第9話 独り≠一人


 夕景、光を経て、作り物の夜空に変わる。

 残像のように残るオレンジ色がまぶたの裏に張り付いている。


 帰り道を歩く途中で、口の中の飴玉はなくなった。おばあちゃんから貰った飴は残り二、三個。何味かまでは覚えてないけど、舐め終わったミルクキャンディーと同じ味があと一個くらいは入っていた気がする。


「ただいま」

「おかえりなづな。……ああ、手を洗ったら食器を並べといてくれるかい? 今日は四人分、それと小さめのお皿も一つ」

「あぁ? なんで――」


 妙に具体的な頼み事をされた理由はすぐに分かった。


 キッチンを覗くとシオンさんとミゼリアさんがライモンと一緒に夕飯の準備に取り掛かり、目が合うとそれぞれ「おかえり」の言葉を返してくれる。タオジェンはポールハンガーにとまったまま。けれど料理の焼き上がりに合わせて、ちょうどいいタイミングで声を掛けていた。


 さほど時間もかからずに出来上がった夕飯がテーブルに並ぶ。いつもより大人数で囲う食卓は、それだけでなづなを新鮮な気持ちにさせる。


「急ですみません。仕事の都合で、今日だけお世話になります」


 シオンさんが触れたのは言わずもがな、両親の件だろう。事情はあらかじめライモンに話していたらしく、個人的にも断る理由はなかった。


 なづながどこに行っていたのか、何をしていたのかは聞かれなかった。それが無関心からじゃなく、ライモンなりの優しさである事をなづなは知っている。


 あたたかな料理が一段と美味しく感じられるのはそのせいだろうか。

 それともみんなで食卓を囲んでいるせい――たぶん、どちらも正しかった。感じた事のない居心地のよさがあって、それはまるで―― 


「……ダメだ。フツーに寝れん」


 寝る支度を終えてなお眠気がやってこない。別にいつもの事だから気にするほどのものでもないけど、おばあちゃんに言われた事が頭の中をぐるぐる回っていて余計、眠れない。


 何かを変えるきっかけ。

 自分なりの歩き方って、なんだ。


 きっと難しい話じゃないはずなんだ。でも答えが出ないともどかしい。無意味に寝返りを打っていると聞こえてきたノックの音が、なづなをドアまで歩かせる。


「……こんばんは。中、入ってもいい?」


 声と一緒に入り込んだ、蠱惑こわく的な香りが鼻をもてあそぶ。


「え……あ、いや。めっちゃ散らかってますけど。服とか色々」

「別にいい。……駄目?」


 駄目、とは言えなかった。


 ネグリジェに身を包んだ無防備な姿に一瞬、思考が止まりかける。しおらしい声音と視線は意識的なのか、無意識なのかわからない。


 床に散乱した衣服やコスメの空き箱、壊れた目覚まし時計。雑多な諸々もろもろ一瞥いちべつし、ミゼリアさんは窓辺に佇んで外を眺める。

 たったそれだけで、絵になりそうなほどの雰囲気を纏っていた。


「広場のあたりは眩しかったけれど、このあたりはそうでもないのね。街の光が優しい気がする」

「そう、ですね。住宅とかが多いんで、それもあるのかもしれない……です」

「……大丈夫よ、話しやすいように喋って。おしゃべりしに来ただけだから」


 ふっと浮かべられた笑顔に強張こわばっていた体が弛緩しかんする。ぎこちなさの源泉を考えた時、思い浮かんだのはカフェを飛び出す前にした会話の一部だった。


 優しくしてくれた人になづなは「うるせぇよ」と邪険な言葉を投げつけてしまった。その事を改めて謝ってから、問いかける。


「やっぱり、なづなの親の事っすか。気になってるの」

「……どうしてそう思うの?」

「いや、今日あんなトコ見られましたし……なづなもすぐ、出てったし。だから突っ込まれるならそこかな、って。別に大した根拠とかないんすけど」

「……そう。たしかに、それも興味を惹かれる話題ではあるわね。けど」ベッドに腰かけるなづなの隣に座ると、「まずはわたしから話そうかしら」


 肩と肩が触れ合いそうになる。目の前にある繊細で綺麗な横顔を見ていると、まるで素材の違いを見せつけられるようで視線をらしたくなる。


 打ちひしがれそうになった内心をほぐすように、ミゼリアさんはそっと手を重ねてきた。


「小さい頃、わたしにも親がいたの」


 過去形の言葉。じゃあ今は――


「どちらも凄い人で、昔は大勢の人をまとめながら仕事していたし、功績も残していた。……これをあなたの前で言うのは少し、はばかられるけど。大切に育ててくれたから、わたし達もそんな両親の事を尊敬しているの。今でもね」

