を引き付けた。ただ、竹史が没頭しているときに時折見せる、あの畏怖するほどの美しい射には、何よりも心を奪われた。



 五月の連休をほぼ返上して、祐介と竹史は練習に明け暮れた。連休を含め、休日の練習は基本的に朝九時からである。半数ほどの部員たちが連休中も練習に訪れた。竹史は休みのあいだも朝練を続け、祐介もそれに付き合った。


 五月の連休が明けると、部全体が本格的にインターハイに向けて本格的に動き始めた。高原を含め、他の部員たちも朝練を始めるようになったが、だいたい七時からで、六時からの一時間は相変わらず祐介と竹史が道場を独占していた。竹史の射は見違えるほど正確になっていった。

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