よもぎ課長の終活

岡田遥@書籍発売中

第1話 古びた新品の鞄

「シューカツ?」


 二年ほど前。課長の言葉にぎょっと返したのを覚えている。

「まじすか。今から転職すか」

 何で突然そんな攻めたこと……と絶句する俺に、課長が呆れた目を向ける。

 そんなわけないだろ、と声なき声が聞こえてくる。うん、そうだよな。

 やりがいない仕事と変わり映えのしない日常を惰性で享受し続けたツケが回ってきたのだろう。五十半ばの課長の目は常に暗くくすみ目蓋まぶたはいつだって重たげだ。

 未来に希望を持って入社してくる新入社員たちが課長をなんとなく遠巻きにするのは、その使い古されてよれたスーツみたいな人生が、彼の全身からうっすらと漂っているからだろう。

 でも、俺もたぶんこうなる。そういう確信は既にある。

 逃れようと足掻くつもりはないし、きっと、それも難しいだろう。

 課長はデスクの上にある書類に処理済みの判を押しながら覇気のない声で続けた。


「転職のほうじゃなくて、終活しゅうかつ。終わる準備のほう」

「……ああ、そっち」


 終わる準備のほう。課長の言葉を頭の中で繰り返す。

 

「……なんか、健康診断の結果とか悪かったんすか」

「いや、それは別に」

「じゃあ何で急に」

「……まあ、タイミングだわな」


 なんだそれ。俺が腑に落ちず黙っていると、課長は顔をデスクに向けたまま視線だけこちらに向け、仕事しろと顎をしゃくった。話振ったのそっちだろ。そんなことを思いながら手元の書類に意識を戻す。

 気を引き締めて掛からなくてもこなせる仕事は、ゆるやかに、何かを摩耗させていく。そういうことに、俺もそろそろ気がついていた。

 


「ほら」


 課長からその鞄を受け取ったのは、終活の話をされた翌日のことだ。


「何すかこれ」

「鞄だよ。型は古いけど使ってないから、よかったら」


 古びた新品。おかしな表現だ。しかもA4の書類がぎりぎり入らないような絶妙に微妙なサイズ。正直いらねーと思ったが、課長はそれを見越したように「いらなきゃ捨ててくれ」と、自分は気だるげな様子でチェアに腰を下ろした。

 結局それきり、俺と課長の間に終活の話が出ることはなかった。






「そういえば彼、先月亡くなったらしいよ」

 俺がその鞄のことを思い出したのは、それから二年後。

 廊下ですれ違った社長から、よもぎ課長の訃報を聞いた時だった。


「なんて言ったかな、君の上司にいたろ、随分長く……ええと、たしかわらびだかみやびだか」

「……蓬さんですか?」

「ああ、そうそう。彼。訃報が来てたんだが、あいにく忙しくて香典も送れなかった。君、機会があったら線香でもあげに行ってくれ」


 はあ、と、曖昧に返した俺に住所と訃報の書かれた手紙を押し付け、社長は足早に廊下の先へ消えていった。

 一人残された俺は手紙を見下ろし、東京都立川市……と意味もなく住所を口に出してみる。

(……そうか)

 そうか。あの人死んだのか。

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