第2話【早い再会】

物心がつく前からこのノートが絵本の代わりだった。母さんがくれた古びたノートには僕の知らない事が沢山書かれていた。山の天候の変化とか道具の手入れの仕方に建築の基礎まで、内容は多岐に渡っている。小さい頃は暇さえあれば読んで読んでとせがみ、母はそれに応えてくれた。沢山沢山聞かせてくれた。でも、どんな空想の物語よりも母の体験とそれを話す顔が大好きだった。それだけ母の毎日は充実していて、実りある人生だったんだろうと子供ながらに感じていた。


 母の貴重な物語の中でも異色を放っているのが、中間以降に多くある神仏についてだ。今の時代でならすぐに調べられる様な事から、儀式めいたものまで。どうして神やら仏やらをここまで詳しく調べていたのか真意の程は分からない。登山が趣味だった母にとって、山は神聖な場所で敬意を表す為には必要な知識なのかもしれない。その多彩な資料の一ページにとある図が載っている。上から見た出雲大社の平面図で、そしてそのページで見る限り出雲大社の西の方には、この重厚な門がある。古事記に記述があるのか、はたまた本当に昔から門があるのか。兎に角、面前に在る事だけは疑いようのない事実だった。


 改めて門を細部まで確認して気付いた事が二つある。一つは瑞雲が描かれている部分は全て石で造られていて、しかもそれは黒雲母で出来ていた事だ。石を削って作る装飾は数多くあるし、現代の加工の技術を持ってすれば可能な事だ。けれど黒雲母はそう簡単に加工出来る鉱物では無い。へき開が一方向だからだ。

 へき開と言うのは結晶や岩石の割れ方が特定方向へ割れやすい性質の事で、雲母系の鉱物はその方向が一方向のみになっている。つまり割れるというより薄い紙の様に剥がれると思って貰えればいいかもしれない。それ故にアクセサリー等に使用されていても原型に近い形で売られている。そんな黒雲母が扉のサイズで切り出された上に綺麗に加工されているとなれば、どんな石工職人も弟子入りを志願するレベルだ。

 そして、二つ目に気付いた事だが、いや、理解するまでに時間が掛かったと言うべきかもしれない。

 扉の模様は黒雲母、格子は銅、枠組みは青銅で出来ている。全体が劣化して金属部は錆び付き、触るとせっ褐色の粉が指先に纏わりつく。随分昔からここにあったと考えられるが、いつ造られたかのか検討も付かない。

それだけ前の物という事は、化学技術も現代とは比べ物にならない程に低い水準にある。にも関わらず、その全てのパーツが一つに繋がって、溶け合っていた。触ってみても完全に繋ぎ目が無い。

 例えるなら三色の飴を練り合わせて作る飴細工の様だ。延ばして切って、繋げて練り合わせて作る。理屈が分かって如何に匠の技が結集したとしても、こんな物を作れはしないのは素人にも一目瞭然だった。思わずカメラのシャッターを切る。

 「どうなってるんだこれ……。」

……シャラン……シャララン

「また……やっぱり本殿の方から」

 八足門で聞こえたものと同じ音が等間隔で聞こえてくる。あの白装束の人がずっと鳴らしているのだろうけれど、姿が見えない。となればやる事は決まっていた。

 門の中と辺りに誰もいない事を確認して、念の為もう一度見渡してみる。しかし、よくよく考えてみれば立ち入り禁止の文句も無く、堂々と開いているのだから何を臆する必要があるのだろう。ノートには確かに書かれているけれど他にも奇想天外な話がいくつもある訳だし、何の意図があるのかはさておき、現に目の前に存在している。それをただ書いたのだと思えば何の不思議も無い。知らない土地に来て、初めて見て知ったから少し驚いたに過ぎないのだ。

「よし」

 初めての遠出に浮かれていただけ、気にし過ぎていただけ。ただそれだけだ。軽く息を一つ吐き門の中に足を踏み入れようとしたその時。

「ダメ!」

「うわっ!」

思い切り右腕を後ろに引っ張られ、背中から倒れ込みそうになった。咄嗟に左腕を前に伸ばしてバランスを取る。

「それ以上進んだら戻って来られなくなるから……止まって」

 急に現れて突然不思議な事を言うこの声には聞き覚えがあった。体勢を元に戻して顔を確かめると、やはり想像と寸分違わぬ短髪の女の子がそこにいた。そのくっきりとした顔立ちに驚きの表情が現れて、次に僕を訝しむものに変わった。

