家を守るー2ー2
簡単にシャワーを浴びて、目覚まし時計を一時間後にセットして、ベッドに入った。暗い部屋の天井を見ていると、父親の死に顔がまぶたに浮かんだ。生前にも増して頬がこけ眼窩がくぼみ、黄ばんで血の気の失せた顔。対照的に髪の毛は黒々として量も多く、まだ若い父の無念さが揺らめいているように見えた。
父とはけんかをすることもなかったが、語り合うこともなかった。母と祐介は始終言い争っていたが、頃合いを見計らって、困ったような顔の父が母の肩に手を置き、もう止めとき、と諭すのだ。そんな父を祐介はいつも歯がゆく思っていた。しかし、あの血の気の多い母が、父のそのことばはなぜか素直に聞き入れる。それが祐介には不思議だった。医者になってじいちゃんのあとを継ぐ。そう告げた中学生の祐介を母はさも嫌そうに横目で見たが、父は静かに微笑むだけで、何も言わなかった。
祐介が中学二年生のとき、祖父が脳梗塞で倒れ、数か月間の入院加療を経て病院から川向うの療養施設に入所した。入所するまえ、うちで面倒を見るべきだという祐介と拒絶した母との間で激しい諍いが起きた。そのときも父は議論に加わらず、ただ、ふたりの言い分が出つくしたところで母を黙らせた。しかし、祖父は療養施設に入ることになった。祐介は父を恨み、当初、毎週のように祖父のもとを訪れ、話し相手になったり、食事の介助をしたり、車椅子を押して施設の庭を散歩したりしていた。
ある日、ご飯を食べさせていた祖父の足元にふと目をやった祐介は驚愕した。水たまりができ、さらに、車椅子の座面からぽたぽたと水滴が垂れ落ちている。真っ赤になってあたふたしていた祐介に目を留めた職員が「あらあら、おむつがいっぱいやな、祐介くん、ちょっと待っちょってなあ」と手際よく粗相をふき取って祖父をつれて行き、車椅子を押して戻ってきた。着替えさせてもらった祖父は車椅子の中で右手を上げ「よう、祐介、久しいのう。来てくれたんか」と微笑んだ。何事もなかったかのように平然と食事を再開し、咀嚼の合間に末期がん患者の苦痛緩和について熱心に語った。麻痺の残る口の左端から食べ物混じりのよだれが流れ落ちた。
それから半年後、通夜で数か月ぶりに祖父の顔を見た祐介は、こらえきれずに泣いた。棺の中の祖父は、地域の医療を担っていた、威厳ある自慢のじいちゃんの顔をしていた。
父が死んだ今、涙はいっこうに出なかった。そう言えば、父さんも母さんも、じいちゃんの通夜や葬儀んときには泣いちょらんかった、しみじみそれを思い出す。今だって、泣いたんは彩だけや。母さんもおいちゃんたちも、泣いちょらん。そういうもんなんやな。
そんなことを考えているうちに眠っていたらしい。どこかでうるさいベルの音がする。しばらくたって、目覚まし時計だと気づいた。ぼんやりした頭で、起きんといけん、と上半身を無理やり起こす。暗がりの中でベルを止め、数度瞬きをして、ゆっくりとベッドから足を下ろす。
棺が安置された和室に行くと、部屋中にたちこめる線香の煙が目にしみた。思わず顔をしかめると、上ん弟と高原が眠たそうな目で笑った。
祐介と交代で上ん弟にしばらく休んでもらった。高原にも休んでもらおうとしたが、大丈夫と押し切られ、それならせめてということでシャワーを浴びて来てもらう。
棺の中に横たわる父を改めて見た。きゅっと小さく固まったように見える。頬の上に手をかざしてみる。ほのかに冷気が感じられる。おそらく、保冷用のドライアイスの冷気が体中に伝わっているのだろう。ああ、本当に死んどるんやな、そう思った。
朝十時、葬儀社の職員がかしこまった顔でやって来た。和室の棺の前で恭しく頭を下げ、口のなかで悔やみ言葉を転がす。親族のほうに向きなおると、「最後のお別れを」と言いながら退く。母が父の冷たい頬をそっとなでる。ふたりの叔父が粛然として固くなった顔を見つめる。祐介が彩と容子に目くばせして棺に寄ろうとしたとき、彩が抗った。容子がそっと背に手をやるが、顔を青ざめさせてのけぞり、いやいやをするように頭を振る。「最後なんやけ、きちんと顔を見といてあげ」と母が凛とした声で促すと、うつむいて体をこわばらせた。背中が震え、正座した足の上にぽたりぽたりと涙が落ちる。祐介は彩の頭をなで、「いいけん、気にせんでいいけん。父さんはわかっちょるよ」とつぶやくように言うと、容子とふたりで棺の父と対峙する。生前の面影がすっかり消え失せた遺体の顔にはいかなる感情も呼び起こされなかった。葬儀社の職員が棺の小窓を閉じた。
棺は霊柩車に乗せられ、火葬場へと運びこまれる。白山の山あいにひっそりとたたずむ火葬場で、父の棺は金属の台車に乗せられ、炉に飲み込まれていった。がちゃん、と音を立てて炉の扉が閉ざされると、下の弟が感極まったように「兄やん、さよならのう」とつぶやき、太りじしの体を震わせた。人を納める部屋にしてはあまり小さな扉に、祐介は息苦しくなった。気づくと、制服姿の高原が祐介の右腕にしがみついていた。
一時間後、待合室で待つ親族たちは炉の脇の小さな収骨室に呼ばれた。部屋の中央に置かれた台の上には、一面に広がる灰と、散らばるいくつかの白い骨、頭蓋骨。それを見た瞬間、祐介の頭の中は真っ白になった。
中学二年のときに祖父の葬儀に立ち会い、
じいんと痺れたような頭で、母がつまんでは差し出す長い箸の先から骨を受け取り、高原に渡していく。高原は泣きじゃくる彩をいたわりながら、その手のひらにそっと骨を乗せる。
型どおりの儀式が終わると、残りの骨は職員が、丁重な口調とは裏腹に、腹が立つほど手際よく骨壺に収めていく。入りきらない骨は容赦なく押し砕いて入れる。その鈍い音に、上ん弟が自分の骨が砕かれるかのようにひょろりとした身をすくめた。
極彩色の袋に収められた小さな壺となって、父は祐介の腕に抱かれている。こんな形で父を抱擁することになるなんて、思ってもいなかった。きらびやかな袋を見ていると、ずっと胸の奥につかえていた塊が喉の奥までせりあがってくるのを感じた。思わず袋をむしり取り、白い壺を胸に抱いて外に出た。排泄物も、分泌物も、吐しゃ物も、においも、手触りも、体温も、微笑みも、声も、まなざしも、もはやそこにはない。小春日和ののどかな日差しがひんやりとした骨壺にやわらかく降り注いだ。
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