第6話 フィルター


 席を立つ。突き動かされるように、前へ前へと進む足は自分が思うよりずっと早い。後ろから聞こえた声に振り返れる余裕はなかった。


 あっという間にライモンを追い越して――早鐘はやがねを打っていた心臓が一気に冷却されていくのを感じた。


「あぁ……? お前……」


 気だるげにさまよう黒い瞳。シルバーブロンドの、センター分けしたワンレングスの髪型は最後に見た時と変わらない。ドッグタグのネックレスとスマホのネックストラップがぎらぎらと威嚇いかくするように主張していて、指にはめられたジュエリーリングはどれも刺々とげとげしい見た目をしている。


 小さい頃、あのリングに触ろうとして怒られた時の事を思い出した。けれど瞬間的に湧き起こったのは恐怖ではなく、理性の鎖を引きちぎるほどの激情だった。


「――っざっけんなよてめぇ!」


 ぶん殴ってやる。

 反射的に拳を振り上げて、何かがなづなを制止する。


「なづな……っ! 駄目、落ち着いてっ……!」

「お前今ッさらっ、どのツラ下げてぇっ!」

「やっぱりお前だったのか。ハハ……つか、見た目と雰囲気どうしたんだよ。ウケるわ」


 無機質なスマホのレンズが、下品な笑みをたたえたまなざしがなづなを見る。昔、相手をしていた男達と同じ目つきだ。


 あと数歩も前に出ればあいつの顔をぶん殴れるのに、体を抱きとめる手がそれを許してくれない。何もかもがうざったい。ドス黒い泥の中から這い出てくる感情を抑え込むことは出来なかった。


「クソみてえな一年だった! 知らねぇおっさんの手ぇ握って好きなようにされて、汚れた金アテにして生きてく奴の気持ちがテメエに分かんのかよ! お前らがいなくなってから何回も何回も何回も、毎日っ、ゲロ吐くような思いして――!」


 言いたいことは山ほどあったはずだった。


 明日なくなるかもしれない金を頼りに、ネカフェや漫画喫茶を転々として過ごす毎日の息苦しさ、辛さ。素性も知れない人間と寝る事への恐怖。日に日に募っていく人間への不信感。ある時を境に薄れていく、自分がしている事への罪悪感――なのに。


「っ、クソがぁッ!」


 暗いレンズの奥にすべてが吸い込まれていく。反響する事もなく、その奥に在る瞳に届くことも無い。


 まるで暗闇の中へ石ころを放り投げているかのようなむなしさがあった。耐えきれなくなって叫ぶと、わざとらしい大きなため息が聞こえてくる。


「……おい。じゃあなんだよ。全部いなくなった俺らのせいって言いてえのか、お前は?」後頭部をぶっきらぼうに掻いてから、「あのな、こっちだって事故に巻き込まれてんの。こんな意味不明な世界に飛ばされて、どうやって帰ったらいいのかもわかんねえし」

「嘘つけよ……帰る気なんて最初っからないだろ」

「ほら、そうやってすぐ疑うじゃん。こっちはお前の事心配して来てやったのに――なあ?」


 反応が返ってこない事に腹を立てて、そいつは隣にいる奴に肘をぶつける。


っ……あ、ごめん。運日はこびくん」

「ぼーっとしてんな」


 運日くん。こいつの事をそう呼ぶ人間を、なづなは一人しか知らない。


 かすかに桃色を含んだ茶髪は首が隠れる程度にまで切りそろえられ、ハイネックの黒のトップスに白地のジャケット、ベージュのフレアスカートに黒のタイツ。こいつもこいつで見た目はさして変わりない。


 紅白芹愛べにしろせりあ。ただでさえ気弱でおとなしそうな雰囲気が、隣にいる奴のおかげで余計に際立って見える。


 りきみっぱなしだった体が弛緩しかんして、その時にやっと自分が興奮していた事を自覚する。暗い感情は、まだ腹の底で渦巻いていた。


「お取込み中のところ失礼致します」なづなの傍までシオンさんが歩み寄り、「ご足労頂いたうえで恐縮なのですが、お二人には宿で待機するようお願いしたと記憶しております」

