邦での16年

風のPOOH・新HN

第1話


【本題】

------------------------------------------------------------------------------

邦での16年

スナック「邦」を中心に廻った40歳~50歳前後の16年(1979年~(1988.5~1990.3名古屋駅前支店)~1995年)& N・Iさんと60歳迄の7年(1996年~2003年)

--------------------------------------------------------------------

伝説のスナック「邦」がなくなって何年でしょうか。

邦ママが50歳代に若くして他界は、今から丁度23年前の秋・2000年10月23日でした。

お店を止めて4~5年経っていました。

私が毎日のように通い始めたのは、今から40年以上前(働き盛りの40歳前)からという事になります。

スナック「邦」(以下邦と言う)それとスナック「道」(以下道と言う)その他を舞台にした面白いお話を、順を追って記述する事にします。

全部の話はノンフィクションです。

まず邦との切掛けから話します。

44年前、36歳の時、一見の客で入店しました。

ママは無愛想そのものでした。

変な店だな、会員制の店なのかと最初は思いました。

後で聞くとママは初めて顔合わせする客にはこうして警戒するのだ、だから私に対してもそうしたと。

武蔵境駅は2009年・14年前に高架になって、邦に通っていたあの頃とは様変わりしています。

あの頃は三鷹側、立川側と開かずの踏切がありました。

今は改札が2ヶ所(メイン改札が三鷹側、サブ改札が2013年・立川側)に出来て、それは便利になりました。

当時は、三鷹側にしかありませんでした。

電車1両目で下りるとホームを戻って、三鷹側改札を出てまた南口線路わきの道を歩いて、7~8分要して小金井寄り踏切近くの邦に辿り着いたのです。

そのまま線路を下りて踏切に出てズルすれば、邦の店には1分で着きます。

東京で飲んでうっかり1両目に乗ってしまい、酒の勢いに任せてズルした事が何回かあります。

駅員にこら~と怒られ、逃げます。

大丈夫です、駅員は改札下階段辺り(8~9両目)のホームから追いかけるのですから、捕まる筈ありません。

★明美ちゃん絡み5話

-----------------------------------------------------

①邦で一番の思い出は明美ちゃんです。

ママの次姉(ちいねい)の娘がアルバイトしていました。

彼女が18歳から数年の間です。

よく飲みに連れ出しました。

休日には邦のママも誘って、いろんなところにハイキングや旅行もしました。

ママとは結局何もありませんでした。

お互い酔っぱらってもつれて、ママの陰毛触った位が関の山でした。

--------------------------------------

②明美ちゃんの成人式

彼女が今50歳代の後半として、35年以上前の話です。

浜田山のとんかつ屋・かつ新(母親の店)でおめかしした彼女を連れ出し、遊び惚けて最後新宿西武プリンスにお泊りしてしまいました。

彼女は興味津々でしたが、じっと堪えて悪さんはしませんでした。

そのまま朝別れて彼女は自宅に、私は出社でした。

電話が彼女から掛かって来ました。

母親がかんかんで、夕方浜田山の喫茶店に二人して呼び出されました。

スミマセンの一点張りで、窮地を逃れたのを思い出します。

それ以後は、連れ出すのはやめにしました。

彼女はそれでも妻子持ちの私に未練があったようで、当社の近くに勤めたりしていました。

-------------------------------

③余談ですが、会社入って数年の独身の頃、幼友達の女性と宇佐美山荘に行った事があります。

彼女と関係結べば責任(結婚)取らなくてはいけないとの生真面目さから、手を出しませんでした。

明美ちゃんの時もそうですが、やばい女性(責任負うような)は本能的に回避する術は昔から心得ていたように思います。

----------------------------------------------------------

④39年前・1泊(1984.2.25~26)で、絹子さん(大姉・邦ママの1年前他界)、邦ママ、それと友達M君の会社OL(小谷さん)と4人、熱海ゴルフでプレーした事がありました。

車で待っていた時、3人が出て来ました。

何かおかしい。

着膨れしていたのです。

ゴルフ場浴室のバスタオルが上等なので、下に巻いて来てしまったのでした。

その後邦に寄りましたが、明美ちゃんの小谷さんを見つめる視線の刺々しい事、それに懲りて小谷さんを誘わなくなりました。

---------------------------------------------

⑤ママと明美ちゃんそれと玉川ちゃんの4人で、石打にスキーに行ったのも忘れません。

(今から39年前、私が41歳の時、1984(S59).2.14~17の3泊(うち車中1泊)4日)

