異形の匣庭 第二部

久賀池知明(くがちともあき)

第1話【神の地に降り立つ】

車窓からの眺めは初めこそワクワクしたものの、あとは案外退屈な風景が続くだけだった。一度も登った事のないスカイツリーを遠目に見ながら、ビル群を横切りトンネルをいくつか通過していく。時折雄大な自然が垣間見得、無機物的な景色から様変わりしていった。けれど幾度も見掛ければそれも只の風景でしか無く、コンクリートのジャングルと何ら変わりない。

 ただ、温度に関して言えば家を離れれば離れるだけ、少しずつ暖かさが増して行く様な気がしていた・・・・・・そう思いたいだけなのかもしれないけれど、でも、別に何処でも良かった。東京の空気に比べれば何処だって幾らかはマシなはずだから。

 カバンの中から一冊のノートを取り出す。何度も何度も開いては閉じを繰り返して、表紙や背の部分がボロボロになって今にも千切れそうだ。元々薄い緑だったはずの表紙もかなり色が落ち、むしろ黒に近い。自分なりに大切にしているつもりでも、経年劣化には勝てそうにも無く。日に数ページずつ他のノートに移している最中で、この夏休みの課題の一つになっている。写し終わったとしても何が変わる訳でもないけれど、これ以上痛まない様にするにはこれがいちばんの方法だと思う。

 僕がこのノートを譲り受けてから八年が経った。

 今僕は、祖母がいる島根に向かっている。


 東京から寝台列車に乗る事凡そ十三時間、僕は神の地に降り立った。振り返ると出雲大社を模した駅舎になっていて、やはり遠い地にやって来たんだなと実感する。神の地は正確にはここではなく出雲大社周辺の事を指すのだけれど、そこは雰囲気でカバーしておく。出雲大社前まではバスを乗り継いで行くらしく、平日とは言えど多くの観光客がバス停に列を作っていた。外国からの方が多いかと思っていたが、意外とそうでもないようだ。

 大社駅から先の道のりはざっくりとしか書かれていない。Googleマップにも道が無かったし、住所も書かれていなかった。ただ「神の住まう地より先、山の中腹にある」とだけ。あまりにざっくりしすぎて本当にあるのか半信半疑だが、幼い頃の記憶を頼りに行くしかない。

 次の便まで少し時間があるけれど、交通費だけで軽く二万は飛んでしまったので、あまり無駄使いする余裕は無い。残りは五万六千円と中々に心許ない金額。それでも来たからには何かしら観光しなければという気持ちに駆られてしまう。

 出雲で名物と言えば蕎麦やぜんざいが有名だ。ぜんざいは出雲が発祥の地だし、出雲そばは「わんこそば」「戸隠れそば」と並ぶ日本三大そば。他にもアゴだしやおやきもあるし、表参道をひと往復するだけで満足できる程様々な店が軒を連ねていると聞けば、行かざるを得ない。逸る気持ちを抑えつつバスを待つ。

 待ち人達は楽しげに、和気藹々と話している。これから自身に待つちょっとした感動を想像しながら、どんなお土産を買って帰ろうか財布と相談しながら。小学生くらいの子供達も未開の地へ来た事に胸を踊らせ、自分の親の周りを楽しげにぐるぐると走り回っている。聞こえるのは蝉の喧ましい啼き声と笑い声ばかりで。そう考え始めると急に胸が締め付けられた。夏が終わるまで、あと二週間…ノートを強く握り締める。

 「もっと優しく扱えよ」

 不意に声を掛けられ振り向くと女の子が立っていた。年は僕より少し上だろうか、短めの黒い髪に太めの眉。目鼻立がくっきりしていて結構凛々しい顔、制服を着ているから恐らくこの辺の学校なんだろうけれど。

「・・・・・・・僕ですか?」

「そうです。あなたです」

「・・・・・・なんかすいません」

「分かって貰えればいいんだけど。やっぱりそこが人間の悪いとこだからさ」

「すいません」

「・・・すいませんすいませんって適当に謝ってない?」

「すいません、あっ、いや、なんかあの理由が分かんなくて、すいません」

「それはその本が・・・あ」

「え、本が何ですか?」

「あ、いや、何でもない。とりあえず大事な物ならもっと大切に扱ってってだけで、それじゃ」

「え?あ、え?」

 そう言うが早いか、彼女は颯爽と走り去ってしまった。取り残された僕はただただポカンと口を開けて突っ立っていて、口が「え?」の形になったまま。彼女が一体何者なのか知る由もないし、このノートがそんなに気になったのか、気に食わない理由が何なのかも一切不明のまま、真相は瞬く間に街角に消えていった。島根ではこういう事がよくあるのだろうか。脱兎の如く走り去る彼女の背中が消えるまで見送って前を向くと、子供達がじっとこちらを見ていた。純粋な視線がよく刺さる。僕は何も無かった事にして目線を逸らし、なかなか来ないバスを待つ事にした。

 三分後、十分遅れでやって来たバスに乗り、目的地へと向かう。街並みが少しずつ観光地らしく変化していくのが見て取れる。飲食店やお土産屋、工芸品に縁結びのスポットの案内板と、出雲ならではの物が沢山増え、観光客達も浮き足立ち頻りにカメラで撮っては見比べあっている。日本古来の建物やそれを模した建築がこの街の空気を形作り、ある種の別世界に来た様に感じさせる。何と言う造りなのか分からない建物やほんのりと漂う香ばしい香りが、少しだけ孤独感を紛らわせてくれた。

