最終話 ミア・マエストラ

 こんな姉の姿を見るのは、ニーナにとっても初めてのことだ。

 いや、彼女のことを知る誰もが、見たことのない光景かもしれない。


 エリザはオルネライア家の当主として、また武芸者としても、どんな時も凛と背筋を伸ばし、泰然自若としていた。

 同時に、大の男にも負けないほどの酒豪でもあった。

ワイン醸造家でありながら決して酒に呑まれることなく、慎み深さも忘れない。


 そのエリザが、いま、ベロベロに酔っ払っていた。


「飲み過ぎだ、エリザ。もう寝たほうがいいぞ」


 叔父のファルコに言われ、エリザはぷく〜っと頬を膨らませる。


「い〜や〜で〜す! わたしはもっとニーナと飲むんです〜。ほら、ニーナ。さかずきが空いてしまってますよ」

「空いてないから! まだいっぱい残ってるから」


 ふだんのエリザからは想像もつかない、すっとんきょうな声だった。

 表情も幼子のようにあどけなく、無防備だ。

 そのろれつも、まったく回っていない。


「じゃあ、早く飲んでください〜。お姉ちゃんがついであげるんですよ」

「わたし、そんなにお酒強くないから。ゆっくり飲んでるから。ねっ?」


 ニーナの言葉を理解しているのかどうか、エリザはこくんとかわいらしくうなずく。

 その目は潤み、頬は真っ赤だった。

 焦点があっておらず、正体をなくしかけている。


「エリザさん。お水をいっぱいいかがですか? きっと火照った体に気持ちいいですわよ」

「ガラテイアさん!」


 ガラテイアが椅子から立ち上がり、やんわりと水の入ったコップを差し出した。

そのガラテイアに、エリザは食ってかかる。


「あなたには大変、大変、たいっへん感謝しています! オルネライア家の当主として、ニーナの姉としてです。あの子が進むべき道を見出したのはあなたのおかげだとですね。心から思っているわけです」