行き帰りの列車それと宿では、酒浸りでした。

宿のスナックで飲んだ時、玉川ちゃんの財布が従業員に盗まれ、主人に突き出した事等が懐かしく思い出されます。

帰りの列車では明美ちゃんに、酒臭いので傍に寄らないでよと散々でした。

明美ちゃんは今、両親(父は後夫)共々結婚した相手の故郷(浜松)に移り住んでいます。

★邦に通う前の純愛2題(青春の淡き挫折)

----------------------------------

① 今から60年前、大学1年生から京都支店転勤迄の7年間(1962.4~1969.4)

女っけの無かった高校時代&1浪時代と違い、大学時代は一気に華やかになりました。

華道会に入部したからです。

新入部員歓迎会で埼玉の鎌形湖に行ったのは、先輩2人と私とT・Aさんの4人でした。

Tさんとの付き合いの始まりでした。

長い付き合い(7年間)でした。

自分は恋愛感情ありながらスタンスは、友達の位置づけでした。

あれは京都支店転勤の日、54年前の話です。

東京駅での見送りに、Tさんが来て呉れました。

友達が言いました。

吉井さん、Tさんの胸のコサージュは愛の印ですよ。

半月後帰京した時、Tさんに告白をしました。

Tさんの返事。

7年間低空飛行(友達)して一気に告白は駄目です。

愛はお互いに少しずつ高め合うものだと。

空しく散りました。

この7年の間に、塾監局の女性H・Yさんと付き合った時期がありました。

彼女は野球部のマスコットガールでした。

先輩と4名縁結びの出雲大社の旅に、行った事もありました。

先輩2人は結ばれましたが、私はTさんへの未練もあり駄目でした。

余談ですが、Yさんは私の1年後輩K・T君とその後結ばれました。

-------------------------------

② 今から54年前、京都支店在勤(1969.4.1~1972.9.30)中の苦き思い出

現在もごく親しく付き合っている大学クラブ1年先輩のS氏が、私と同じ時期、偶然C公庫京都支店勤務中でした。

T・Aさんに振られ淋しかろうと、支店の女の子T・Nさんを紹介して呉れました。

付き合っていた時期は、1969.5~12の半年でした。

デートを重ね、半年後(1969.11)四条大宮のお宅に呼ばれ、歓待されました。

てっきり結婚迄辿り着けるかと思っていた矢先、12月に入って彼女から思わぬ衝撃の言葉によって破局しました。

彼女の言葉「あなたと付き合っていても“チカチカ・テカテカ“しない」と。

何で振られたのか、両親もあんなに歓待して呉れたのに。

何年も思い悩み得た結論です。

両親のどちらか、多分父親の方から駄目だしがあったのでは。

☆だいぶ前置きが長くなりました。

★邦に纏わる話その他14題

---------------------------

①松川さん(松っちゃん)

