ただいま、神様。

まろ

第1話

雪解けと共に顔を出したふきのとうが、ちんまりと顔を出している。雫が朝日に反射してきらきらと光るのを見ると、いよいよ春がやってきたのだと実感する。

この道にも慣れたものだ。山の麓に広がる雑木林を北に進むと、緑に彩られた小さな神社がある。そこに足早く通って50年になるか。もはや亡き叔母から継いだ畑の世話以外は、ここにいると言っても過言ではないだろう。

流石に冬場は山奥に来ることはできないので、今日は今年初めて『あの方』に会いに行く。貢物の野菜や、本殿に祀るためのヒカサキもいつもより心なしか多めになってしまった。


50年も花屋でヒカサキを買い続けていると、どうしても店主と顔見知りになる。「稔くん、またあの神社に行くのかい?」と多分1000回は言われた。自分が子供の頃からの仲ではあるが、未だに稔くん呼びは如何なものか。そう苦言を呈しても、店主はケラケラと笑うだけで訂正しようとはしなかった。

最初は、何かに取り憑かれたのだろうかとなんだか心配そうにしていた彼だったが、冬期間以外毎日のようにヒカサキを飽きずに買い続ける俺がどんどん面白くなってきたらしい。今日もお久しぶりですと声をかけたら、「一途だねえ」と朗らかに笑われた。

そんな彼も今年で70を超える。最初の頃は八重歯が似合う好青年だったのに。時の流れとは早いものだ。


かくいう自分も61歳になった。もう老人一歩手前なのにここまで健康なのは、畑仕事と森の奥にある神社への執着心が功を成したのだろう。

そのことから、『あそこの神社を1人信仰している石垣さんはとても健康だから、あそこにはご長寿の御利益があるのだろう』とかなんとか噂されるようになった。

ちょっと勘違いさせてる感は否めないが、あそこの神様を信仰してくれる分には嬉しい。でも流石にこんな山奥にわざわざ行こうと思う人はいないらしい。それには疲れるからというシンプルな理由の他に、なんとなく恐ろしいという固定概念も関係している。


今こそ覚えている者は少ないものの、かつてここの神様はひどく恐れられていた。というのも、大昔にこの近くで栄えていた村に、神と思わしき化け狸が火をつけて回ったという噂があったからだ。

根も葉もないような話だが、神や妖怪と言った未知な生命体を恐れる理由なんてそれで十分らしい。

何十年前なんかは、これ以上神が悪さできないように神社を焼き払ってしまおうなんて話もあったらしい。全く恐ろしい話である。

とは言っても、そんなのもう100年も昔の話だ。今の人たちはそんな噂知る由もない。でも、村人があまりいい印象を持っていないのも確かだろう。何十年単位でこびりついた固定概念は、そう簡単に崩せるものではない。

しかし、俺はそれでいいと思う。あそこの優しい神様が、たくさんの人が来たせいで他の誰かにその姿を見せるようなことがあれば、俺は結構悲しいかもしれない。これは、信仰心とは似て非なる感情のせいだろう。


頭上でエゾリスが走る音が聞こえる。思考にふけっていた頭をはっと戻して前を見ると、そこには数ヶ月待ち焦がれていた景色があった。

雑木林に足を踏み入れて20分ほど歩くと、木の密度が小さい開けた場所に出る。そこにポツンとある小さな鳥居こそ、俺の目的地だ。

日光を遮っていた林冠が途端に少なくなり、真っ直ぐ刺してくる光がまるで神様の後光に感じられる。

この光景が、世界で一番美しいと思う。村で一番大きな神社の鳥居のように綺麗な赤い光沢はないが、それがまたこの森に寄り添っているような感じがしてたまらない。

ああ、やっとここに帰って来れた。50年経った今でも、この高揚は何ものにも変え難い。自分の初恋のあの方は、きっと変わらずここで待ってくれている。

石造りの階段は少し急で、若い頃は一段飛ばしで登れたのにな、と歳をとった事実を否が応でも感じさせられる。

ああでも、たいしたことじゃない。だって数ヶ月ぶりにあの御神木に触れられるのだから。


どうにか階段を登り切ると、小さな本殿が見えてきた。木造のそれは、今年もどうにか冬を乗り切ったらしい。雪で潰されていないかという心配は杞憂で終わったようで何よりだ。

