第4話【ちょっとした登山】
「いっ・・・・・・一旦休憩しない?」
「大丈夫大丈夫もうすぐだから」
「それ30分前と1時間前にも言わなかった・・・・・・?」
僕は結局彼女の後を追いかけ、本当に道無き道を進んでいた。彼女曰く「ちょっとした登山だから、いい汗かくよきっと」らしいのだが。これのどこが「ちょっとした」登山なのだろう。背の高い針葉樹のおかげで木漏れ日程度の日差しだけど、風が無いせいで心地よさはゼロ。そもそもの傾斜は凄いし、雑草は腰の高さまであるから枝で引っ掛けて服は破けるし、根っこは地面から飛び出してるからつまづいて転んじゃうし。挙げ句の果てにはロッククライミングまでさせられて、もしこれで死にでもしたら遺体が見つかる頃には白骨どころか風化して誰も見つけられないこと必至だ。何度も、と言うより今も、目の前を登る女の子が実は猟奇的殺人犯で、僕をこの山の中で殺すつもりなんじゃないかという妄想が頭をよぎる。不用心ながらこんな山奥まで来てしまったのも、途中で引き返そうとしたはいいものの道が全く分からなくなっていて、彼女について行く以外なかったからだ。帰れるものなら今すぐに帰りたかった。
「ほらへこたれてないで、置いて行くよ」
「お願いだから・・・・・・5分休憩させて」
「さっき休んだばっかりなのに今休んだら後がきついって」
「さっきって1時間前なんだけど」
「はいはい、もうちょいで着くから」
「いやほら・・・・・・頂上が近いなら一旦休むのも、ありかなって」
「ノートに書いてある事は一旦置いといていいから、足動かして」
「本当に休憩したいんだけど・・・え、なんで知ってるの?」
「さあね。てか書いてなくてもそれくらい常識じゃん」
驚く僕を他所に登り続ける彼女の言う通り、ノートには確かにその一文と説明が書いてあった。
登山の休憩は登り始めてから30分くらいを目安に1回目。その後は40分から60分に一回のペースで取るのが良い、と言うのが一般的な考え方。ぶっ通しで歩き続けるのは勿論、休み過ぎるのも温まった体が冷めてまた動いてを繰り返す事で、余分なエネルギーを使ってしまい逆に疲れてしまう。(※天候や体調によって臨機応変に)
また、登頂前に一度小休憩を挟むのも効果的。
とある。
登山の常識だとしても知っているかどうかはまた別の話。ノートを見せてはいないし、盗られたりもしていないのにどうやって知ったのか不思議だ。それとかれこれ1時間以上登っているのに全然疲れているように見えないのも不思議だ。休憩の時に水分補給はしていたみたいだけど、小学生並の疲れ知らずだ。
休憩の事を微妙にはぐらかされながら、一心不乱に登り続けて2時間弱、ようやく目的地が近づいてきた(らしかった)。
「見えてきたよ、あの岩」
「岩? 今岩って言った? 家の間違いじゃなくて?」
「そう、岩。勘が当たってれば今日でいいはず。あ、そうだ。私が良いって言うまで振り向かないでね、振り向いたら落とすから」
と、いかにも彼女らしい励ましの台詞が耳に入ってくる。振り向くも何も、背後には木しか無いから振り向きようも無いんだけど。それに「勘」なんてそんな不確定要素でここまで来たのか? ほんと僕も馬鹿だな、と自嘲気味に小さく笑ってとりあえず足を進める。
顔を上げると苔がびっしりとこびり付いた一際大きい岩の下部分が見えてきた。見上げても針葉樹よりも背が高く、頭の部分は葉に隠れてここからでは全容は分からない。多分この前テレビで家が何件も建てられてる岩よりは小さい(日本にはそこまでの物は無いらしい)けど、立派な岩だった。沈みかけの夕日が当たって赭色(そほ色ー黄みを帯びた少し暗い赤色の事)になった岩肌が木々の隙間から見え隠れしている。長い間鬱蒼とした山道を進んで来たから久しぶりの色味を見るだけで何となく嬉しかった。
一体町からどれくらい離れたんだろう。自分でも驚くくらい無謀な事をしていると思う。いるか分からない祖母に会う為に島根まで来て、知らない女の子について行ってごちゃついた雑貨屋でただただ待たされ、終いには山の中。二時間も掛けたのに未だに人家一つ見えない。せめてもう少し観光しておけば良かったな、と通りの風景を思い出そうとしていた。
だから、忠告を忘れてつい振り返ってしまった。
登って来た道は輪郭がぼやけて霞み、暗く吸い込まれそうな淀みを帯びていた。青々としていた草木は吹いていないはずの風に揺れて、違う生き物がそこら中にいるみたいに見えた。
突然汗がスッと冷える感覚が襲って来て自然と鳥肌が立つ。一度想像するともう止まらなかった。
その蠢く黒い何かしらが日が落ちるにつれてずるりと這い出し、僕の足を絡め取る。そのままゆっくりと引きずられ、生温く粘ついた触手が足先から段々と僕に張り付き、やがて僕もその何かに為っていく。
この山に入って遭難した哀れな人達の成れの果て。寂しさを紛らわす為に次々と手当たり次第に呑み込んで、呑み込んだ末に出来上がった。もし今日このままどこにも辿り着けなかったら・・・・・・?
