第8話 いかわ商店


 人間ってのは、どうして悪い事ばかり覚えているんだろう。


 家の中で聞いたあいつらの声。薄汚い金を稼いで生きていたあの頃。泥のようにこびりついた記憶を今すぐにでも洗い流したくて、光を求めてさまよった。


 たどり着いたのは、セントシャール。

 なづなが瑠稀たちと出会った街。


 日光に晒されるのは今日で二度目だ。ここには自己主張の強いネオンサインも、ぎらぎらと燃えるように輝く電飾も無い。あたたかな陽気と涼しげに吹く爽やかな風が、なづなにはこの街の名刺代わりに思えた。


 行きたいところは明確だった。

 賑々にぎにぎしい街の声を聞き流し、すれ違う人の波をすり抜けて大通りから小道へ。


 立ち並ぶ家々を見送りながら歩くと、止まってしまった足に思わず落胆が滲んだ。


「……マジか」


 “サジメロアオイ、本日休業――”


 店先のチョークボードに目が釘付けになる。落胆は、期待の裏返しだ。


 こんな時、瑠稀や葵パイセン達と話が出来たら。話題はなんでもいい、他愛ない話でもすればきっと気がまぎれるはずだから。あの空気にまた触れたくなって――


「……やっぱもう帰ったのかな」


 誰もいない店内に、かつて瑠稀たちとテーブルを同じくしていた自分の姿が見えた。窓越しに見える淡い幻想と期待。まやかしは、からっぽのため息とともにかき消えた。


 いっその事、なづなも瑠稀たちについてけばよかったのかな。


 吸い込んだ息が見せる幻にもいい加減うんざりしていた。戻りたくなんてないだろ。あの世界に、あの生活に。


 来た道を逆戻りして人と肩がぶつかった。聞こえてるかもわからない声で謝った。街に来た時から舐めていた飴も溶けて、ぜんぶ、なくなった。


「――ねえおばちゃん、これどうやって飲むの?」


 闇雲に足を動かしている時だった。


「ああ、それはねぇ。この真ん中のビー玉を押して……はい、どうぞ」

「うおおすっげえ……! これ、そんな風にして開けるんだ!」

「ねえお兄ちゃん、これ見て! すっごい跳ねるボール!」

「ふふ。それ失くしやすいから、気を付けて遊ぶんだよ」


 ふと聞こえてきた声の方に意識が向く。


 視界に入り込んだのはラムネを飲む男の子とスーパーボールを弾ませてはしゃぐ女の子、会話から兄妹なのは察しがつく。それ以外にも何人かの、子連れの人達がいてささやかな賑わいを見せている。


 店の名前は――『いかわ商店』。


「……なんだこの店」


 看板の字は色褪いろあせて、よく見れば白や黒のペンキ塗装もところどころげ落ちていた。おまけに木造の壁からは見るからに古臭さが漂っている。まるで加齢臭だ。なのに、不思議と吸い寄せられるように足が動いてしまう。


 店先に置かれているのはガチャガチャで、その横にあるのは――冷凍庫?


 カバー越しに中を覗けば、中にはコンビニでも見かけるようなアイスクリームが入っていた。けれどいくつかは時代を感じさせる、古臭いパッケージに包まれている。


「いらっしゃい」

「あっ、っども……こんちはっす」急に話しかけられて少し声が上ずった。「あの、ここって何のお店なんすか?」


 真っ白なエプロンをしたおばあちゃんは優しく微笑んで、


「ただの駄菓子屋さん。でもお菓子以外のもの――ほら、あそこに置いてある農具とか釣り具とか、軍手とかね――を売り始めたら、こりゃあもう“商店”に改名した方がいいなってただしさんが言い出して。そこからはもう、普通のお店」

「……正さん?」

「私の旦那。……夏の日に旅立ってしまったけどねぇ」


 しわの目立つ横顔が遠く青い、空を見る。その言葉が字面通りの意味でない事ぐらい、なづなにも簡単に理解が出来た。


「なんか……すいませんでした。変な事聞いて」

「いいのよ。それよりどうだい? 中にも色々あるけど」


 促されるまま敷居をまたぐと、外から見たイメージと相違ない空間が広がっていた。古臭さがあるのに妙に落ち着くし、ついあちこちに視線を巡らせてしまう。

 

 駄菓子に、日用品に、食品類。野菜や花の種まで売っている。棚には木彫りのクマが、壁には何となく風流な絵が飾られているけど、たぶんこっちのは売り物じゃない。


 元の世界ならどこにでも売っていそうなカップ麺を手に取ると、横から誰かが体を押し付けてきた。


「――ぃようっ、なづなちゃんっ! 元気してた?」

「こんにちは。奇遇ですね、こんなところで」


 オレンジ色の髪をおさげのようにして二つに結んでいる女の子はエイミー、キツネ耳を藍色の髪の毛の隙間から生やしている男の子はアルフ。二人はこの街の学校に通っていて、うちのカフェにもよく遊びに来る。


「おおう……? よう、二人とも」カップ麺を棚に戻し、「ってかあれ、今日は二人なん? マヤ、いないっぽいけど」

「マヤは家の用事があるみたいで。たまにあるんですよね、こういう日」

「家族で泥団子作る日なんだって。明日絶対、すっごいピカピカのやつ学校にもってくるよ。なづなちゃんも見に来る?」

「いや、さらっと大嘘つかないでよ……泥団子作ってきたのは先週のエイミーでしょ」


 無邪気な笑みを浮かべるとエイミーは虫の形をしたグミを大量にひっつかんでカゴに入れ、会計を済ませて店を出て行く。あの二人はおばあちゃんとも顔見知りらしい。お金を払う際、仲睦まじい会話がなづなの方にまで聞こえてきた。