今でもだいぶボロボロに見えるここだが、昔はこれの数倍ひどかった。蔦は伸びてどこが木目だか冗談抜きでわからなかったし、雑草は伸び切って当時小中学生だった俺の腰くらいまであったし、賽銭箱や鈴緒も虫に食われて、それはもう見るも無惨な有様だった。

忘れ去られて悲しい雰囲気が漂うここを、俺は放ってはおけなかった。草を刈って、賽銭箱も自分で直して、たまに道具を勝手に持ち出したことで叔父から叱られながらも、どうにかこの状態まで治すことが出来た。


「ただいま、神様。」


自然と、ここにくるたびにそう言ってしまう。心のどこかで、おかえりとあの顔で微笑んでくれたらと、そう期待しているのかもしれない。

それを見たのは50年も前でしかも一度だけだが、未だに脳裏に焼きついている。楕円形が少し垂れたような大きな目だった。それが、一瞬だけ安心したように目尻を下げたのを、俺は今でも覚えている。


11歳の俺は交通事故で両親を亡くして叔母夫婦に引き取られたが、両親の死とそれによる同級生からのいじめに耐えられなくなり、自殺を決心した。でもやっぱり死ぬのは怖くて、本当は誰かに助けてもらいたかっただけだと気づいた。それに気づいたのは、ああこのままだと死ぬなと確信した時だったのだけど。

それを止めてくれたのが、神様だった。

死を覚悟した俺を、すんでのところで助けてくれたのだ。

白い煙状の姿で朧げだが、あの何か尻尾のようなふわふわを揺らす後ろ姿と瞳がどうしても忘れられなかった。

あの日から俺は、あの方の熱心な信者だ。

いや、信者の方がまだ良かった。だって、もう後には引けないくらい、あの方を好きになっていたのだから。今はもう拗らせて拗らせて、純粋な恋心なのかはわからないけども。


「あっ、見てよ神様。ヒカサキに花が咲いてる。俺、ヒカサキの花好きなんだよなあ。小さくて可愛いし。」

こうやって、まるで神様が聞いているかのように話すのが日課になっていた。側から見たら割と怖そうだが、もしかしたら近くにいるかもしれないから。

一緒になって俺の手元のヒカサキを覗き込んでくれてるかもしれない。その可能性があるなら、やはり自分と感情を共有してほしい。


白い花瓶に、小ぶりの花を携えたヒカサキを刺す。

寒い地域特有のヒカサキは、やはりこの神社によく映える。

そして、本殿の前に野菜を差し出した。

「見てよ神様。今年は大きく育っただろう。新物の春キャベツだ。またキツネとかに食われるかもしれないけど。」

ここにしょっちゅう野菜やら果物やら、挙げ句の果てには手編みのマフラーなんか置いていった時もあったが、それらはほとんど次の日にはなくなっている。

本当に神様が回収しているのか、野生動物にもってかれているのかは定かではないが、それが有効利用されているのなら願ってもないことだ。マフラーはちょっと恥ずかしいから回収したいけれど。


そこまでして、御神木の方に足を向けた。大きく伸びているそれは、ここに始めてきた時より心なしかのびのびとしている気がする。

そこに背をもたれて、ぼうっと境内を見渡すのが好きだ。まだ冷たい春風がやっと芽をつけた若木を撫でるのを、なんとなく眺めていた。

「神様、」

好きです。とは、未だに言えたことがない。恥ずかしいとか、そういう初々しい感情はもう30年前も昔に無くした。

ただ、この言葉を言うのは、本人が確実に目の前にいる時がいい。そんな初恋を拗らせた男の、ちょっとしたしょうもないプライドを今でもずるずると引きずり続けている。


もう、呪いの域なのかもしれない。普通に考えて、50年も同じ人に片想いするのはおかしいだろう。そんなこと、最初からわかっているはずだった。

片方が追ってもう片方が追われる、そういった駆け引きが楽しいのが一般的な恋愛らしい。友人が昔言っていた。

でも神相手なら、追うはまだあっても追われることはない。追うとしても、それは全力疾走である必要性もない。牛歩でも、追っているという事実さえあれば成り立つ。それが、相手の意思どころか存在が読めないイレギュラーな恋愛だ。そんなの、楽しくないだろうと言われたことがある。自分でも実際思うことがある。

