演奏できるの五木さん?
夏の風が室内にそっと入り込み、カーテンがぶわっとなびいた。青く澄み渡る空の向こうに、大きな入道雲が鎮座している。これからもっと成長していくのだろうか、オサムはあれが全部アイスクリームだったらいいのにな、なんてのんきに考えていた。
雀が三羽、電線の合間を縫うように飛び去って行く。それを追うように、一羽のカラスがガァと鳴いた。遠くから、リコーダーの音色が響いてきて、オサムは大きくあくびをした。
「オサム君、今日は帰り速かったねぇ」
畳の上でゴロンと横になったまま、五木さんが問いかける。
「お友達と喧嘩したのかな?」
彼女は相も変わらず薄手のぶかっとしたシャツ一枚と、きわどいラインが見えてしまいそうなホットパンツに身を包ませている。むちっとした太ももが、まるでヨーロッパの芸術作品を思わせる曲線美を描いていて、オサムはチラリと横目でそれを見た。
「あ、今エッチな顔してたぞ?」
「してない! 見てない!」
オサムは慌ててそっぽを向くと、窓の外の景色に目をやる。天気予報では、今日の昼過ぎから雨だという話だ。でも、一向に降り出す様子はない。むしろいい天気である。こんな天気の日は、洗濯物がよく乾くのよと母が言っていたのを思い出した。
「オサム君、今日はどうしたの? 不機嫌じゃん」
五木さんの言葉を受け流しつつ、オサムは雲の数を数えた。急成長を続ける夏の雲は、隣同士で結合してより大きくなろうとしている。今の形はウサギに似ているなぁ、なんて考えていたら、ふと首筋に冷たいものが当たった。
「わっ! 何? びっくりした」
「えへへ、驚いた? オサム君可愛いぃ」
振り返ると五木さんがいたずらな笑みを浮かべて笑っている。オサムの眼前には、陶器のように艶やかな足先が伸びていた。どうやらオサムの首筋を、つま先でそっと撫でたらしい。
「ちょっと五木さん! やめてよ!」
「ほらぁ、やっぱり今日はちょっと機嫌悪いじゃん」
「そんなことないもん!」
「そんなことあるよぉ? どうしたの? お姉さんが話聞いてあげるよ?」
グイっとこちらに近づいてきた彼女が笑う。ヨレヨレのシャツの隙間から、柔らかそうな谷間の揺れる姿が目に入る。
「いい、別にいいもん!」
「えー、絶対良くないじゃん。その態度は絶対何かあったって、ほらぁ、お姉さんに教えてよぉ、どうしたのぉ? 喧嘩したの? いじめられたとか? あ、もしかして女の子に振られちゃったとかぁ?」
かまぼこ状の目がニンマリと歪んで、嬉しそうな表情に切り替わる。いつものちょっとクールなキリっとした目鼻立ちからは想像がつかないほど、いやらしく下品な顔立ちだ。
「違うよ、別に僕好きな人とか居ないもん! 振られたりとかじゃないもん!」
「なーんだ、残念」
「残念ってなんだよ! 五木さん絶対僕のこと馬鹿にしようとしてたでしょ。ちょっと遊んでやろうって思ってたんでしょ!」
オサムがぽかぽかと両手で彼女の頭を叩くと、五木さんはより一層嬉しそうに笑うのだった。
「あはは、痛い、痛いよオサムくん」
「むー!」
不機嫌ですと言いたげに頬を膨らませたオサムを見て、五木さんは笑顔を崩さないまま彼の頬に人差し指を突き立てた。口に溜められていた息が押し出され、おならみたいな音が漏れる。
「あはは、オサム君くっさーい」
「もー! 五木さんのバカ!」
すっかり拗ねてしまった彼の頭を優しくなでながら、五木さんは声質をそっと和らげる。
「ごめんごめん、ちょっとやりすぎたね。それでオサム君、どうしたの? 何かあった? お姉さんが話聞いてあげるよ?」
少年の柔らかい頭髪の隙間から、細く長い指が通る。短く切りそろえられた爪の先が、優しく彼を慰撫した。
しばらくそのままの姿勢で、二人は過ごした。時計の針がカチコチと時の流れを告げ、遠くから再び調子の外れたエーデルワイスが聞こえてくる。誰かがリコーダーの練習をしているのだろう。その音痴ぶりに嫌気がさしたのか、雀が抗議の歌を奏でていた。再び夏の風がカーテンを揺らし、ほんの少しだけ湿度の上がったことをお知らせする。オサムは額の汗をそっと拭って、背後に座る五木さんと目を合わせた。少し落ち着いたのだろう。彼の頬は相も変わらず膨らんだままだが、刺々しいものは無くなっていた。