 気付けば後一駅で目的地に到着するみたいだったので、携帯をそっとポッケに締まった。

 「神門通り」は元々1912年に国鉄大社駅が開業するのに併せ翌年整備された通りで、完成当時は大勢の観光客で賑わっていた。しかし年を追うごとに客の数は減り、1990年にJR大社線が廃止になった事も影響してかなり閑散としていたそうだ。高さや看板の大きさ、色、壁面の材料も十人十色。神の地としては相応しく無い景観に市民は頭を抱えていた。そこで専門家を呼んで、景観形成のルールを作り街の立て直しを測った。色調やサイズ、材料にも拘り現在の和風建築の通りが出来上がり、22軒しか無かった店舗も72軒にまで増えた。かくして年間3000万人を超える一大観光都市として生まれ変わったのである。また、電線の地中化や道路幅の変更を進めるなどし、更なる歩行環境の改善に努めている。

 そうして出来た通りの一番奥には、厳かな様子で出雲大社が佇んでいた。

 もしも一千年昔の姿が残っていたならば、日本一の高さ16丈(約48メートル)の御柱と長さ一町(約109メートル)にもなる階段を持つ巨大な御神殿に、皆が別次元の存在を感じていたかもしれない。現在でこそ24メートルの高さに落ち着いてはいるものの、古事記や他の文献を読み解くと最大で96メートルはあった可能性があったと聞くと、想像してつい中空を見上げてしまう。それだけ荘厳で畏怖の念を抱かせるに相応しい造りに、僕は多分に漏れず圧倒されていた。

 ノートのしおりが挟んであるページを開く。ちぎれたりしない様にゆっくりと。

 そこには出雲大社が描かれていた。今さっき僕が想像したものと寸分違わず寸尺も事細かに記され、まるで設計図の様だ。後には材料や日にち、具体的な建築の手順も書いてある。右上の方に山鳴の文字が丸で囲んであって名前なのか地名なのか分からない以外は、博物館にでも寄贈した方がいいのではと思うくらいだ。これらが古代の姿を復元する為なのか、はたまたただの想像の域なのかを答えてくれる人はいない。

 ページを少し飛ばすと出雲大社の参拝の仕方が図付きで説明がある。この神社の参拝の仕方は他の神社とは異なり、「二礼四拍手一礼」の作法を取っている。更に言えばそれも簡略化された作法だそうで、本来なら八拍手。多すぎるのではとも思ったけれど、神道では無限に近い心算で盛大に神様へ祈りを捧げる意味合いになるんだとか。

 作法の出自に関して諸説あるとネットには書いてあったけど、大国主大神の耳が遠いからわかる様に8回にした説は嘘なんじゃないかなと思う。

 参拝の場所にも順序があり、まずは宇迦橋大鳥居(うがばしおおとりい)、次に勢溜(せいだまり)の鳥居、それを超えたすぐの場所にある祓社(はらえのやしろ)で穢れを清める。そして参道を通り手水舎で手口を清め銅鳥居を潜り拝殿へと進む。そして今僕がいる八足門。この中に御本殿があり、大国主大神を主祭神とする神々が祀られていて、そこは天皇ですら入る事の許されていない場所。正に聖域なのだそうだ。古今東西八百万の神が集まるのだから、人が踏み入ってはいけないの当たり前の話だし、第一そんな不届き者には天罰が降るに違いない。

 東からの風を感じながら本殿に向かって手を合わせる。ここが終わったら次は 

……シャララン

「ん?」

 鈴の音? 思わず音のした方に目を向ける。白い服の人が境内の角を曲がって行くのが見えた。一瞬のことだったから確信は無いけど和装だった様な。それも結婚式や神前で着る浄衣みたいな。

「ちょっと、待ってるんですけど」

「あ、すみません。」

 少し急ぎ目にお参りを済ませ、小走りで境内の角を曲がる。

 この出雲大社に祀ってある御神体は西を向いている。一般的な御神体は南を向いているのだが、神々を迎える稲佐の浜がある方向を向き、出迎えていると言う説がある。他にも本殿の形状上最上座は西向きだからとする説や、拍手と同じく右耳が不自由な為左(西)だ、とする見解もある。どれが本当なのかはどの資料を見ても不確かだが、とにかく西を向いているのだ。そんな大神に正面から参拝することが出来る様に、本殿から見て西側に小さな遥拝場が設けられているらしい、のだが

 「……ないじゃん。」

 その遥拝場が無かった。改装中なのか撤去されたのかは不明だが、とにかく無かった。そして先程見た白装束の人が境内の中にすうっと入って行った。

 僕は駆け足でそこへ向かう。別に急ぐ事でも確かめる必要がある事でもないけれど、体が勝手に動いていた。どんどん吸い寄せられるかの如く近づき、鼓動も聞こえんばかりに速くなっていく。そして遠目からでも分かるそれを理解しようと茫然と立ち尽くした。パンフレットの地図にもインターネットにも書かれていないもの。

 門だった。遥拝場はその痕跡すら無く、あたかも初めからそこに備え付けられていましたと言わんばかりに綺麗に瑞雲が施された門があった。

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