「大丈夫」
いつの間にか横にいた彼女はそっと僕の肩に手を置いた。
「何も出来ない、そこには何もいない、ただの勘違い。それだけ考えれば大丈夫」
「あれは一体何?」
「何でもない、ただの草」
「・・・・・・何でもないただの草、ただの勘違い」
目を閉じると同時に深く息を吸い、吐き切ると同時に目を開ける。一瞬それらが更に迫って来ている光景が脳裏に過ぎったけど、ただ草木がそこにあるだけだった。
「ほら、信じるか信じないかはあなた次第ってやつ?」
「急に胡散臭くなったけど」
「まあまあ、全部そんなもんだよ」
そう笑って先に進む彼女の手が微かに震えていたのを僕は感じ取れなかった。
凹凸が不鮮明になったせいで何度か足を滑らせながらも、やっと岩の頭付近まで辿り着く頃にはもう太陽は殆ど地平線に沈みかけていた。
「まだ着かないの?」
「ちょっと寄り道してるだけだから」
「こんな山の中でどこに寄り道する所がある訳?」
僕の質問には答えずに手すりもない岩の上に登って、ギリギリの所まで歩いて行く。
「危ないよ」
「大丈夫大丈夫。用があるのこっちだから」
「でも」
彼女は急に立ち止まり、一つため息をついてこちらを振り返って言う。
「あのさ、またそうやってうじうじして何でも逃して行く訳? どうせ適当に前ならえして、どうでもいいやつの顔色気にして生きてきたんでしょ」
「いや、そういうわけじゃ」
「否定するのは簡単だけどさ、何になるの?」
「そんな事言われたってどうしようもない事もあるじゃん」
「それはあんたに勇気が無いだけ」
「勇気なんてあっても無駄にしかならなかった」
「本当に? 全部無駄だった? やり切ったって自信持って言える? どうせ大して努力もしてなくて『やった』って言うんだよみんな。本当の壁も知らないで」
彼女の丁度真後ろにある太陽が沈みかけ、オレンジと濃い赤を足した空が群青色に変わっていく。
「・・・・・・もうすぐ真っ暗になって何も見えなくなるけど、今ここで踏み出せなかったら折角家出した意味も無くなるんじゃない?」
「家出なんて言ってないただの旅行」
「一人で来たくせに?」
「っ、大体祖母の家を教えるって言うから付いて来たのに全然着かないし、何も教えてくれないどころか君の名前すら知らない状態で色々言われる筋合いなんて無いと思うんだけど」
「・・・人に優しくしても自分に優しく出来ないと嘘」
「え?」
「新しい物も古い物も大事にしなさい。正しく使えばいつか自分に返ってくる」
「どうして・・・・・・」
「物事には順序がある、一つ一つ手を付けて、次に進みなさい」
「・・・・・・」
「人も物も全て繋がって和になる、人と人、人と物、その継ぎになりなさい、だっけ?」
「・・・・・・そうだよ」
「私よりはいい名前かもね」
「それは・・・聞かないと判断できないと思う」
「だよね、でも教えてあげない」
「あのさあ」
「鳴海」
「なるみ?」
「海が鳴るで鳴海。こっからじゃ海なんて見えないけど」
「なんで教えてくれたの?」
「さあね、自分で少しは考えたら? それより前」
促されて見た視線の先で夕陽の先端が地平線に落ちていく。頭まで海に齧り取られたその瞬間、緑色の閃光が瞬いて消え、辺りは暗闇に包まれていった。
そこからは今までの道のりが嘘みたいに早かった。岩の先端から家の明かりが見える程近く、少し行けば石段に繋がっていた。石段を上がった先は家の裏手で、そこから家を囲う土で出来た塀を山肌沿いに行くと正面の門に着く。
塀の一辺だけでも百メートルぐらいあった気がする。裏手の塀も山にぶつかるくらい長かったし、こんなに広い家屋が下の町から全然見えなかったなんて。
こんな山道を二時間以上も登れば、家が見えないくらいの奥地まで来ていたとしてもなんらおかしくはない。でもこれは・・・・・・
「夕方言った事覚えてる?」
「えーっと・・・・・・」
「会ってない事にしてって話!!」
「え、あーごめんそうだったね。けど何で?」
「それはその、ほら、大人の事情ってやつ」
「具体的に教えて欲しいんだけど」
「だから察してよ、日本人でしょ?」
「それは今関係ないと思うんだけど」
「じゃあ乙女にあれこれ詮索しないってのでどう?」
「どうって何で提案されてるの? ていうか何をはぐらかしてる訳?」
「叱られるからでしょうねえ」
「そう叱られるから・・・・・・」
「・・・・・・え?」
「継、遠い所からよく来たね。いらっしゃい」
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