「何でまた君なの」

「それはこっちの台詞だと思うんですけど・・・・・・」

 突然呼び止めた上に悪態をつくとは、本当に外と中が一致してるんだなと寧ろ感心してしまった。同年代でもここまで露骨に嫌な顔をする人は少なかった。

 だから、その新鮮さに嬉しさを覚えてしまったのだと後になって思う。この時は不信感しか無かったけれど、こうして感情を表に出せる事が羨ましく思う気持ちが、彼女との関係を密にさせてくれる要因の一つになっていった。反面、僕はその表に出ている感情にしか目を向けていなかった事もまた事実で、この夏に起こる一連の大事件の引き金になるまで、僕は僕の幼稚さに気づくことは無かった。

 暫しの間があって、右腕を掴まれていた事に意識がいく。彼女の白くて細い手に筋が浮かび上がるくらい僕の右腕を強く握り締めていた。

「すみません。その・・・・・・手を離してもらえますか。」

「え、あー・・・・・・・」

 何故か一瞬僕の後ろに視線を移して

「多分もう大丈夫」

と言って手を引っ込めた。汚い物でも触ってしまったかの様な態度は、初対面の相手に対してなら確かに正しいが、この場合触って来たのは彼女の方だ。誰かに触れた後〇〇菌が移ったと言って、他の人になすり付ける遊びをする小学生の方がまだ理解が出来る。お互いに嫌悪感を丸出しにしながら、落としてしまったバッグを拾おうと後ろを振り返る。

「・・・・・・え?」

 つい数秒前まであった門が無くなっていた。

 代わりに小さな祠がちょこんと佇んでいた。

 本殿に比べ圧倒的にサイズが小さく、きちんと案内されていないあの祠だった。門と祠が入れ替わる等、一朝一夕でも不可能に近い。それが振り向いた数秒の間に起こるのとあらば、思考が停止してしまうのも無理は無いだろう。自身の処理能力を超えた出来事は、停止以外の挙動を許さない様に出来ている。後ろから「固まってるとこ悪いけど私行くよ? じゃあね」と声を掛けられているがそれも右から左へと流れて行く。無意識に右手が祠の存在を確かめようとゆっくり伸ばされ、触れるまで数センチ。

 瞬間、指先のくすみに焦点が合った。勘違いでは無い、この赤茶けたくすみは見間違う事無く鉱物と鉄の錆びの跡だ。こすり合わせるとザラザラとして、鉄と錆の匂いがまだこの指先にはしっかりと付いていている。

 であればこの祠は触れないと考えるのが妥当。

「・・・・・・・・・・・・」

 間違いなく古びてカサついた木の感触がする。念の為匂いも嗅いでおく。枯れた木とカビの入り混じった匂いが鼻を突く。この祠も本物らしい、とすれば門は本当に消えてしまった。

 神出鬼没の白装束の人影、瑞雲の門、消えた門、突如現れた祠。

 いくらノートに書いてあっても、あくまでそれは書いてあるだけで現実にあるとは思っていなかった。湧き水が途切れる間も無く溢れ出る様に、僕の頭の中を疑問が支配していく。


 誰か、この問いに答えてくれる人はいないのだろうか?


 視界の端で八足門の方へと曲がって行く彼女の後ろ姿を捉えた。紺色のスカートが風に靡いて、より颯爽と消えゆく様に去って行くのを見てハッと我に返る。あの子に聞くのはどうだろう。駅前で本がどうとか言っていたし先程の行動も何かを知っているに違いなかったし、本来の目的地も彼女ならば何かしら知っているかもしれない。そう思うや否や足が勝手に動き出していた。