だから、これは執着だ。相手に振り返ってもらえないことをわかっていても、あの日生きる意味をやっともらえたから。両親を失って、居場所も失って、ボロボロになった俺を初めて救ってくれたから。

だから、死ぬ前に少しでも恩を返したい。それがこの熱情の真理なのではないかと、俺は勝手に解釈している。


そのままぼおっと供物を眺めていると、後ろから既視感のある視線を感じた。またか、と思って振り返る。

そこには予想通り、大きな金色の目でこちらを凝視する、大柄なシマフクロウがいた。

そいつは月一くらいの頻度で、神社の御神木に何食わぬ顔をして鎮座している。まるでそこが、我が家だと言わんばかりに。いちいち帰らなければならないこちらを見下しているようでなんだかいけすかない。

なんならこのフクロウ、自分の記憶が正しければ50年前からずっとそこにいる。シマフクロウの寿命は、長くても30年くらいではなかったのか。衰えた様子もなく、ただ瞬きもせずにこちらを窺っている。

向こうもこっちを凝視しているのだから当たり前だが、フクロウとバッチリ目が合った。いつもならここで、なんだ見つかったのか、と言わんばかりにどこかへ帰っていくのだけれど。


今日はなんだかいつもと違った。帰るどころか、大きな翼を広げてこちらへ向かってきているではないか。

いつも遠目から眺めているだけのシマフクロウを、初めて間近で見た。

ものすごい巨体だ。翼を広げて飛んでいるから特に。翼の先端から先端まで測ったとしたら、多分俺の身長なんかゆうに超えているだろう。

はあー、立派なもんだと半ば感心して観察していると、やはり目的は自分であったらしいフクロウは俺の目の前にゆっくりと着地した。頭についた飾り羽根をピンと立てて、クリクリの目をこちらに向けている。こう見るとちょっと可愛いかもしれない。


フクロウは、やはりこちらを凝視している。五秒ほど見つめあったのち、そいつは首を回転させて鳥居の方に目を向けた。

「…?」

意味がわからず首を捻る俺に気がついたらしい。もう一度こちらを見たフクロウはもう一度飛び立って、今度は鳥居の上に止まった。

そうして、村の方角に首を向ける。何かを伝えようとしているらしい。

「もしかして帰れってことか?」

そう溢すと、その通りと言わんばかりに瞬きを返された。人の言葉がわかるのだろうか。本当に何者なんだ、こいつは。

せっかく人が楽しみにしていたのに、と愚痴を溢したくなる気持ちは山々だが、なんだか嫌な予感がする。飾り羽根を逆立てて圧をかけてくる謎フクロウに免じて、今日は帰ることにしよう。

「ごめん、神様。また明日来る。」

ちゃんと帰るんだろうな、なんて言わんばかりの視線を背中に受けながら、俺は駆け足で階段を降りた。



50年前と比べるものではないが、田舎と言えども交通の利便性は格段に上がった。この村は比較的大きな街に行く通り道であることに加え、道の駅なんてものもできたので、連休や大型休暇は家族連れで賑わっていたりする。

そういえば、ここの学校は昨日今日あたりから春休みだったか。村に降りてきたら、空き地から元気な子どもの声が聞こえた。道路を走る車の数も、いつもより多い気がする。

スーパーにでも寄って帰ろうかと思ったが、あの謎フクロウの謎行動が頭をよぎる。シマフクロウは確かアイヌ文化では守り神だった気がするので、なんとなく従っておいた方がいいだろう。

ああ、せっかくの特売日だったのに、と肩を落としたところで、なんだか辺りのざわめきが強まった。


あの奥から走ってくるトラック。よく野菜の出荷の時に見る柄だが、何か様子がおかしい。

車道なんて知ったこっちゃないと言わんばかりに、道のど真ん中を爆走している。あれで未だに事故を起こしていないのが奇跡だ。

飲酒運転でもしているのかとぼんやり思ったところで、歩道を渡る男の子の存在に気がついた。


このスピードなら、あの子と車は間違いなく衝突するだろう。


そこで、亡くなった両親を思い出した。彼らもそういえば、暴走した飲酒運転の車に轢かれて亡くなった。

目の前で、その二の舞が起ころうとしている。

咄嗟に体が動いた。


「危ない!!」


自分のどこにそんな大声出せる喉があったのか。数メートル離れたところにいた少年は、俺の声でようやく暴走トラックに気がついたようだ。顔を青くさせて、固まってしまった。