「……ミゼリアさんって、姉弟か姉妹がいるんですか?」


 わたし“達”という事はたぶん、そうなのだろう。

 短く「あ」と漏らした後、照れ隠しに浮かべられる淡い笑みが心の距離を近づける。


「……隠すようなことでもないわね。ええ、弟が一人いるの。以前、久しぶりに会う機会があって……その前は、ちょっと喧嘩もしてたかしら」

「は、マジか……!?」言葉にしてからすぐ口元を手で覆い、「ああいや……なんかこう、ミゼリアさんって常に落ち着いて見えるっていうか……喧嘩なんてするんすね」

「っふふ……あの時は余裕が無くて、でも終わった後は妙に清々しかった」


 ミゼリアさんはどこか懐かしむような面持ちで、


「寂しかったの。家族のいない家で過ごすのが」


 ああ――この人も独りだったのか。


 見えない糸がなづな達を繋ぎ止める。同時に、これまで注いでくれたミゼリアさんの優しさに合点がいった。家に一人でいる事の寂しさ、親や家族に対して信頼を抱いているところは真逆だけど、だからこそなづなの事が気にかかったのかもしれない。


 雲の上の人間が身近な隣人に姿を変える。

 唇は、自然と動いていた。


「寂しい……は、分かんないけど。なづなもそんな感じでした」

「なづなも?」

「うちの親、夜になるとだいたいどっかに行くから。そん時はいつもなづなが留守番するんです。小さい頃から、ずっと」


 留守番しとけよというぶっきらぼうな声。

 テーブルに無造作に置かれた千円札と家の鍵。

 面白くもないバラエティ番組から聞こえてくるむなしい笑い声に、作業のように終わる一人の夕飯。味はするのに、素直に美味しいと思えないコンビニ弁当――


 父親も母親も、いつも寝ている間に帰ってくる。出かける頻度も比較的多かった。だから夜になると、なづなはいつも一人になる。


 友達がいなかったのは、今にして思えば幸いだったのかもしれない。


 それを普通だと思い込んでいたから――もし異常だと指摘されることがあれば、心が耐えられていたかどうかは分からない。


 口にしたすべての事に、ミゼリアさんは親身になって耳を傾けてくれた。ささいなきっかけで生まれた糸は、打ち明ける前よりもその太さを増していた気がした。


「その合鍵、なづなが住んでた家の?」


 話の途中、ふとボディバッグの底で眠っていた合鍵の事を思い出した。元の世界に戻る気はないから、この鍵にはもう飾り以上の意味はない。


 なのにどうしてか捨てられず、今日の今まで持ち続けていた。


「……なんでなんですかね」ため息が手のひらの鈍色にびいろを撫で、「これ、どうしたらいいと思います?」

「……そのままでいいと思う」

「そのまま?」


 持っといた方がいいって事ですか。続けて問いかけるとミゼリアさんは「いいえ、語弊ごへいがあったわね」と首を振ってから、


「いらないと思うなら捨ててもいいし、そうじゃないなら取っておいたままでもいい……どうするかは、なづなの自由ってこと」


 自由。

 眩暈めまいがしそうなくらいまぶしくて、なづなには縁遠い言葉。でも――そっか。


 もう好きにしていいのか、この鍵。


 輝きを失ったシルエットが途端にはっきりして見える。握りしめるとほんのりと冷たい感触が伝わってきて、それは小さい頃に触れた時より、ずっとちっぽけな感触だった。


 これから先、なづなはどんな風に生きていたいんだろう。


 石ころでも放り投げるような気軽さで自分に問いかけてみる。今まではそんな事を考える余裕もなかったけど、どうしてか今ならその答えに手が届きそうな気がした。


「……親とどうなりたいとか、これからどんな風に生きたいとか。そういうのの答え、もう持ってたのかもしれません」


 漠然と、爆弾の導火線に火を点けたような恐ろしさがあった。

 心の奥底では喜びに似た感情も抱いていた筈だけど、今は理性の方が勝っていた。自分に嘘はつけなかった。


「明日、たぶんもう一回会えますよね」

「……そうね」

「じゃあもう、それで最後だ」


 思考の切れ端だけで、ミゼリアさんはなづなが考えている事に勘付いたらしい。ほんのわずかに桜色の瞳が見開かれ、すぐに凛としたまなざしが戻ってくる。


「どんな道を選んでも……苦しくなった時は、わたしがあなたを支えるわ。絶対に」


 拒絶されると思っていた。どんな時に苦しくなるのかは、まだ何も選んでもいないなづなには分からない。けれど胸の内にかかる不安の霧を、優しいぬくもりが晴らしてくれる。


 明日なづなは――両親に、一生のさよならを伝えに行く。

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