第2話 もうひとつのさよなら
「もしかして、疲れてる?」
心配そうに問いかけられたけど、特にそういうわけではなかった。
テーブルにはいつの間にか注文していた飲み物と軽食が置かれ、周囲から聞こえる声が目を冴えさせる。伸びをしてぐるりと首を回せば、吐き出す息とともに眠気が逃げていく。カフェの内外は人でいっぱいだった。
「いや別に? 昨日寝れなかったし、たぶんそれ」
「また夜ふかし?」
「みたいな感じ。寝つき悪ぃんだよ、昔から」
「……ヌリさんのアトリエに泊まった時も起きてたもんね。なづなは」
見飽きた夜空の下で始まる食事は、なづな達にとっての昼食だった。
間違ってるのは空の方で、この街――マスカルーナには太陽が昇らない。
地理がどうとか、天候や気象が
他愛もない雑談や互いの事を話すうちに、皿もティーカップも空になる。なづながわがままを言って割り勘がいいと言うと、少し戸惑いがちな声が返ってきた。
遠慮しなくていいよ、今日は私が付き合わせてるんだし。それでも誰かにお金を払わせるという行為は個人的に避けたかった。
元の世界で自分のしてきた事を、思い出してしまうからだ。
「――ありがとうございます、ごちそうさまでした。……行きたいところとか、ある?」
「いいの? じゃあ服とか見たい」
「うん。近いの、ここから?」
隣を歩いているだけで香る、花のように甘い匂いに鼻をくすぐられる。
「近い近い。瑠稀もなんか買ってけば?」
ひょんなことから知り合った、元アイドルの異世界転移者。今日のなづなは瑠稀に連れられて、マスカルーナの街をあてどなくぶらついていた。
花冠を被った猫がデザインされたトップスに黒のジップパーカーを羽織り、レザーのショートパンツ、編み上げのロングブーツは、どちらかと言えば
けど――なづなの目は、長くて
歩くだけでさらさらと魅惑的に揺れ動く。
若干ギャル寄りな服装とは真逆の、清純さのカタマリのような容姿と顔立ち。かなり“高嶺の花ってる”印象だけど、話してみればそこまで壁は高くない。なのに、
「……なづな」
「えっ? ああ、マジか……! ごめん、めっちゃ似合ってるその服!」
「いや、そっちにいるのマネキン……」
――瑠稀は男受けがよさそうだ。
脳裏をよぎる薄汚くて無粋な考えを、なづなは笑ってごまかした。
店の中を見て回るだけで、結局服を買わなかった。
何を言っているのかわからない、それでも「
なづなの部屋は散らかってるから、人は入れられない。
カウンターでグラスを拭くライモンに瑠稀は「お邪魔します」と
「なづなに会えるの、たぶん今日が最後なんだ」
ぼんやりと、頭上に輝く星の海を眺めている時だった。
「は?」
「驚くよね、普通に」瑠稀は小さく微笑み、「でも具体的に話すのはちょっと難しくて……今日はそれを伝えるために、なづなに会いたかった」
「……元の世界に帰る、とか?」
半分あてずっぽう、半分根拠のある問いかけに、瑠稀は横髪を耳にかけ直しながら目を伏せる。何日か前、瑠稀はメロと葵パイセンを連れてなづな達のカフェを訪れていた。
その時ヌリパイセンと話してたのは――元の世界に戻りたいか、どうかという話だった気がする。
かすかに聞こえてきただけの話だから確証はない。けれど反応を見る限りではたぶん、そういう事なんだと思う。
「……マジか」
瑠稀はじき、元の世界へと帰ってしまう。
そうしたら、なづなは瑠稀に会えなくなる。
嫌でも思い出してしまうのは、両親がいなくなったあの日の事だった。でも瑠稀は違う。いなくなる前に、なづなにちゃんと話してくれた。
何も言わず置き去りにした両親とは、違うんだ。
「……なづなの親はさ、なづなになんにも言わずに家出てったんだよね」
「え……?」
「残してったのは『冷蔵庫にチャーハンあるから』って書き置きと、その少し味の薄いチャーハンだけで……あ、あとヘソクリもか。まあそれも全部スられたけど」
あきれるほど綺麗な髪と同じ、黒い瞳がなづなを見る。どうしてか目が合った瞬間、意識していなかった照れくささが急に顔を出し始めた。
「っ、あー……っと。だからその、ちゃんと話してくれて、なづなは嬉しかったっていうか……うん、フツーに嬉しかったから……! マジでそんだけっ!」
「……なづ――」
柵に乗せた両腕に顔を突っ伏すと、思考がだんだんと冷静さを取り戻していく。瑠稀の目を見て恥ずかしくなったのは、きっと暗がりの中じゃなかったせいだ。
以前、なづなの親の事を話した時は部屋の中が真っ暗で、互いの顔も分からなかった。だから落ち着いていられたし、気恥ずかしさを感じる事だって無かった。
知らない男の人と、一緒にいる時だって。
「――? ――、――――!」
顔を深く
瑠稀、怒って帰ったかな。暗闇の中に自己嫌悪が芽生えようとした時、今までに感じた事のない、不快感のないぬくもりがなづなを包み込んだ。顔は、
「辛かったよね」
頬に触れる黒髪から花のような匂いが香る。
言葉の温度に、喉が詰まりそうになる。
「私は親がいなくなった事も無いし、なづなよりつらい人生も歩んでない。だから、私に理解できるなづなの辛さとか、苦しさは……ないんだと思う。話してると分かるんだ。私は恵まれてるんだ、って」
それでいい。瑠稀はそれでいいんだよ。自分自身や着ていた制服を売り物にする経験なんて、一生しないままでいい。
背中から回された腕に触れると、抱きしめる力が少しだけ強くなる。
「……ずるいよね。かけられる言葉が無いから、こうやって誤魔化してる。私は」
「いいって」言葉がやっと絞り出せた。「……親にも、誰にも。こんな風にされた事、ない。だからマジで充分だし、ごめん。勝手に話さえぎって」
瑠稀みたいな奴が親か、姉妹にいてくれたらよかったのに。ありえない、叶いもしない思考のかけらが散らばったところで切なさが心臓を掴んだ。
こんなにいい奴と、なづなはもう会えなくなっちゃうのかよ。
孤独が辛いのは知っている。けれど人の優しさを“痛い”と感じたのは初めてだった。あたたかくて、なのにいたい――
「なづな……?」
「っ……悪い。すぐ止めっから」
瑠稀が後ろにいてくれてよかった。でも泣いてるのはもう、バレている。それでもなづなはよかったんだ。
感情を置き去りにして流れる涙も、抱きしめてくれた瑠稀の事も、全部。
涙で落ちたメイクを直すのに時間がかかったせいで、時刻はもう夕方になっていた。瑠稀を見送りに街の広場まで付き添う道すがら、元の世界に帰った後の事を瑠稀は話してくれた。
謝りたい友達がいる事。そして卒業を余儀なくされたユニットのオーディションを受けて、もう一度アイドルになる事。
前に進もうとしている人間にかけられる言葉は、一つだった。
「アイドルとか全然わかんないけど、瑠稀の事はずっと応援してるから。絶対……なれるよ」
「ありがと。……なづなも元気でね。ずっと忘れない」
何かを
それがつい、三日前の出来事だった。
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