「ありがとうございます。けど、この家に迎えて頂けて、感謝するのはわたくしのほうですわ」


 ガラテイアは微笑して返す。

 彼女もそれなりの酒量を口にしているはずだが、その物腰にほとんど変化はない。

 顔色にも、ほとんど変化は見られなかった。


 エリザがこぼしてしまわないよう、水の入ったコップはテーブルの少し離れたところに置き、彼女のかたわらにかがみこむ。

 慣れた手つきだった。

 酔っぱらいの相手は、一にも二にもうなずき、肯定してあげることだと心得ているみたいだ。


「いつもいっしょにいてくれるのも大変心強く思っています。それはほんとです。でも、ですね! ちょっとくらいわたしにも分けてもらってもいいと思いませんか?」

「すみませんわ、エリザさん。“分ける”とはどのような意味でおっしゃているのでしょう?」

「だから、ですね! ガラテイアさんおひとりで、ニーナとですね。イチャイチャしすぎじゃないですか。わたしももっと――」

「ちょ、ちょっとお姉ちゃん。やめてよ!」


 色々と恥ずかしくなって、ニーナは慌てて割って入る。

 エリザは、今度はそんな妹に絡みはじめた。


「ニーナ。あなたはなぜわたしに甘えてくれないのですか。昔はあんなにおねえちゃん、おねえちゃんと……」

「だから恥ずかしいからやめてってば!」

「血を分けた姉妹の何を恥ずかしがるというのですか、あなたは。そんなにわたしが怖いですか。怖くありませんよね? ねっ?」

「いまのお姉ちゃんは、なんか別の意味で怖い……」


 ニーナが答えると、エリザはショックを受けたようにがばっとテーブルに突っ伏した。


「わたしだって……わたしだって……オルネライア家の当主として、ニーナの親代わりとして色々気を張っていたのです。うぅぅ」


 いま怒ってたと思ったエリザは、さめざめと泣きだした。

 ニーナたちが知らないだけでなく、こんな乱れ方をしたのは彼女自身にとっても初めてのことなのかもしれない。


 芸術祭が閉会を迎え、町の者たちとの交流も一段落したある日の夜。

 当主のエリザ、叔父のファルコ、ニーナ、老メイドのロザンナ、ガラテイア。

オルネライア家の五人だけで打ち上げと称して、ささやかな酒会を開いた。


 たしかに、いつもに比べてエリザのワインを空けるペースが早いとは、薄々ニーナも気づいていた。

 けれど、どんなに飲んでも顔色ひとつ変えない姉がこんな酔っぱらうのは異例のことだった。


 砲兵工場設立の件で誰よりも胸を痛め、芸術祭の開催にも責任を感じていたのは、エリザに違いない。

 その重圧から解放された反動は、いかに彼女といえど相当大きかったようだ。


 いくら彼女が酒に乱れても、それをとがめる人間はこの場には誰もいなかった。

 ニーナたちは代わる代わるグチのようなものに付き合い、なぐさめる。


「お姉ちゃん。あのね。わたし、お姉ちゃんに甘えちゃいけないと思ってたから。だから……」

「ぐすっ。……どうして、ですか?」


 テーブルに突っ伏したまま、しゃくりあげるエリザ。

 ニーナはそんな姉にそっとささやきかける。


「だって……。お姉ちゃんはずっとわたしの憧れで、超えなきゃいけない目標だったから」


 ニーナも、酩酊に少しかすむ頭で想いを告げる。

 エリザに対して、こんなにも真っすぐに気持ちを伝えるのも初めてのことかもしれない。


「お姉ちゃんはいつだって完璧で、わたしいつもダメダメだって、ずっと思ってたから……。でもね、蔵で働かせてもらって、今回芸術祭のことも一緒にやって……。完璧だと思ってたのは、ずっと陰でがんばってたからなんだって……。ほんとは最初から知ってた気がするんだけど……。でも、そんなお姉ちゃんのことがもっとよく分かった気がする。だからね……」


