文化祭ー3
モルタル塗りの白い壁がじっとりと汗ばむくらいじめじめとした雨の日でさえ、理科室はなぜか、乾いた埃っぽいにおいがする。小さな流しの付いた黒い天板の実験台が整然と室内を埋め尽くしているさまは、まるで工場のようだ。壁には近隣で見られる野鳥の説明や観察報告などが、丁寧な文字と緻密なスケッチで、種別のポスターとなって掲示されている。入口に一番近い実験台の上には、「ご自由にお持ちください」という貼り紙と可愛らしい鳥のイラストで飾られたトレイが並べられ、その中には研究会の活動内容の紹介、市内の野鳥観察スポットの地図、身近な野鳥の見分け方の簡易冊子がおさまっていた。その冊子をぱらぱらと見ていた高原が無邪気な声をあげる。
「あ、ハシボソガラス――」
声をたててから、しまった、と口を押え、竹史のほうに目をやるが、驟雨の音に紛れ、聞こえなかったらしい。じっと壁のポスターに見入っている。高原はほっとして簡易冊子を手に取り、ポスターを最初からゆっくりと見始めた。
* * *
特別棟の階段を上がるときから、竹史はあとをついてくる高原に気づいていたが、めんどくせえ、と思って無視していた。ハシボソガラス、と彼女が声をあげたのも聞こえており、へえ、あいつ鳥に興味あるん、と一瞬気を取られたが、振り返りはしなかった。
鳥が好きだった。どこがと問われると困る。柔らかな羽毛だろうか、美しいさえずりだろうか。優雅に空を舞う、たくましく駆ける、あるいはしなやかに泳ぐ、その目的のためにすっぱりと特化させた体だろうか。もしかすると、つややかでうつろな目かもしれないし、生き急ぐかのような体温の高さかもしれない。いつだって鳥は竹史をひきつけてやまなかった。
入学してすぐに野鳥同好会があることを知ったが、入会しようとは思わなかった。鳥は好きだったが、人間は苦手だったからだ。誰かと群れて野鳥観察をし、鳥への愛を語り合うなんてまっぴらだった。
丁寧に一枚一枚ポスターを読んでいく。最後の一枚を読み終え、ふと後ろを振り向くと、ちょうど反対側の壁のポスターに見入っている高原が見えた。『カワセミ』。高原が首をひねる。ひねったまま隣のポスターに移ろうとしたとき、自分に目を向けている竹史に気づいた。首をひねっていた表情のまま、竹史に呼びかける。
「なあ、
「――書いちょるやろ」
「わからんもん」
「羽の微細構造が原因で現れる色」
「構造で色が変わるっち、どげんこと? それに、水色と紫色って、違う色やん? なんし、そげなるん?」
「微細構造が違うん」
高原が首をひねる。その顔を稲光が照らし上げた。ゴロゴロと地を揺さぶるような雷鳴がすぐ後を追ってくる。竹史は短くためいきをつき、そばにあったチラシを一枚手に取ると、高原の近くの実験台の上に裏返して置く。左手にペンを持ち、ゆらゆらと揺らしながら言う。
「太陽の光って、実はいろんな色の光の集合体っち、知っちょるな?」
「うん?」
その返答に一瞬ペンの動きが止まる。竹史はあきらめたようにペンを走らせはじめた。
「太陽光をプリズムに通すと虹みてえにいろんな色に分かれる。それが透明に見える太陽光を構成しちょる単色光。つまり、それらすべてが混じりあうと透明に見えるん」
プリズムの絵を描きながら説明する竹史に、高原が待って、待って、と右手を上げ、話を遮る。そのとき強烈な稲光と同時に轟音がとどろき、竹史は思わず首をすくめる。高原は動じない。
「ちゅうことは、すべてじゃなくて、一部しか混じらんかったら?」
竹史が目を上げて高原を見た。淡いハシバミ色の瞳。高原の心臓がとくんと音を立てる。
「その光には色がつく」
「へえ」
「構造色を持つ羽の表面には薄い膜や微細構造があるん。そこに太陽光が当たって、反射した光が目に入ると、それが羽の色として感知されるんやけど、単色光ごとにその挙動が異なるん」
高原が眉を寄せて、再び遮る。
「挙動が異なる?」
「
高原が首を傾げる。
「ん?」
竹史が目を落としてしばらく考え、ペンを走らせる。窓の外からさあさあという雨音が聞こえてくる。
「――薄い膜に光が当たると、その表面で光が反射する。でも、表面だけやのうて、膜の中にいったん入ってから反射して出てきもする。人間の目はそうやって返ってきた光をまとめて感知するんやけど、そのとき、光の色によっては、もとの強さより少し弱まったり、あるいは、すごく弱まったりする。微細構造に光が当たったときも、同様のことが起きる」
「弱まり方の違うんが、干渉の具合が違うっちこと?」
「ん。やけん、外に出てきて目に届く光に含まれる単色光の組成は、太陽光に含まれるもんと変わる。それで羽に色がついとるように見えるっちこと。何色になるかは膜の厚みとか枚数とか微細構造の構造次第」
「ってことは、カラスの羽っち、本当は色がついちょらんの?」
「いや、ついちょる。メラニンっちゅう黒い色素を持っちょるけん、基本は黒。その上に構造色が上乗せされて、黒紫色に輝いとるっちこと」
「ふうん、なんとなくわかった。ありがとう」
そう言って少しだけ笑い、ポスターに向かった。もっと面倒くさく絡まれると構えていた竹史は拍子抜けした。気を取り直して出て行こうと歩き始めたとき、再び高原が振り返った。
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