第7話 飴を欲しがった野良猫の話


 静かに、時間だけが流れていた。


 暗くよどんだ空気が、うっすらと漂う茶葉の匂いに入り混じる。あれが再会を果たした親子の会話なのだろうか。椅子に腰を落ち着けたままミゼリアは思う。

 彼女は父親に殴りかかろうとしたなづなを必死に止め、その後も続く熱のない会話を聞いていた。


 ――ちゃんと帰ってくるから、しばらくほっといて。


 闇に溶けてしまいそうな寂しい背中を、追わなくていいとライモンは言っていた。だが果たしてその言葉に従ってよかったのか、今になって後悔の念に駆られている。


 両親がなづながいなくなった事に気付いたのは、ほとぼりが冷めた頃だった。


「ただいま戻りました」


 のどかに鳴り響いたドアベルがシオンの帰りをしらせる。なづなを探しに行っていた訳ではない。この一件を預かる者として、両親を街の宿まで送り返す義務が彼女にはあった。仕事上、身勝手な相手の対応には慣れている。


 口々に返ってくるおかえりの言葉を聞きながらシオンは元いた自分の席に着く。一席分の空白には、物悲しい存在感が残っていた。


「……あのままで大丈夫なのかしら」


 答えはない。ミゼリアは窓に映る自分に問いかけて、彼女のティーカップにライモンが紅茶を淹れ直す。


「心配はいらない。ああ見えて約束は破ったことが無いから、お腹が空けばじきに帰ってくるさ」

「……よく知ってるのね」

「ああ、まあ付き合い長いから。……タオジェン、クッキー食べるかい?」

『いる! 食べる!!』

「私もひとつ、よろしいでしょうか。歩いたらお腹が空きました」


 あれだけの騒ぎの後でよく団欒だんらんな空気に戻れるものだ。それは決して皮肉や嘲笑などではなく、ミゼリアの心境はどちらかと言えば純粋な感心に近かった。


 ライモン達はみな、家族の事で心を痛めたり、悩んだりしたことがないのだろうか。脳裏をよぎるいくつかの出来事。心の壁はみぞを作り、距離感を狂わせる。


「わたし……親子って、愛し合って当たり前の生き物だと思ってた」


 思ってた。過去形で呟いた自分の言葉に、ちくりと胸が痛んだ。


「でもなづなと彼女のご両親を見て……正直、常識が覆ったような感覚だった。関係がうまくいっていない親子を知らなかったわけじゃないの。それでも実際目にするとすごく、胸が痛くなって……信じられなかった」


 己の当たり前を繋ぎ止めるのに精一杯で、打ち壊された常識が泥のように心をぬかるませる。


 なづなと彼女の両親にどんな声をかければ良かったのだろう。拳を振り上げた体を押さえながら、考えて考えて――出口の見えない自問自答は、なし崩し的に終わりを迎えた。


 結局わたしはまた何もできなかった。

 自分じゃない、誰かの家族の為に。


 自責の念は茨となり、食い込むとげがいっそう心をさいなんだ。


「そうか」ライモンはコーヒーを口に含み、「オレは、キミのように感じたことはないかもしれない」


 ミゼリアのみならず耳を疑うような言葉に誰しもが注目する。冷酷な影が、顔を覗かせる。しかし不安の種は、芽吹くより前に摘み取られた。


「孤児院育ちなんだ、オレ。育ての親と呼べる人はいるけど、生みの親が誰なのかは今も知らない」

『マジか……? そういうのって、フツー知りたいとか思わねェモン?』

「小さい頃は思ってたけど、そうだな……」


 顎を指でつまんで考え込み、やがて小さな笑みが浮かべられた。


「うん、自立してからはあんまり。今の方が楽しいし、冷たい奴だって言われればまあそうなのかもしれないけど……元からこんな性格だしね。もし大変な事があったら、それはその時考えればいい――って、なづなにとっては今がまさにその時なのか」


 どうしよう、やっぱり追いかけた方がいい気がしてきた。今更過ぎる後悔にタオジェンが笑い、ミゼリアが微笑む。物憂げな面持ちを浮かべていたミゼリアも、この時ばかりは頬を緩ませ、破顔はがんした。暴力的に常識を打ち壊された一度目とは違い、二度目の崩壊は真逆の心地よさがあった。


