【6.いそべとみたらし】
いそべとみたらしー1
一月上旬の日曜日の朝、疋田は自転車で高校の弓道場に向かっていた。朝八時前。朝日は落ち着いた輝きを放ち始めているが、空気はまだ、きんと冷たい。この頬を切るような冷たさが疋田は嫌いではない。白い息を吐きながら、いつもより弓道場に近い駐輪場に自転車を止めていると、かすかに
昨年十二月の市の弓道大会で、疋田は竹史を抑えて祐介、中川とともに
弓道場の鍵を借りに行くと鍵はなかった。やはり誰か来ているらしい。せっかく一人で集中できるっち思っちょったねえ。出鼻をくじかれた気分になった。休日にこげん朝早くから誰じゃ? 不審に思いながらプール棟の横を通って
ひとつひとつの所作を確認するように、ゆっくりと動く。
なんかいつもの練習んときと雰囲気が違う、疋田は首をひねった。
弓をゆっくりと引き分ける。喜怒哀楽の読み取れない横顔に、細い背中に、腕に、不思議な気魄がこもっている。
「おはよ。何時からやりよるん?」
「――六時半」
「はあ?! なんし、そげん早くから?」
「――」
相変わらず愛想のねえやつ、そう思いながら弓に弦を張る。着替えて再び射場に戻ってくると、的場に的が三つ並んでいるのに気づいた。
「お? もしかして、的、立ててくれたん?」
「ん。三的、使って」
「――ありがとう。二的、誰か来るん?」
「もうじき、ゆうが来る」
「あ、そうな。中川も来るで。たぶん、九時まえに」
「じゃ、もうひとつ?」
「うん、使うかわからんけど、立てとこう。俺、やるわ。位置見ちょって?」
「ん」
疋田は
しかし、ちらちらと二射目、三射目を見ているうちに、そうじゃないとわかった。さっきかいま見たあの凄みの気配が竹史の体からほのかに立ち上ってきている。なん? なんが違うん?
四射目を終えると竹史が振り返った。表情の読み取れない顔で疋田を見る。
「引かんの?」
疋田は自分が食い入るように見入っていたことに気づき、慌てて弓を手に取る。竹史が矢取りを終えるのを待ち、息を整え、行射を始める。自分の射に集中しようとする。手が冷たく、体が思うように動いていない気がする。なんだか集中できず、つい、目の前で引いている竹史を見てしまう。小さな竹史が不思議と大きく見える。こいつ、こんな射しちょったっけ? いつもと、なんが違うん? 竹史の後ろで二射した。竹史の三射目にぞっとした。行射を止めて弓を倒し、竹史の四射目を見る。
亜麻色の機械油に浸った無数の歯車を思い浮かべた。動力につながったひとつの歯車がくるくると回転を続けているが、周囲の歯車は静止したままだ。そこにひとつの小さな歯車がきらきらと光りながら落ちてくる。その歯車があるべき箇所に収まった瞬間、すべてがかみ合い、歯車は一体となって油のなかで鮮やかに回転を始める。装置は滑らかに動き始める。
緩急つけた射であるにもかかわらず、決して止まってしまうことはない。ひとつの所作が次の所作に引き継がれ、常に滑らかに動き続ける。静かに矢をつがえ、弓を構え、引きしぼる竹史の体から、周囲をなぎ払う気魄がほとばしる。この気魄、どっから来るんじゃろう。所作の鋭さか、鮮やかに決まった
「ごめん、ちょっと見取り稽古さして……」
そう言って射場の奥に下がる。眉根を寄せた竹史が疋田を見て口を開く。
「――矢取りしてくる」
「あ、じゃあ、俺も」
そのあと八射ほど竹史の射を見ていたが、あの悪寒が走るような射は現れなかった。キツネにつままれたような気分じゃ、そう思っているところに中川が来た。
「おっはよう。あれえ、
そう言って射場に上がってくると弓の準備をし、袴に着替えて戻ってきた。
「疋田はやらんの?」
不思議そうな顔をする。
「弓がなかなか落ち着かんかったんじゃ。中川が引き始めるときに一緒に始めるわ」
言い訳がましく言うと、疋田はまた竹史の射を見る。中川も肩をほぐしながら竹史に目をやる。
「ん、
「すげえきれいな射をしよった。二、三回だけやけど」
「ああ、あれなあ」
さらりと返した中川を疋田が見る。
「おまえ、見たことあるん?」
中川が笑う。
「うん、去年の秋ごろから、たまあに見ちょるわ。部活んときにはほとんど見らんけど、居残りで練習しちょるときとか、自主練のときとかにな。あれ、たまげるよなあ」
「なん? あれ」
「さあ?
「あげなん見せられたら、あの後ろで行射なんち、ようできんわ」
真顔でかこつ疋田を見ていた中川が、そうや、そうやと言いながらカバンを探り始めた。
「これ、これ。今朝さあ、おやじが店から大量に引き上げてきたんよ。練習始める前に食わん?」
床に座ると、カバンから銀色の保温バッグを取り出した。開くと、白、黄、茶色のくったりと柔らかそうな餅が出てきた。中川の家は和菓子屋である。
「ちょっともち米の蒸し具合が悪うて柔おうなりすぎたけえ、店には出せんのやっちさ。家、出る前、まだあったかかったけえ、今食おう? おーい、
ちょうど矢取りに向かおうとしていた竹史に中川が呼びかける。竹史はにこりともせずに寄ってくる。
「なん?」
中川がにこにこしながら、まあまあ座りいと自分の隣を軽く叩く。
「うちん店のできそこないの餅。いっぱいあったけえ、今日来るやつに食わそうと思って持ってきたんよ。あったけえうちが柔えけえ、今食べり? あ、お茶もあるけん」
中川の脇に突っ立ったまま、竹史がもじもじする。
「俺、
中川が水筒から紙コップにお茶を注ぎながら言う。
「うん、知っちょん。いそべ餅も持ってきちょるけん。砂糖醤油じゃのうて、醤油だけんやつな。あとは、大福とあべかわとみたらし」
へへ、とつやつやした丸顔をほころばせると、竹史を座らせ、お茶とラップに包んだ小ぶりないそべ餅をふたつ、竹史の膝もとに置く。疋田が大福にかぶりつきながら、うま、とつぶやく。中川があべかわは食べにきいわ、ときな粉を散らしながらほおばり、疋田からあとで自分で掃除しろよ、と釘を刺される。竹史はしばらく戸惑った顔でいそべ餅を見ていたが、包みを開き食べ始める。
【注.弓道用語ー2】
今回も数点、弓道用語の説明を付記させていただきます。
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・矢取り:放たれた矢を回収すること。
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