ああ、その気持ちはよくわかる。昔、自殺をしようと森に入った時に同じ目にあった。

あの時は雪に根負けした木が倒れてきたが、暴走したトラックもそこまで恐怖度は負けていないだろう。なんからトラックの方が怖い。


あの時、俺は確かに神様に助けてもらった。

なら、次は自分があの方のように誰かを助けるべきだ。


どうにかトラックがここまでくる前に、少年の元に辿り着けた。そうして、思い切りその子を突き飛ばす。

その驚いた表情にも既視感がある。多分、50年前に自分も似たような顔をした。


ああ、助けられたと安堵したと同時。

何かに殴られたような感覚と同時に、身体中が熱くなる。

辺りをつんざくような悲鳴に混じる地を這うようなシマフクロウの鳴き声が、何故か鼓膜で反響していた。


ああ、死ぬ前にあの方に会いたかった。あの方の頬に、触ってみたかった。

…もう一度、あの笑った顔が見たかった。


必死で伸ばした手も虚しく、周りの地獄のような叫び声をBGMに、脳の機能が停止した。



「…うん。結局だめだったね。仕方ないよ。…もう、そんな顔しないで。もうとっくに覚悟はできてるから。大丈夫、大丈夫だよ。

…うん、うん。そうだね。君はいつも通り仕事に戻って。大丈夫。こっちは何とかなるよ。

あとは、そう。ウパちゃんにも一応言っといてもらえる?…え、えー、そっちは、うん、多分大丈夫。多分僕のこと嫌いだろうから。…え、ないない。そんなはずないって。

…うん、君はやりたいようになりな。僕も、それなりに自由にやるからさ。

…うん、うん。お父様にもよろしく伝えといて。

…もう、本当に大丈夫だってば。君ってそんなに心配性だったっけ?

そろそろ行く?…そう、じゃあまたね。なら僕はもう一眠りしようかな。


あの子に、おかえりって言ってあげないとね。」



そよそよと、風が頬を叩いている気がする。ざわざわと木々を揺らして、それによって目をくすぐる木漏れ日がくるくる回っている気配がする。

もう少しこうしていたい気分だが、何かに呼ばれた気がして目を開けた。

そこは、想像通り森の中だった。そしてこの白樺が混じる光景には、とても既視感がある。


ここって、神社に行くまでの道じゃないか?


そこまで思い立って、ふと気がついた。

いつもは目の横から脳に入る音が、何故か頭上に移動した感じがする。

恐る恐るとかつて耳があった場所に手を添えた。

が、そこには今まで普通についていたはずの霊長類特有の丸っこい耳は見当たらなかった。

なんだ、何が起きている?

そうして半ばパニックになりながら、そろりと手を頭上に持って行ってみる。ふわふわの何かがついていた。手が触れた感触があるから、そこに神経が通っているのは間違いないだろう。

ゆっくりと縁をなぞってみる。大きな三角のようだ。中も後ろもふわふわのそれは、犬の耳を連想させた。

鏡は、どこかに鏡はないかと立ち上がってみると、そこでも異変に気がついた。


長年の腰痛が消え、まるで若返ったかのように体が軽いのとか、なんなら記憶よりも立ち上がった時の目線がずっと低いのもはちゃめちゃに気になるが、それよりも腰あたりで揺れる何かがいちばんの問題だろう。ふわふわと滑らかに動く筆のようなそれは、全体的に黄色くて毛先だけが黒く変色していた。まるで狐のような、狐…。


