第1話

 JR小岩駅の南口を出たとき、時刻は午前一時を回ったとことであった。水道橋駅で乗った津田沼行きの総武線各駅停車の最終電車が、秋葉原駅にて遅れていた京浜東北線からの乗り換え客を待つために十分ほど停車したためである。


 乗車時には降っていなかった雨がぽつぽつと降り始めていた。普段から折り畳み傘を持ち歩くほど豆な性格ではなく、多少の雨であれば濡れることを選択する自分にとっては、大した問題ではなかった。南口の路地に並ぶ暗鬱とした飲み屋街を抜ける。少しだけ遠回りをして、商店街側の道を通れば屋根があり雨を回避できるが、その選択をする気力すらないほどには、体は疲れていた。引っ越してきた当初は客引きの鬱陶しい路地であったが、一年以上、ほぼ毎日歩いていれば客引きもこちらの顔を覚え、声をかけても無駄だと判断するようになった。


 飲み屋街を抜け、住宅街へと入る。小岩というまちはアングラな、治安の悪い場所だとしばし評されるが、それは駅前の一部だけであり、そこを過ぎてしまえばほかの場所と変わらない。さほど活気はなく、暴漢が多発するわけでもない。東京のはずれにある、決して高所得者が選ぶような場所ではない、平凡な住宅街である。しかし一度ついた印象というものはそう簡単に拭い去れるようなものではないらしく、ここ一帯は利便性の割に家賃は安いままを維持している。近々、駅前に大手デベロッパーが高級ブランドマンションの建設を予定しているようだが、昨今の都心の住宅高騰の潮流に乗っかることができるのかは、甚だ疑問である。


 線路沿いを縫うように東へ向かい、軽自動車同士がすれ違えるかどうかといった細い道へ入ったとき、“それ”は視界に入った。長く黒い髪が雨に濡れて、街灯を反射する。その光はつややかなものではなく、鈍い、使い込まれた金属バットが発する光のようであった。推定十代前半、表情は詳細にはうかがえないが、この世のすべてに裏切られたかのような、そんな横顔に見えた。


“トー横”といったか、歌舞伎町にはびこる若年スラムのなかであれば、その存在はきっと風景に溶け込んでいただろう。しかし、数分に一人も通りかからないような深夜の小岩の路地では、その光景は十分に異質であった。


 灰色のシャツには、暗がりでもわかるほど大きな穴が開いており、靴は田んぼの中で洗ったかのように汚れている。今晩はこの冬一番の寒さだといっていた。その寒さに一切抵抗する気力すらないように、少女はうなだれていた。


 このような場合、どういった選択を取ることが適切か。少なくとも、過去の自分に類似する経験はなかった。最寄りの交番がどこにあるか知らないが、駅前の交番へ引き返すほどの気力は残っていない。だとすれば無視するのが適切である、が。

 少女の先、少し行ったところに自動販売機があるのが見えた。凍える手で財布を取り出し、コーンポタージュと緑茶のホットを買った。間近まで近づいても一切こちらを気に留めようとしない少女の傍らにそれを置き、その場を後にした。誰にも見られていないことを確認しながら。


そして、その行動は災厄を呼ぶ。


 翌朝、いつも通り八時に目覚め、スマートフォンを確認するとショートメールが入っていた。会社の事務の人間からである。昨日から休んでいた同僚がコロナに感染したため、その隣席にいた人間は本日テレワークをすること。


 吉報であった。スマートフォンを放り投げ、再び布団をかぶる。テレワークとはつまり、休日である。否、現在制作している広報誌の校了日が近く、さぼっている暇などないのではあるが、少なくともあと一、二時間は寝ても問題はない。


 次に目を覚ましたとき、あろうことか時刻は十二時を回っていた。ショートメールには、上司から連絡が入っていた。あの仕事、どうなっている?


「今、やっています。後ほど送ります」と適当に返事をし、スマートフォンを布団に投げつけ、カーテンを開ける。雪が積もっており、今も降り続いていた。窓は結露しており、内外の気温差が極端であることは明白であった。こんな日に限ってテレワーク。ナイス、コロナ野郎。


 冷蔵庫を開け、朝食代わりの野菜ジュースのストックがないことを確認し、上着を着た。寒いが仕方がない。コンビニはまでは徒歩一分とかからない。


 ちょっとの時間であれば、部屋にカギはかけない。仮に空き巣に入られても、奪われて困る金目のものなどない。


 玄関扉を開けようとして、何かにひっかかる。誰だ、こんなところに荷物を置いたバカは。何度か扉を押していると、加わっていた力が一気に解放された。


 ごろん、と擬音が聞こえてきそうに何かが転び、廊下から投げ出され雪に跡をつけた。それが、昨日見た廃人であると気が付くまでに、数秒を要した。スマートフォンを取り出して119番をコールする、そう思ってポケットに手を突っ込むが、ない。先ほど布団に投げつけてきたのだった。諦めて、少女の腕を手に取る。手首の付け根から、少し左。トクン、トクンと、脈拍が確認できた。生きている。少なくとも、扉を開けた衝撃によって少女が死んだわけではないことが確定した。そうであれば、今度こそ119番通報だ。少女の手を置き、スマートフォンを取りに部屋に戻ろうとして、やめた。


 少々、状況が面倒ではないか。明らかに、虐待を受けているか、何らかの事件に巻き込まれている少女。そして、平日昼間に家にいる、寝間着姿にボサボサ頭の浮浪者のような成人男性。度重なる残業により部屋には未洗濯の服が蓄積しており、切らした電球はそのまま放置しているため、玄関に光りは灯らない。警察署で何らかの事情聴取を受けることは確定的であり、そうすると仕事が間に合わない。


 数秒の思考の後、少女を抱えて部屋に連れ込み、随分と長い間シーツを洗濯していないベッドに寝かせ、布団をかける。そして、大逸れた犯罪行為をしたことを忘れるために、溜まっていた仕事に没頭した。

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感受性の獲得に並々ならぬ努力を要する側の人種 夏坂 @Umur

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