 子連れの客も買い物袋をぶら下げて出て行き、店には束の間の静けさがやってくる。開放された引き戸からは、眠気を誘うような午後の風が吹き込んできた。


「さっきの子達ね。うちがこの世界に来てから、初めて買い物してくれたお客さんなの」

「エイミーとアルフが? ……ってか“うち”って、お店ごと転移してきたみたいな言い方」


 冗談めかして相槌を打ったつもりだった。


「ええ、そうなのよ。私と、正さんが作った……その、転移?してきちゃったみたいで。不思議よねぇ。若い子達の間ではこういうの、異世界転移って言って流行ってるんでしょう? あれ、違ったかしら――?」


 ――マジかよ。


 ひと一人ならまだしも、建物一軒ごと転移してくる話は聞いたことが無い。

 でももしその話が本当なら、この店の古びた感じにも合点がいく。周辺に軒を連ねる小綺麗な店と比べて、明らかに異なる存在感を放っていたからだ。


「うちの店、古いなあって思わなかったかい?」

「え? あ、いや別に……!」

「いいんだよ、遠慮しなくて。エイミーちゃんにもはっきり言われたから」


 白状されるとその時の情景があっさりとイメージできてしまった。おばあちゃんは近くにあった椅子に腰かけて、どこか感慨深げに息を吐きだした。


「もう何十年も続けてる店だからねぇ……でもこの世界に来てから少し変なんだよ」

「変、って?」

「中はホコリっぽかったのにずいぶん綺麗になってるし、商品は売れても売れても、次の日には補充されてるの。知らない間にね。アイスの冷凍庫もガチャガチャも、もうかたしちゃった筈なのに……まったく、誰が気を利かせているのやら」


 心底不思議そうな声色と、懐かしむような優しい温度が混ざり合う。


 おばあちゃんは、この世界に不思議な力が存在する事は知ってるのかな。


 説明のつかない現象だろうけど、“スキル”の力を知っているなづなからすれば、ごく当たり前のようにその話は受け入れられた。けれど淡い勘違いを訂正する事は、出来なかった。


「よく、働く人だったんですか?」

「……そうだね。誰かの為なら、どこまでも無理ができる人だった」立ち上がって椅子を壁の方に寄せ、「お嬢ちゃん、何か悩んでるだろう? ここに来てからずっと浮かない顔してる」

「……っすね」


 図星だった。話してごらんよと促されるまま唇を動かし、胸にたまった淀みをひとつずつ吐き出していく。


 両親との関係がうまくいっていないこと。

 ついさっき再会して、途中で耐えられずに逃げ出してしまった事。孤独に過ごした一年の間にたまった怒りや鬱屈した感情――


「――見捨てたのかよとか、今までどこ行ってたんだよとか、そういうのは当然思ったし。でも一番は……一番は」

「……うん」

「……やっぱり、会いたくはなかった……です」


 何となくだけどなづなには分かる。このおばあちゃんはきっといい人だ。だからこそ薄暗い感情を吐き出すのに、相応の勇気が必要だった。


 なづなとあいつらの間にある思い出はなんだろう。


 母親にチャーハンを作ってもらったこと。違う。あれは限りなく灰色に近い、ただの記憶。父親との思い出はまったく浮かんでこない。もう少し粘れば、なにかひとかけら程度でも浮かんでくるものだろうか。


 何気なく隣を見て、なづなは驚いた。話を聞いていたおばあちゃんが真剣な面持ちで考え込んでいる。


 ああすいませんでした、やっぱり今のは全部ナシでお願いします、それじゃあお邪魔しました――弱気な台詞が喉を通り過ぎようとした時だった。


「この世界に来てから、また新しい人生が始まったみたいだった」


 レジカウンターの奥へ歩くおばあちゃんを目で追いかける。


「私たちが住んでたところは田舎でね。最初はお客さんが来てくれたけど、住んでる人も少ないから……時間が経つとね、やっぱり減ってっちゃうものなのよ。こっちの世界に来たのは正さんがいなくなって、もうお店も取り壊そうかって悩んでた時期だった。それがこっちに来てからはまた賑わい始めるんだから……ほんと、人生って何が起きるかわからない」


 木の匂いが鼻をくすぐる。このおばあちゃんが伝えようとしている事は何だろう。絶えず言葉を咀嚼そしゃくして、必死にその意図を探ってみる。


 浮かんでは沈んでいく思考の数々が、ふと向けられた微笑みの向こうに消えた。


「その時思ったの。ここは何かを変えるための、きっかけをくれる世界なんじゃないかって」

「……何かを変える」

「間違っても大丈夫。転んで立ってを繰り返して、その時の自分なりの歩き方を覚えていく――生きていくって、その繰り返しなのよ」


 明確な答えは何一つ提示されていない。でもそれはなづなも同じだった。具体的な質問をしていないのだから、返ってくる言葉は自ずと抽象的なものになる。


 何かを変えるためのきっかけ、自分なりの歩き方――掛けてくれた言葉が、何度も頭の中でリフレインする。少しずつ、なづなの胸に溶けていく。


「気が向いたら、またおいで」


 帰り際、おばあちゃんはレジ脇の箱からひと掴み分の飴をサービスだと言って渡してくれた。棒が付いていない飴を舐めるのは久しぶりで、いかにも子供っぽいミルクキャンディーの味が懐かしい。


 オレンジ色に染まる空を、なづなはいつぶりに見たんだろう。

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