感受性の獲得に並々ならぬ努力を要する側の人種
夏坂
プロローグ
昔から、感受性の乏しい人間であった。自分の活躍が原動力となり、部活で勝利したときは補欠のメンバーよりも喜ばず、実家で飼っていた犬が死んだときは、震えた声で電話をしてくる母親のことを疎ましく思った。就職活動で落選通知を受け取ったとき、その事実に対して何の感想も抱かなかった。
何か、そうなるきっかけがあったのかといえば、そうではない。むしろ、何もなかった。人は生まれたとき、皆感受性が豊かだというが、その主張には懐疑的な立場を取らざるを得ない。人は生まれたとき、何の感受性など持たず、それは後天的に獲得していくものである。むろん、学力や運動能力、容姿といった先天的にある程度行く末が決定している項目と共通して、生まれながらに、将来的に豊かな感受性を獲得するか、そうでないか決まっている部分もある。
そういう意味では、素質がなかったことは明白である。同時に、後天的にそれを獲得する機会にも恵まれなかった。ただ、機会の有無が、最終的な結果にどれだけ影響を及ぼしたかはわからない。感受性が豊かだとされる人間と同じ人生を歩んでも、まったく感受性が成長しなかった可能性はある。つまり、もともと持つ素質がゼロであれば、そこにどんな乗数が加わろうと、変化はない。
こうして、自身の感受性という項目に客観的な評価を下そうと思考を巡らせるようになったのは最近のことである。そもそも自分は、感受性などというあいまいな言葉で人格を評価するなどということが嫌いであった。尺度には万人が共通して理解できる客観的なものを用いるべきであるという、どちらかというと科学的な思考に立脚していた。しかし、結局のところ、時間の経過とともに思考は鈍化し、そうした曖昧な判断基準を引っ張りだしてこなければ、何かについて語ることさえもできなくなってしまった。
人の痛みに気づかない、わけではない。幸か不幸か、アスペルガー症候群ではないようで、目の前の人間がどういった感情をしているのか、ある程度の方向性を理解することはできる。しかし、その感情の「深度」を、自らに置き換えて想像することを、心のどこかで頑なに拒んできた。最初は積極的な拒否だったかもしれないそれは次第に習慣となり、今では無意識のうちに、否意識的にそれを望んだとしても叶わないほどに、自分の確固たる性癖として確立してしまっている。
これまで二十と数年、獲得することができなかった感受性を獲得することは、今後、おそらく叶わない。
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