応援コメント

家を守るー2ー2」への応援コメント

  • 普段は明るく陽気な祐介さんですが、本当は人の死を重く受け止め、思いを馳せる繊細なタイプなのですね…だからこそ人の死に真摯に向き合うことになるお医者さんを目指したのかな?なんて思います…

    火葬場の人、めっちゃ強引に骨入れますよね…😅私の祖父、生前は健康オタクで鬼のように健康体&体が頑強だったためか、火葬後も理科室のガイコツ並に骨が残り、骨壷に入らずボリボリ砕かれでました笑
    墓石に入れるときもさらに砕かれてほぼ粉末になってました笑🦴
    そしてその光景を見て「骨強すぎやろ!どんだけカルシウムとっとんねん!」と笑っていた親族たち…もし私の家系に祐介さんがいたら、親族全員ブン殴られてたでしょうね🤛

    作者からの返信

    ジロギンさま

    こんにちは。こちらへもお越しくださり、どうもありがとうございます。
    祐介が医者を目指したのは、じいちゃんのあとをつぐという意味だけでなく、彼の性格的にもあっていたのかもしれませんね。
    火葬場といえば、関東、関西、四国など、地域ごとに収骨の様子も違っているようです。関東は骨場全て入れるところが多いようですが、四国では一部を入れて、残りは処分とするようです。だから骨壺のサイズが地方ごとにぜんぜん違うのだそうです。
    人生幸せに生きぬいて亡くなった方なら、遺族も朗らかな気持ちで故人を送り出してあげられるでしょう。火葬場で笑い合いながら収骨とか、いいと思いますけどね、私は。
    コメントをありがとうございました。

  • 「腹が立つほど手際よく骨壺に収めていく」

    これ、すごくわかります。まだそんなに歳を取っていなかった身内の葬儀の際、火葬場の職員がお骨入れを珍しそうに触って来てムカついたことがありました。
    (本題から逸れた感想ですみません)

    身近な人との別れって、そうそうあるわけではないですし、やはりひとつひとつがその後の自分の人生や考え方に影響しますよね。

    作者からの返信

    北川聖夜さま

    こんにちは。いつも拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

    葬儀のときって、遺族とそれ以外の方とで感情が大きく異なるので、ふだんなら問題にならないことでもしこりが残ってしまいますよね。経験した方でないとわからない感覚だと思います。葬儀社や火葬場の方なら、そこは相当配慮しないと、と思いますね。

    死や誕生を目の当たりにさせられると、その後の生き方の大きな変曲点になりますね。その時にはあまり感じていなくても、あとから思い起こすと、ということもあります。

    コメントをありがとうございました。

  • 佐藤宇佳子さん、こんにちは。



    かなり前のコメントになります。「佐藤宇佳子さんの文章力が~」と言っていたことについて、思い返しました。

    この話を読み、あらためて上達されていると感じたのです。
    情景を思い浮かべ、なんてコメントすればいいんだろう…。

    素直にそう思いました。



    すっごい、伝わってきたんですよ。
    これは、私が書き手だからこそ、分かる気持ちです!

    作者からの返信

    もっこすさま

    こんにちは。いつも拙作へお越しいただき、ありがとうございます。

    そして、今回のコメント、素直にとても嬉しかったです! 最近、書くことに思い悩むことが多く、もやもやしてばかりだったので、

    「すっごい、伝わってきたんですよ。
    これは、私が書き手だからこそ、分かる気持ちです!」

    この言葉がですね、もう、本当に嬉しかったです。ありがとうございます m(_ _)m

  • 葬儀で泣くのも泣かないのも、親族関係に関わらずですね。自語り恐縮ですが、祖父母が亡くなった時は、介護に尽力した母に対して、伯父達に苛立った自分が、むしろ卑しかった、と記憶していたので、舅と姑が亡くなった際は後悔のないように、故人と自分との記憶だけ考えていたら、泣けて仕方なかった事を思い出しました。
    親しい人が亡くなる機会は限られているので、故人が最後に与えてくれる教えの機会だ、と実感して思います。
    彩ちゃんは、今は恐れのようなものが先立ったのかもしれませんが、その自分すらもきっといつかの日に糧になるのではないかな、と印象的でした。

    作者からの返信

    カワセミさま

    こんにちは。いつも拙作にお越しいただき、ありがとうございます。

    コメントの言葉に、いろいろと考えさせられました。

    私は泣くことで感情の制御ができなくなるのが怖いので、泣かずに済むことをありがたいと感じてしまいます。一般的には泣くことを否定しない人たちのほうが多いですよね。そういう方たちは自己を見失わないということに自信があるのだろうなとうらやましくなります。

    カワセミさまのご体験にもあるように、故人と生前(とくに直前まで)どんな関係であったかにより、その死に感じるものはがらりと変わりますね。死そのものに向かい合うことは難しく、安堵や憤りを感じ、そう感じた自分を嫌悪してしまうこともあるでしょう。でも、人によってはその雑音ともいえる感情が救いになることもあります。

    「葬儀は故人が最後に与えてくれる教えの機会」、そうかもしれません。どんなかたちで与えられようと、どんな受け止め方をしようと、ずっと心に残り続け、何かの拍子にほろりと転がり出てきますね。

    彩の受け止め方が印象的だとおっしゃっていただけたこと、光栄に思います。

    コメントをありがとうございました。

  • おはようございます。

    先日近親者が亡くなって、骨上げにも立ち会いましたが、骨を拾い上げるのは近親者だけで、職員の方は手順を説明する以外は見ているだけでした。場所によっても違うのかもしれませんが…。

    昔は故人の好きだったものを、棺に入れて一緒に焼いてもらったりしてましたが、炉を痛めるとのことで、最近はかなり制限されているみたいですね。

    自分が死んだとき、遺体には眼鏡をかけてもらわないと、家族も誰なのか分からないくらいに眼鏡が顔の一部になっています。

    葬儀のときは眼鏡かけておいて、出棺のときは外すことになるんでしょうか?あの世に眼鏡は持っていく必要は無いんでしょうけどね^⁠_⁠^;

    作者からの返信

    十三岡繁さま

    こんにちは。いつも拙作にお越しいただき、どうもありがとうございます。

    朝っぱらから重たい話で恐縮です。

    葬儀って地域性が大きいですね。うちは大きな骨は近親者で拾い、残った小さい骨は職員がざざーっと骨壺に入れてくれました。大きな骨のみ拾い集め残りは廃棄という地域もあるそうです(だから骨壺の大きさにかなり地域差があります)。

    葬儀の順番も地域さまざまですね。父のときは通夜、火葬、葬式の順でした。埼玉で行った恩師の時は、通夜、葬式、火葬でしたね。

    眼鏡は焼いてはいけないようです。最近は紙製の火葬用眼鏡ができているようですよ。入れてもらえば、SDGsだということで、あの世で人気者になれるかもしれません(^^;)

    コメントをありがとうございました。