 ニーナはそこで言葉を途切れさせた。

 突っ伏したエリザから、かわいらしい寝息が聞こえてきたからだ。


 その場にいた全員は、顔を見合わせ、微笑を交わし合う。

 はたして、エリザは今日のふるまいを覚えているだろうか。


 忘れてしまえたほうが幸福かもしれない。

 ニーナも、姉への告白がいまさらになって恥ずかしくなってきた。

 忘れてほしいという思いと、でも心のどこかで覚えていてくれたならという思いが、同時に湧いてくる。


「部屋に運んでやるとするか」


 ファルコが肩をすくめ、すやすやと寝入ってしまったエリザを「よっ」と背に負った。


「エリザ様のあのような姿を見ることができて、もうこの世に思い残すことは何もありませんな」

「えっと……ひょっとして、ロザンナも酔っぱらってる?」


 ニーナがその顔を見ると、いつも厳格な表情を崩すことのないロザンナの目が、うっすらと赤くなっていた。

 泣く要素があっただろうか、と思うとともにまだまだロザンナには元気に働いて、この家を支えてもらわなければ困る。

 いままでエリザたちによく尽くしてくれたお礼もしたかった。


「エリザ様も、ニーナお嬢様がご立派になられて肩の荷が下りた気持ちだったのでしょうな」

「そうですわね。喜びをありのまま吐露できるのも、お酒のよいところですわね」


 感慨深そうにロザンナとガラテイアは言い合う。

 エリザが退出したことで、自然と打ち上げはお開きとなった。


 すでに料理は平らげ、酒杯だけを重ねていたころだ。

 エリザのみでなく、みなも十分深酒をしたと言えるだろう。


 ロザンナとガラテイアのふたりが協力して、テーブルの上を軽く片付けていく。

 ニーナも手伝おうかと思ったけど、エリザほどではないにしろ酔いが回っていたので、ふたりのジャマにならないようにおとなしくしていた。


「……あ、叔父さん。叔父さんはまだしばらくうちにいるの?」


 ニーナは、エリザを寝かしつけて戻ってきたファルコに呼びかけた。


「いや。明日かあさってかにはもう向こうに戻るつもりだ」

「そんなに早く!? もっとゆっくりすればいいのに……」

「のんびりし過ぎたくらいだ。砲兵工場の話を聞いて、いろんな仕事放り出してきちまったからな」


 ファルコはニーナの頭にぽん、と手を置く。

 その息は、ちょっとだけお酒くさかった。


「まっ、こっちはもうだいじょうぶそうだしな。ニーナ、これからもエリザのことを支えてやれよ」

「……逆でしょ?」

「そうでもないさ」


 ファルコは、さっきまでエリザが座っていた椅子に目をやった。

 正体なく酔っぱらった彼女の姿を思い出したのかもしれない。


「これからも姉妹で力を合わせてがんばれよ」

「……うん」

「ロザンナ。ガラテイアさんも。これからもうちの娘たちのこと、どうかよろしくお願いします」


 ファルコがガラテイアたちに向け深々と頭を下げ、ふたりも厚く礼を返した。


「じゃあ、俺ももう寝る。おやすみ」

「おやすみなさい、叔父さん」


 ひらひらと手を振って、ファルコも部屋を出ていった。

 ニーナたちもロザンナに「おやすみ」のあいさつをしてニーナの部屋に向かった。


 部屋に戻ると、どっと息をつく。

 楽しく賑やかな会ではあったけど、やはり部屋でふたりきりになると落ち着くものがあった。


「ふふっ。とても楽しいひと時でしたわ」

「……うん。なんかちょっと疲れちゃった感じするけどね」


 ぼふっ、とベッドに腰かけてニーナは息をつく。

 そんなニーナの姿を、ガラテイアは目を細め、じっと見つめていた。

 その視線が少し気になり、ニーナは小首をかしげた。


「ガラテイア?」

「ニーナ。わたくしもあなたに甘えてばかりもいられませんわね」


 なんだか改まった声で言うガラテイアに、ニーナは目を丸くする。


「だから、それ、逆でしょ? ガラテイア。まさかお姉ちゃんが言ってたこと、真に受けてるとかじゃないよね?」


 ニーナは心配になってベッドから立ち上がり、ガラテイアの手を取る。


「いいえ。そうではありませんわ」


 ガラテイアは軽く首を横に振って答える。


「ニーナ。きっとあなたは、これから万能の聖女さんたちに負けないくらいの活躍を積み重ねていくのでしょう」

「そう……かな」


 ニーナは自信なさげに声をすぼませる。

 けど、実は芸術祭のとき、レオノーラ・ダ・ヴィンチ、ミカ・アンジェラ、ラファエラの三人に彼女たちとともに働かないか、と勧誘を受けていた。


 実質的に万能の聖女の仲間入りを誘われたと言っていい。

 ニーナはやんわりとそれを断った。


 いまは故郷で、タスカーナの町のみなのために働きたかったし、実際に三巨匠たちの姿を目の当たりにして、とてもその中に分け入っていく自分の姿が想像できなかったからでもあった。

 その話は、ガラテイアにもしていた。


「どこでどんな仕事するにしたって、ガラテイアと一緒だよ。わたし一人じゃ無理だよ」


 ニーナは懇願するように、ガラテイアの手にすがりつく。

 ガラテイアは、そんなニーナの髪をなで、微笑んだ。

 いつもより、ほんの少しだけ寂しげな目をしていた。


「わたくしは歳を取りません。いまはニーナの従姉いとこということにしていますが、ニーナがもっと成長し歳を重ねたとき、さすがにごまかしも聞かなくなるでしょう。そうなったとき、わたくしの存在がニーナの足を引っ張ってしまうかもしれません。だからその時は――」

「その時は、わたしがガラテイアを守るよ!」


 ニーナはきっぱりと答えた。

 酔いなんて、どこかに吹き飛んでいた。

 真剣な思いを込めて、まっすぐにガラテイアを見つめる。


「わたし、ガラテイアには、たくさん守ってもらっていたから。だから今度はわたしの番だよ。その日まで、わたし、もっとできることをたくさん増やして――強くなる」

「ニーナ……」


 迷いのない目だった。

 きっと、いまガラテイアの言ったことくらい、ニーナも考えていたに違いない。


 そのうえで、いっしょにいたいと彼女は願っている。

 ガラテイアの顔からも、迷いの影が消えていく。


「……まあ万能の聖女はわたしには無理かな~、って思うけど」

「ええ。……ええ。ありがとう。ニーナ」


 もう、その目には寂しそうな色はなかった。

 いつものガラテイアの微笑。

 ニーナの大好きな顔だった。


「かわいいわたくしの主ミア・マエストラ、ニーナ」


 どちらからともなくふたりは手を伸ばし。

 かたく、抱きしめ合った。


 ―――了

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万能の聖女になれなかったお絵描き少女は、大理石の乙女と未来をえがく 倉名まさ @masa_kurana

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