「落ち着いた?」
五木さんが問いかけると、オサムは黙ってコクリと頷く。
それからゆっくり立ち上がると、投げ捨ててあったランドセルを拾って中を開ける。ガサゴソと何かを探す素振りを見せてから、彼が取り出したものはリコーダーであった。
「これ……」
「ん? リコーダーがどうしたの?」
五木さんが首をかしげると、オサムは恥ずかしそうに顔を赤らめながら口を開く。
「今日、リコーダーのテストで。先生に下手糞だから明日再テストって言われた」
「あぁ、だから拗ねてたんだぁ」
五木さんが微笑むと、それがまた人を馬鹿にする表情だと感じたのだろう。オサムがムスッとする。
「オサム君、頑張って練習していたもんね、悔しかったよね」
「……うん」
五木さんの態度が、人を馬鹿にするものではないと察したのだろう。オサムは小さく頷くと、そっと縦笛に唇をつけた。鼻から大きく息を吸う。そして、指はミの位置へ。
ミソシ、ドソファ、ミミミファソラソ。
調子の外れた音が響く。強く息を吹きすぎて、音が時折一回転した。それでも黙って、五木さんは耳を澄ます。オサムは必死に指を動かす。時々薬指が上手く穴を塞げず、また時折呼吸を入れるタイミングを見誤ってテンポが崩れた。それでも彼は音階をなぞる。練習してきた成果を活かすために、真剣に指を運び、息を吹き入れ、エーデルワイスを歌い上げる。
「どう、だった?」
最後まで演奏を終えたオサムは、目を閉じていた五木さんに問いかけた。
「んー?」
五木さんはゆっくりと目を開けて首をかしげる。
「僕の演奏、どうだったの?」
「そうねぇ……」
五木さんは少し考える素振りを見せてから、ゆっくりと立ち上がるとオサムの頭をそっと撫でる。
「慰めなくていいから! どうだったの!」
語気が少しばかり強くなるオサムをなだめるように、彼女は尚も彼の頭を撫で続けた。それからゆっくりとリコーダーに手を伸ばし、彼からそれを奪い取る。
「ちょ、五木さん?」
「まぁまぁ、聞いてて」
彼女は優しく笑いかけると、柔らかな唇をそっとリコーダーの吹き口に当てる。オサムはその姿を目で追いながら、なぜか胸が高ぶるのを感じた。五木さんの薄桃色をした下唇が、そっと優しくリコーダーに触れる。つい先ほどまでオサムが吹いていたそれを、今度は五木さんが丁寧に扱っている。
ミソシ、ドソファ、ミミミファソラソ。
細くしなやかな指先が、的確に穴を塞いでいく。優しい表情のまま、いつブレスしているのかすら気づかされないしなやかな動きで、彼女のリコーダーは歌を歌う。エーデルワイスを奏でていく。
「す、すごい……」
学校の先生なんかよりもっと上手だとオサムは思った。きっとリコーダーのプロ適性試験なんてものがあったら、五木さんは主席合格だ。リコーダーを吹くために生まれてきたんじゃないかとすら錯覚してしまう。
最後まで吹き終えた五木さんは、リコーダーをオサム君に手渡して笑った。
「私が教えてあげよっか?」
窓の外でこちらを眺めていた雀が、賞賛の鳴き声を上げている。先ほどまで定期的に流れていたどこかの家のエーデルワイスも、今はピタリと止んでいる。窓の外の入道雲が、ほんの少し黒ずんで、オサムの家を覗き込んでいるようだった。
「本当に、教えてくれるの?」
オサムは五木さんを羨望の眼差しで見上げる。
「もちろん、オサム君のためだったら、私何でもしてあげるよ?」
優しく微笑む彼女を、今日ほど頼もしいと思った日は無いだろう。
オサムは力強く頷くと、リコーダーに唇をつけた。それを見て五木さんは小さくつぶやく。
「あーあ、私と間接キスしちゃったね」
結局その日、オサムは顔が真っ赤に染まって集中力を欠いてしまったようで、ちっとも練習にはならなかった。
いつの間にやら五木さん!?居候ゴキブリ娘が勝手に家に居着きました 野々村鴉蚣 @akou_nonomura
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