 今日はどうやら見知らぬ人の背中を追いかける日らしい。


 来た道を戻り、拝殿を少し過ぎた辺りで彼女に追い付いた。

「ねえ」

角を曲がった所で彼女に追い付き、すぐさま声を掛けた。

「さっきなんで引き止めたの?」

「あれは・・・・・・あれは君が立ちくらんでたから、大丈夫かと思ってやっただけで。他に意味は無いから。分かったら早く家に帰って」

「いやでも、ほら、戻ってこられなくなるって」

「それは、あれ、言葉の綾」

「どう言う意味の言葉の綾なの」

「意識が無くなるみたいな意味の。あーてかもういい?急いでるから」

「で、でも」

「でもとかじゃなくて。何? なんて言って欲しい訳?」

「門が消えて祠に変わった理由を教えて欲しくて」

「知らない。てか祠しか無かった」

「いやでも、鈴の音が鳴っててーーー」

「鈴の音!?」

 声を荒げた彼女の目が大きく見開かれ、驚愕の色を浮かべている。そんなに驚く事では無いと思っていたが、しかし、これでしらを切っていた彼女が何かしらを知っている事は明白になった。聞きたい事は沢山ある、彼女が答えてくれるかは別として。

 僕が「やっぱり」の言葉を言うよりも早く彼女が口を開いた。

「どこで聞いたの」

「それは、参拝してる時に、て言うか君やっぱり何か知ってるんだよね!?」

「そんなことは今どうでもいいから! どこで聞いたのかって聞いてるの。」

「・・・・・・君が質問に答えてくれるなら教えてもいいけど」

「何? そんな女々っちいことする訳? スパッと答えたらどう?」

「いやでも」

「いいから早く!」

「・・・・・・その、八足門で本殿に向かって参拝してたら鈴の音が聞こえてきて、そしたら白い服を着た人が角を曲がっていくのが見えてさ。追いかけて行って門の中に入って行くのが見えたから、そのままついて行こうとして、、君に止められたって感じ。」

「それで」

「それでって?」

「他には? 何か無かったの?」

「えーと、その門が石と金属で出来てて、なんて言ったらいいのかな、練り合わさって繋がってるって言うか」

「どういう事?」

「説明が難しいんだよ」

「じゃあその白い服の人が鈴鳴らしてたって事?」

「んー、どうだろ。手に何か持ってるか見えなかったし、それはわかんない。でも、本殿の方から鳴ってたのは間違いないと思う。ねえ、何が起きてるのか説明してくれない?」

「・・・・・・やっぱ分かんない」

「でも、ほら指にサビもついてるし」

「知らないものは知らない」

「いやでも」

「しつこい」

「・・・・・・ごめん」

 沈黙が二人の間に流れた。僕らの横を通り過ぎていく観光客のおばさんが、チラッとこちらを見て「青春ねえ」と溢して去って行く。彼女の眉間の皺がより一層きつくなり、今にも殴りかかりそうな気配を醸し出していた。

「・・・・・・ごめん。じゃああの、もし知ってたらでいいんだけど祖母を探してて」

「・・・・・・交番で聞いたら?」

「聞いたけど、知らないしそんなとこに家なんか無いって言われて」

「どんなとこにあんの?」

「小さい時に行ったっきりであんまり覚えてないけど、山の方にあって屋敷っぽかった気が」

「まあ・・・・・・なくは無いけど。で、名前は?」

「苗字が分かんなくて」

「そんな不確定要素に縋ってきた訳? 馬鹿だね」

「・・・・・・そこに居たのは間違い無いんだけど」

「はいはい、で下の名前は?」

「えーと、片仮名でセツ」

「え。セツ? 片仮名でセツ? 間違いなく? 絶対に?」

「間違いないって、証拠にほら、ここに書いてあるでしょ」

「・・・・・・嘘」

「嘘じゃ無いって。だって母さんのノートに書いてあるんだから。」

 またしても驚愕と、今度は若干の焦りも混じった表情をしている。凄い勢いで目が泳いでいて、心なしか汗もかき始めている。

「・・・・・・あんたお母さんの名前は」

「なんでそんな事」

「いいから、何?」

「え、燈」

「燈・・・・・・榎野燈?」

「なんで知ってるの?」

「じゃあもしかして・・・・・・あんた榎野継?」

「そうだけど」

「うっそ・・・・・・そっか、そういうことか」

「一人で納得してないで教えてよ。」

「分かった、教えてもいいし、セツさんのとこまで案内してもいい。でも条件がある。聞いてくれなかったら案内してあげない」

「・・・・・・わかった。なんでも聞くよ」

 ここまで来たのだからどんな条件があろうと関係はない。お金とか手伝いとかある程度の事はどうにかなる。

 しかし、彼女は予想外の条件を僕に提示してきた。

「私と会ってなかった事にしてくれない?」

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