第1話 覆水盆に返らず


 コップ一杯の水で、砂漠をどこまで歩いていけるかみたいな人生だった。


 小さい頃から、特に父親からはあんまり可愛がられなかったし、逆に母親からはそれなりに可愛がってもらった気がするけど、これは私が思いさなさ過ぎて記憶が美化されてるだけかもしれない。忘れようと頑張ってたから、とにかく自信が無い。


 小学校と中学校は半分くらい行ってない。

 いじめられてて、不登校で――そうなったきっかけは、参観日にいつも私の親だけ来なかったからだった。


「別にどうでもいいけど、うちで騒いだりすんじゃねえぞ」


 気遣いのかけらもない、冷え切った言葉。うんと返事をしたつもりが鼻を鳴らしただけになっていたようで、舌打ちをされた。


 ご飯代は渡されるから飢える事は無かった。

 でも親は、私を置いて夜な夜などこかへ出かける事が多かった。


 家の鍵――といってもアパートの鍵だけど――をポケットに入れて、留守番する。乾いた日々が終わりを迎えたのは中学を卒業した頃だった。

 翌日から両親は、家に帰ってこなくなった。


 “なづなちゃんへ。冷蔵庫のチャーハン、あたためて食べてね”


 母親の愛情を平らげるのに七、八分。これから先の事を考えるのに数日使って、私は家を出た。ラッキーだったのは親の隠していた金がそのままだった事。それでも余裕とは言えない訳だから、やっぱり金は稼がなくちゃならない。


 普通のアルバイトは駄目だ。親の同意なんて得られない。

 それに中卒である事を考えれば、採用してくれる可能性は低い気がした。


 仮に働けたとしても、安い給料は無視できない――


『未成年 女性 できる仕事 今すぐ』


 検索ボックスに打ち込んだ字面に指が震えた。自分が何をしようとしているのか、に対して怖いと感じるぐらいの理性は残っていた。


 スマホと、お金と、“私”と、もう役目を果たすことのない、家の鍵。

 生きていく為に差し出せるものは、頭の悪い私には一つしか思い浮かばなかった。


「…………こんにちは。初め、まして」


 中学の制服を着た私を見ると、にやついたその人は手を取り、夜の街へといざなっていく。


 親に親戚がいたら。

 私に友達がいたら。

 こんな風に、見ず知らずの人間と手をつなぐこともなかったのかもしれない。


 脳裏をよぎる“たられば”の話も、明かりの消えた部屋の中に消えてゆく。

 泥の中から水をすくう日々は、そこから一年続いた。





 雨粒がせわしなく窓を叩いていた。

 誰もいなくなったホテルの一室で、私はスマホを耳に当てる。


「……出ろよ……おい、ざけんなってマジで……!」


 苛立いらだたしいくらい規則的なコール音が神経を逆撫さかなでする。ふつふつと湧き出てくるストレスは指先を通して小刻みに財布を叩き、しかしそれで収まるような怒りではなかった。


「とんずらしてんじぇねえぞクソ野郎ォッ――!」


 限界だった。手元の財布を掴んで、思い切り床に叩きつける。すると開いたままのジッパーからなけなしの小銭が飛び散り、むなしさと、吐きそうなくらいドス黒い感情に耐えられなくなって咆哮する。


 やられた。

 寝ている間に、財布に入っているお金をほとんど盗まれてしまったのだ。


 客は選んでいるつもりだった。何度も相手をしてくれる人であれば、少なくとも信頼は得ているはず。そう、思ってたのに。


「……終わったろ全部」備え付けの電話機から音が鳴り響き、「るっせぇよカス」


 あからさまな色気で装飾された室内が牢獄に変貌した。


 今いる場所は三階で、飛び降りたら、ワンチャン逃げられるかもしれない。


 けど怪我をする可能性の方が高いし、捕まったら本当に牢屋まで案内される事になる。ない頭を必死に回したところで、ほぼ“詰み”の状況を覆せる手段は思い浮かばなかった。


 警察に掴まるか、いっそここから飛び降りて――本当に終わらせるのもアリなのかも。


「……あ?」


 何かの通知が来たのを見て、条件反射的にスマホを操作する。こんな時にどこのどいつだよ。SNSのチャットアプリを起動すれば、すぐに送られてきたメッセージが目にとまった。


『ようこそ』

「……ちっ」


 ブロックしてやる。舌打ちした瞬間、抗いがたい眠気が私の体をベッドに横たえさせる。そのままゆっくりとまぶたが落ちてきて――




 それが私、紅白べにしろなづなが、異世界に転移したきっかけだった。


「――づな?」


 暗闇の奥からひと筋の光が差し込んでくる。


 うっとうしいまどろみに抗いながら、なづなはゆっくりと目を開けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る