葬儀で泣くのも泣かないのも、親族関係に関わらずですね。自語り恐縮ですが、祖父母が亡くなった時は、介護に尽力した母に対して、伯父達に苛立った自分が、むしろ卑しかった、と記憶していたので、舅と姑が亡くなった際は後悔のないように、故人と自分との記憶だけ考えていたら、泣けて仕方なかった事を思い出しました。
親しい人が亡くなる機会は限られているので、故人が最後に与えてくれる教えの機会だ、と実感して思います。
彩ちゃんは、今は恐れのようなものが先立ったのかもしれませんが、その自分すらもきっといつかの日に糧になるのではないかな、と印象的でした。
作者からの返信
カワセミさま
こんにちは。いつも拙作にお越しいただき、ありがとうございます。
コメントの言葉に、いろいろと考えさせられました。
私は泣くことで感情の制御ができなくなるのが怖いので、泣かずに済むことをありがたいと感じてしまいます。一般的には泣くことを否定しない人たちのほうが多いですよね。そういう方たちは自己を見失わないということに自信があるのだろうなとうらやましくなります。
カワセミさまのご体験にもあるように、故人と生前(とくに直前まで)どんな関係であったかにより、その死に感じるものはがらりと変わりますね。死そのものに向かい合うことは難しく、安堵や憤りを感じ、そう感じた自分を嫌悪してしまうこともあるでしょう。でも、人によってはその雑音ともいえる感情が救いになることもあります。
「葬儀は故人が最後に与えてくれる教えの機会」、そうかもしれません。どんなかたちで与えられようと、どんな受け止め方をしようと、ずっと心に残り続け、何かの拍子にほろりと転がり出てきますね。
彩の受け止め方が印象的だとおっしゃっていただけたこと、光栄に思います。
コメントをありがとうございました。
おはようございます。
先日近親者が亡くなって、骨上げにも立ち会いましたが、骨を拾い上げるのは近親者だけで、職員の方は手順を説明する以外は見ているだけでした。場所によっても違うのかもしれませんが…。
昔は故人の好きだったものを、棺に入れて一緒に焼いてもらったりしてましたが、炉を痛めるとのことで、最近はかなり制限されているみたいですね。
自分が死んだとき、遺体には眼鏡をかけてもらわないと、家族も誰なのか分からないくらいに眼鏡が顔の一部になっています。
葬儀のときは眼鏡かけておいて、出棺のときは外すことになるんでしょうか?あの世に眼鏡は持っていく必要は無いんでしょうけどね^_^;
作者からの返信
十三岡繁さま
こんにちは。いつも拙作にお越しいただき、どうもありがとうございます。
朝っぱらから重たい話で恐縮です。
葬儀って地域性が大きいですね。うちは大きな骨は近親者で拾い、残った小さい骨は職員がざざーっと骨壺に入れてくれました。大きな骨のみ拾い集め残りは廃棄という地域もあるそうです(だから骨壺の大きさにかなり地域差があります)。
葬儀の順番も地域さまざまですね。父のときは通夜、火葬、葬式の順でした。埼玉で行った恩師の時は、通夜、葬式、火葬でしたね。
眼鏡は焼いてはいけないようです。最近は紙製の火葬用眼鏡ができているようですよ。入れてもらえば、SDGsだということで、あの世で人気者になれるかもしれません(^^;)
コメントをありがとうございました。
佐藤宇佳子さん、こんにちは。
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かなり前のコメントになります。「佐藤宇佳子さんの文章力が~」と言っていたことについて、思い返しました。
この話を読み、あらためて上達されていると感じたのです。
情景を思い浮かべ、なんてコメントすればいいんだろう…。
素直にそう思いました。
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すっごい、伝わってきたんですよ。
これは、私が書き手だからこそ、分かる気持ちです!
作者からの返信
もっこすさま
こんにちは。いつも拙作へお越しいただき、ありがとうございます。
そして、今回のコメント、素直にとても嬉しかったです! 最近、書くことに思い悩むことが多く、もやもやしてばかりだったので、
「すっごい、伝わってきたんですよ。
これは、私が書き手だからこそ、分かる気持ちです!」
この言葉がですね、もう、本当に嬉しかったです。ありがとうございます m(_ _)m