「…狐?」


なら、この三角耳にも合点がいく。

つまり、俺はあの暴走トラックに突っ込まれた後、何故か部分的に狐になって、森の中で倒れていたらしい。


「…ますますどういうことだよ。」


困惑で泣きそうになるのなんて数十年ぶりだ。

とりあえずひとしきり困惑しようと、頭を抱えて蹲ってみた。ついでに頬をつねってみた。

…夢ではなさそうだった。


暫く蹲っていたが、神社にでも行ってみようかと観念して重い腰を上げた。

飛ばされたのが歩き慣れた道で助かった。この辺りなら、どのように行けば神社に行けるかなんて手に取るようにわかる。

ただ、大きな耳になって聴覚が上がったからか。野生動物がどこで何をしているのかまるで目の前で起こっているかのようにわかるのだ。

エゾリスは去年貯めていたであろうどんぐりを頬袋に詰め込んでいるし、どれほど遠くかはわからないが、何か中型の動物が池の水を飲んでいる。

なるほど、これはなかなか楽しいかもしれない。



そのままふんふんと歩いて、10分ほど経った頃。

真後ろで、急に殺気のような気配を感じた。野生動物かと思ったけど、何かが決定的に違った。


意を決して振り返ってみる。

そこには、まるで黒いクレヨンで力任せに塗りつぶしたかのような黒い塊がいた。自分の身長をゆうに超えた巨体を持つそれは、人の言葉では決してないだろう言葉を、まるで怨嗟のようにぶつぶつと呟いている。

本能的に、こいつと関わってはだめだと感じた。

明らかに生物が関与していい存在ではない。

じり、と後退りをすると、その分だけそいつは距離を詰めてくる。本格的に身の危険を感じた。


ああもう、こっちはさっき死んだばっかりなんだって!!


そう叫びたいのは山々だが、どう考えたって言葉が通じる相手ではないだろう。向こうは明らかに、こちらを取って食おうとしている。

…大丈夫。こっちはこの森を熟知している。追いかけっこなら負けはしない。

大きく息を吸って、吐いて、もう一度吸うと同時に踵を返して俺は駆け出した。それはそれはもう全力で。

後ろから並々ならぬ殺気が追いかけてきて腰が抜けそうだが、今へたり込んだらあいつのお昼ご飯になってしまうことは確かだ。流石に訳もわからぬまま死ぬわけにはいかない。

大丈夫、境内に入ったら神様が守ってくれる!

何もできない無力な俺は、そう信じて走るしかなかった。


そうして、何とか石階段までやってきた。

いくら若返ったといえど、ここまで走っていたからもう肺とみぞおちが根を上げている。

そこで油断したのがいけなかった。ふと振り返ってみると、疲れも知らないそぶりのバケモノは、もう目と鼻の先まで接近していた。


ああ、これは死ぬな。

1日に2回も死を経験することなんてあるんだ。


もうこれは覚悟を決めるしかない。せめて痛くなければいいが、とぎゅっと目を瞑った。

その時だった。



「えいっ。」


その場にそぐわない気の抜けたかけ声が響く。

ふわりと漂うヒカサキの香りは、どうも心地よく感じた。

相変わらず人の言葉ではないような怨嗟の叫び声が、途端に苦しそうな声に変わった。ぎゃあぎゃあとつんざく悲鳴に、声をかける者は誰一人いない。

…あれ?どうして俺は無事なんだろう?

疑問に思って恐る恐る目を開ける。


そこには、ふわふわのしっぽが揺れていた。何度も夢で見た、あの狸のようなしっぽ。ひどいデジャブを感じる。

この状況には覚えがある。そう、50年前、木の下敷きになりそうだった時に…。


え、とか、あ、とか、母音しか口から出なかった。

だって、予想が正しければこの人は。


「危なかったね。どうにも、最近これらの類は活発で…。怪我はない?」

言いながら、助けてくれた恩人はこちらを向く。

この人の目は、楕円形が少し垂れた、大きな目。

ああ、こんなに綺麗な緑色をしていたんだと、この時初めて気がついた。

「…?大丈夫?」

腰を抜かした俺に、手を差し伸べてくれた。細くて綺麗な、可愛らしい手だった。


「え、あっあの、」

どうにか手を取って、口を開く。そうだ、この方に言いたいことがたくさんあった。えっと、まず言わなくちゃいけないのは!



「好きです!!」



「…え?」

あっ、間違えた。そう反射的に悟った。


ああでも、驚いたように目を丸くさせるのも可愛いから、別にもういいかもしれない。

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