自転車旅行ー2

 午前一時、竹史はふと目を開く。七日間の自転車旅のあとで、もともと体力に自信のない体はくたくたのはずなのに、なんし目が覚めたんじゃろかと不思議に思う。そのとき、部屋の中が薄ら明るいことに気づく。まるで浅瀬の水底に横たわり、天を見上げているかのようだ。枕に頭をあずけたまま窓に目を向ける。網戸の窓からこうこうと輝く白い月が見えた。思わず布団のうえに起き直り、窓辺にいざり寄ると、網戸をそっと開け放つ。道路一つ隔てた真っ黒な海にひっかき傷のような銀色の波が無数に立っている。月の下にはさえざえとした光の道。ごう、ごう、と浜に押し寄せる波の音がする。しっとりと空気に馴染んだ磯のかおりが入ってくる。ほてった肌をひんやりとした夜風がくすぐる。背後で穏やかな寝息が聞こえる。帰りとうねえな、今まで押しやっていた思いが、ころん、と心の中に転がり出す。


 四時半、月明かりよりも鮮烈な朝の気配に竹史は目を覚ました。身を起こすと、窓辺に目をやる。まだ暗い海のかなたで水平線がぷつぷつとはじけだしそうな予兆を漂わせている。水平線の上空には暗赤色の夜の残滓ざんしがよどみ、じわりじわりと海面へとにじみ出ていこうとしている。その上には黄、黄緑、はなだと陰気に色合いを変える夜の上澄み。竹史は窓辺に座った。海面は直上の薄明を受けて、すでにほのかに光っている。黒い小さな漁船の影が二、三、行き交うのが見える。


 時が色づく。


 ぼんやりと眺めているうちに、水平線上の空が彩度を増していく。橙色、水色、紺碧。海上のほのかな照り返しが暖色を帯びる。裏山でホトトギスが鳴き始めた。水平線上の空は刻一刻と輝度を増し、そのはるか上空ではおりを落としきったまっさらな蒼穹がさえざえとした深みを誇っている。壮大なクロマトグラフィーに竹史は目を奪われる。


 朝五時、空全体が白み始めると、竹史は祐介をたたき起こした。

「ゆう、ゆう、いつまで寝ちょるん? 起きい。ほら、見てみ、もうすぐ日の出じゃ。すげえ綺麗じゃ」

 祐介が顔をしかめながらぼんやりと目を開けると、逆光に沈む竹史のうす暗い影が目に入った。その背景は橙色に燃え立つ海に黄と薄紫と紺色の空。

「たけ、おまえ、じじいか? 朝はえらい元気じゃの?」

 祐介は目をこすりながら立ち上がり、窓枠に手をついて外を眺める。餌をねだるひな鳥のように竹史が意気込む。

「ゆう、ゆう、海、行ってみろう」

 汗で貼りついた前髪をうるさそうにかきやりながら、祐介が答える。

「おう、どうせなら泳ごう」


 日がのぼる。水平線から顔を出した太陽は、あっという間に水色の空に跳ねあがり、あたりの空気を一気に黄金色に染め上げる。光の道が目を眩ませるほどの強烈さで水平線から浜辺へとつながる。

 ふたりは昨日の熱をほのかに残す砂浜をはだしで歩く。日差しはじわりじわりと白熱し、さらりとしていた潮風が粘り気を帯びて体にまとわりつく。

 ふたりで水に分け入る。最勝海にいなめ海岸はことのほか水が澄んでいる。早朝の、まだ水がぬるむ前の海に入ると、一週間のサイクリングでくたくたになった体から疲れが溶けだしていくような心地よさがあった。ぷかり、と波間に浮きながら祐介が言う。

「ああ、ひんやりして気持ちいいな、たけ?」

「股が痛てえ」

「ああ、サドルですりむけたとこな。俺もしみちょるわ」

「ゆう、おまえ日焼けはしょわねえん(大丈夫なの)? 真っ赤じゃが?」

 色白の祐介は夏の強烈な日差しを浴び続けた一週間のあいだに、皮膚が真っ赤になった。一時はところどころ水泡となっていたが、ようやくそれも落ち着きはじめ、白く乾いた皮がむけかけている。

「まあ、これくらい、しょわなかろ」


 三十分ほど遊泳を楽しむと、二人は宿に戻り、シャワーを浴びてから朝食をいただいた。手早く支度を済ませると、帰路につこうとする。奥から花柄かっぽう着の宿のおばちゃんが出てきて、煮しめたような顔をほころばせて、早えな、もう行くん、気をつけて帰りい、と割れ鐘の声で叫ぶ。

「あ、そうや、写真、撮っとかんと」

 祐介が荷物から使い捨てカメラ(注1)を取り出す。

「浜で撮るんか? おばちゃんが撮っちゃるわ」

 ふたりはおばちゃんと一緒に道路を横切り浜辺に降りる。残りあと三枚あるけん、二枚撮ってもらおう、そう話す。

 浜辺のすぐそばまで迫っている山でクマゼミがしきりに鳴く。ときおりツクツクボウシの声も混じる。

「じゃ、撮るよ」

 柔らかな海風になぶられると、なぜかわからないけれど感傷的になり、ふたりは並んで突っ立ったまま写真に納まる。シャッターを押したおばちゃんがからからと笑う。

「もう一枚撮るんやったらさ、あんたら、せっかくの記念なんやけん、もうちっとリラックスしいや」

 祐介が苦笑いして右を向き、左足を一歩踏み出して膝を曲げ、右手でガッツポーズを取った。それを見ていた竹史も、並んでそれをまねた。

「ははは、いいわあ。じゃあ、撮るでえ」

 おばちゃんがカメラを構えた瞬間、竹史が祐介の背中へと飛び込む。飛びつかれた祐介は少しよろめくが、持ちこたえ、竹史を背中に乗せたまま、カメラのほうに笑顔を向ける。

おばちゃんがはははと笑いながらシャッターを切ると、祐介は竹史を背中から砂浜に振り落とし、頭をごん、と小突いた。


 くねった沿岸をなめるように走る道路を前後並んで自転車で駆け抜ける。竹史が前、祐介が後ろ。竹史の細いふくらはぎがリズミカルに盛り上がっては平らになるのを見るともなく見ながら、祐介は悠然と自転車をこぐ。白けたアスファルトが太陽の光を反射し、祐介でさえ目が痛むほどだ。この照り返しじゃと、あいつの目、見えとらんのやねえか、よくまあ、一週間耐えたなあ。あいつ、もっと、思ったことははっきり言えばいいねえ、なんし、あげん無口なんじゃろ。




【注1: 使い捨てカメラ】

 デジカメやカメラ付き携帯、スマホがなかった時代、写真はカメラにフィルムを装填して撮影していました。1980年代にレンズ付きフィルムとしていわゆる使い捨てカメラが登場すると、誰でも手軽に写真が撮れるということで大流行しました。

 重たくてかさばるカメラを持ち運ばずに済み、気軽にスナップショットが取れる使い捨てカメラは学生の旅行のお供として重宝されました。

 フィルムを現像するまで写真の出来栄えが確認できない不便さはありますが、それも楽しみのひとつととらえ、令和の現在でも密かな人気があるそうです。

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