 重くなりがちな空気だったからこそ、一度伝播でんぱした笑いはあたたかな余韻を残していく。シオンは髪の毛をもてあそびながら、


「なづなさんは、あなたさんが面倒を見る為に保護した……と見て間違いないのでしょうか」

「ああ、なづなのお父さんに言った? そうだね、路地裏で心細そうに座ってるのを見かけて……あれからだいたい、一年が経つのかな」

「その頃から、なづなさんは今と変わりなく?」

「いいや」ライモンは首を横に振り、「すごく警戒されたのを覚えてる」


 なづなとライモン、両者の年齢にはおよそ倍近い開きがある。


 それだけの年齢差があれば、なづなの住んでいた世界ではライモンは“不審者”として扱われてしまう。異世界であればそのようなそしりを受ける事はそう多くないのだが、トラウマのように積み重なったなづなの経験が警戒心をより強固なものにさせていた。


 しかし――初対面から会話ができるようになるまで幾日いくにちか、腹の虫の鳴き声を聞いては食事を与え、宿代の金まで添えておく。


 当初はやはり物的な支えが大きかったものの、精神面にも次第に変化が訪れた。


「――飴」

「アメ?」

「飴、ある? ――ライモン、さん」


 与えられる物以外を望み、欲求を口に出す。それどころか彼女は――若干ぎこちないながらも――教えた名前を初めて呼んでくれた。


 互いの心が通い始めたのは、もしかしたらその時からだったかもしれない。


 コミュニケーションに時間を費やし、互いを知る。知りたくない事は知らないままでいい。語りたくない事も、語らないままでいい。すべてを知る必要はなかった。

 互いにとって大切なのは未来や過去ではなく、“今”であると認識していたからだ。


「――だから今日オレも、なづなの両親がああいう人なんだって事を初めて知った」


 語り聞かせていた話を今に戻す。コーヒーを口に含むと酸味の効いた後味が残り、香り高い豆の匂いが抜けていく。


「彼らとの付き合い方は、なづなにしか決められない。言うまでもない事だけど」

「でも……見ているだけのつもりもない?」

「そう。オレは何があっても、なづなの事を守り抜く。……だからオレ達にできる、オレ達なりのやり方で、なづなを支えられる筈だよ」


 わざわざ主語を大きくする必要はないだろうに――心の中で独りごちて、しかし力強い微笑みにミゼリアは感謝した。背中を押されたような心地だった。


「ミゼリアさん」


 両肘をついて、シオンは合わせた手のひらを唇の前にもっていく。伏し目がちになると綺麗に立ち上がったまつ毛が、その瞳をつややかに隠した。


「私たちがここへ来た目的もお忘れなく――と言いたいところなのですが、当初に立てていた予定からは随分と狂ってしまいました」

『あァ、たしかに。親子かどうか確かめに来たってのに、なんかそれどころのハナシじゃなくなっちまったもんなァ』


 なづなと両親、両者を合意の上で引き合わせた後確認をとり、ギルドへつつがなく報告を終える。頭の中に思い描いていた絵図は、穏便に事が進めばという前提の上に成り立っていた。だが、現状を振り返ればどうだろう。


 出会い頭の口論に始まり、険悪な関係性はやり取りを見るだけで十二分にうかがえる。“穏便に事が進めば”という前提が、この時点で既に破綻している。


 彼らが親子であるか、否か。


 それを見極めるという務めを放棄するつもりはない。だが己が見定めるべきものは、もっと別のところにあるような気がしてならなかった。


 仮に本当の親子であったとして――彼らは共に暮らしても、いいものだろうか。


「……腰を据えて取り掛かる必要がありそう」


 手をほどいて姿勢を正し、


「ライモンさん。急なお願いで申し訳ありませんが、今日、私たちをここに泊めて頂く事は可能でしょうか?」

「ん? 構わないけど……長引きそうなのかい?」


 察しが良くて助かります。よそ行き感のない柔和な笑みが、晴れやかに感謝の意を添える。


「ええ、ありがとうございます」

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