「あ? だから何なの?」

「“言ったことは守れ”――そう言う事だと思うなぁ、オレは」


 シオンさんの前にライモンが立ち、ナイフのように鋭い語気をさえぎった。


「誰、お前」

「初めまして、オレはライモン。なづなの面倒を見ている者さ」

「……お前が拾ったのかよ。ガキ拾うのはこの世界でも犯罪だろ」

拾った場合はね。それに――」タオジェンを腕にとめて手のひらを差し出す。「子供を拾うのと子供を捨てるの、罪が重いのはどちらだと思う?」


 答えは分からない。けれど確かなのは、目の前にある背中がいつにも増して頼もしく見えたという事だった。


 黒いくちばしがシフォンケーキのかけらをついばんでいる。ひりついた空気の中、憎々しさに満ちた舌打ちの音が耳にこびりついた。


「……イカれTシャツ野郎が」

『っつうかおたくら、どうやってここが分かったワケ? オレちゃん達なぁ~んも言ってねェハズだけど』

「……おい」


 お前が言え。母親はすぐにその意図を汲み取ってしまう。


「……転移石の調子が悪い事と、魔物の出現が関係している事は知っていたので。だったらギルドに依頼が出されてると思ったんです。依頼の報告をする時も、絶対そこに立ち寄らなきゃいけない……それでこっそり、遠巻きにギルドの入り口を眺めていたら――」

「……わたし達の出て行く姿が見えたから、ここまでつけてきた。張り込んでいたんですね」


 ごめんなさい。気がはやってしまって――言葉の続きを引き取ったミゼリアさんにおずおずと首肯が返される。母親の言葉がすべて、口を閉ざしたままの父親の代弁に聞こえてしまう。昔からそうだ。こいつは不機嫌そうに振る舞って、母親をコントロールする癖がある。


 だからといって、母親に同情する気は起きなかった。


 ご丁寧に書き置きとご飯を残す優しさがありながら、それでもこいつはなづなを見捨てた。なづなから逃げて、二人きりでどこかへ行こうとした。


 たったひとかけらの優しさだけで、全部が許されると思うなよ。


「なづなちゃん……元気そうで安心した。ごめんね? 急にいなくなっちゃって」


 うるさい。耳障りな声に胸がかき乱される。


「こんな時に言う事じゃないかもしれないけど、会えて嬉しいって気持ちは本当だから」

「……お前も嘘つくのかよ。こっちは全然、嬉しくない」

「……そっ、か」困ったような弱々しい笑みが浮かび、「でも、。頑張って生きてきたんだね」


 うるさい、うるさい。

 その言葉は瑠稀にもらった分だけで充分だ。


 それに――なんで父親そいつの傍から離れないんだよ。


 言葉だけなら優しいのだと思う。なのに、歩けばすぐ詰められる距離を詰めようとしない、してくれない。埋まらない空白から感じる温度は何もない。


 ライモン、シオンさん、ミゼリアさん、タオジェン。

 みんなはこいつらの事、どう感じてるんだろう――


「喋り過ぎなんだよ、さっきから」

「えっ……? でも、さっき運日くんも」

「俺はいいんだよ、全然話してねえし。……つか前さ、お前ずっとこいつにベタベタしてなかったか? なあ?」

「……ごめんなさい」

「は? ……別に謝ってほしいわけじゃねえんだけど」


 沈んでいた記憶がひとつ、浮かび上がる。物心ついた時から、このやり取りの光景はうんざりするほど見てきていた。


 するとなぜだろう、途端に世界から切り離されたような感覚に襲われる。

 声が遠い。視界に映るものの輪郭がぼやけていく。そうだ。家の空気が悪くなるたびに、なづなはこうやって現実逃避をしていたんだ。


 だからなづなには、家族の楽しい記憶があまりない。


「――? ――、――……!」

「……ちゃんと帰ってくるから、しばらくほっといて」


 かろうじてミゼリアさんの声が聞こえた気がして返事をする。足が、ふらふらする。でもこれ以上、あの場所の空気を吸いたくなかった。


 いつもの夜空も、ぎらついた街の明かりも、何もかもが灰色に見えてきた。あの時と一緒だ。


 元の世界で、夜の街をさまよっていたあの時と。

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