新宿歌舞伎町を中心にパチスロを経営する会社の幹部で、売上金回収してから、邦にはいつも23時過ぎに来ていました。

ある時アタッシュケースを開け、中の万円札を全部撒いた事があります。

皆は貰えるのかと思い、酒を飲むのも忘れ必死に拾いました。

結局回収させられる羽目になりましたが、1000万円は入っていたのではないでしょうか。

彼が急に1年位、行方不明(邦に現れない)になった。

現れた時に聞いて見たら、不法賭博幇助で1年実刑を喰い、臭い飯を食っていたと。

-------------------------

②武蔵境北口駅前のラーメン屋のアンちゃん

彼は深夜営業の前に、邦に寄って飲んでから仕事でした。

都っぽい話をする彼とは、気が合いました。

深夜彼の店に寄った時、彼の作ったラーメンを食べましたが美味かったです。

その彼が私にそっと、打ち明けるのです。

深夜アベックが、いちゃついてうちの店に来ているのを見ると、むかつく。

男が厨房の俺に偉そうに「ラーメン2杯早く作れ、これから行くンで腹に入れなくては」

頭来たので、両方のラーメンにツバと鼻くそ入れてやったと。

その彼も松っちゃんと同じで、1年ばかし邦に来るのが途切れた事があった。

忘れそうになった1年後、邦に来ました。

「どうしてたんだよ」

私が問うと頭をかきかき、喧嘩をして1年臭い飯食ってきたと。

久し振りなのでもう1軒道に行きました。

ここで彼は言いました。

これから、俺の事を心配して呉れている兄貴の所に挨拶に行きたいので、私に一緒に行って呉れないかと。

気軽に良いよと。

下連雀通り沿いのセブンイレブンで、兄貴に何かお土産を買って来ると言って、私をタクシーに待たせ買いに入った。

なかなか戻って来ないので、どうしているだろうと訝ってセブンイレブン店内に入った。

何と、オートバイの若い男(身長が彼の1.3倍位)に食ってかかっているのです。

止めに入りました。

「何をしているのだ」

「兄貴(私の事)、こいつね本を無断で読んでいるよ」「買わない癖に」

私は言いました。

「おう、若いの、こいつはね、昨日務所から出て来たばかりで気が立っているから注意した方が良いよ」

若いのはこそこそ頭掻き掻き逃げて行きました。

「おう早く行こうよ」私はせきたて、またタクシーに乗り込み、兄貴の住んでいるアパートを訪ねました。

兄貴の部屋は、着流しが掛ってある位で、至って質素な生活振りが伺えました。

「おい連絡もなしに何処に行っていたのかよ」と兄貴は温かく迎え入れました。

彼は昔の羽振りを思い出したか落涙して、ふっと立ってどこかに行きました。

私と兄貴はてっきりトイレかと思っていたら、大声で喚く奴が居ます。

あ、彼だと直ぐ分かりました。

いつの間にか庖丁を持ち出し、廊下でアパートの住人に兄貴を馬鹿にするなと、叫んでいるのです。

「偉い兄貴だからな」と。

暫くするとパトカーが来ました。

拡声器で「庖丁を放しなさい」

「おとなしく出て来なさい」

彼は部屋に戻り「兄貴助けて」と。

素早く兄貴は彼を押し入れに匿います。

警官隊はすぐに兄貴の部屋のドアを叩きます。

「開けなさい、彼を出しなさい」

兄貴はかなり興奮して「入るな、入ったら不法侵入だぞ」

結局兄貴の抵抗もむなしく彼は直ぐにお縄となり、兄貴とはまた涙の別れとなりました。

兄貴は、パトカーの後部から顔を必死に向け「助けて」と叫びながら三鷹警察に走り去る後ろ姿を、悄然と見送った次第です。

兄貴は地元では有名なヤクザの親分、彼への事情聴取は興奮している事もあり、警察は無理と判断です。

その代わり、その場に居た素人(ネクタイ背広姿の)の私にここに至る迄の経緯を事情聴取したいのでお手数ですが署迄お越し願えませんかと。

私は快諾して事情聴取に応じました。

帰宅したのは朝になっていました。

そのまま一睡もせず、出勤した次第です。

結局彼は仮出所の身であったので、そのまま釈放されずにまた刑務所に逆戻りでした。

それ以後の付き合いはありません。

アパートを沢山のパトカーが包囲し騒然となった風景、何か映画の1シーンを見ているようで、今でも不思議な気持ちが消えません。

彼は人も切りつけていないし、自分で自分に怒ってうちの親分が今落ちぶれていると思って、馬鹿にするなと叫んだだけだったのです。

------------------------------------------------

③ 根本勝男(かっちゃん)

かっちゃんは1999年夏に他界ですから、今年夏で25年になります。

長く勤めていた府中代書屋(自動車試験場の隣り)を首になり、ぶらぶらしていた。

免許センター内に交通安全協会が入り、写真撮影から申請書、印紙貼り・・申請に関するすべてを担当するようになってしまったのです。

道路交通法改正で免許証の更新が3→5年になりました。

これ等が代書屋の死命を制しました。

紹介があって勤めた、建築屋作業現場初日の真夏日にぶっ倒れました。

救急車が来る迄の処置が逆だった。

冷やさなくてはいけないのに、表面温度が冷たくなっていたので温めてしまったのです。

享年57歳あっけない命でした。

北海道から一家で出て来た彼は男義のある、愛すべき人物でした。

いつも邦に酔っぱらって、来ていました。

代書屋の仕事は、朝早く昼過ぎに終ります。

夕方3時位から邦近くの喫茶店でまず、麦酒1本飲んで居酒屋が開くのを待ちます。

更に邦が6時にオープンするので、口あけに移動して来ます。

丸椅子のカウンター右隅が彼の指定席、水割り1~2杯飲んで私と暫し30分位話したかと思ったら、うつ伏せになって爆睡です。

11時閉店でママが「かっちゃん帰るよ」と起こして初めて目が覚めます。

私の顔を見て時計を見て「もう5時間経っちゃった」「今日もひまだったな」

「毎度」と1000円置いて帰りました。

かっちゃんは途中の4時間半、お客が入れ換わり立ち替わり出入りして繁盛していた間、寝ているのが常で、状況把握していませんでした。

そんなかっちゃんに助けられた話です。

南口駅前に禅宗のお寺があります。

その斜向かいの道を10m位入った左側に2F建てのアパートがあり、その道路沿いの1Fが居酒屋(古伊万里)でした。

ここのマスターは佐賀県伊万里出身、あの世界的作曲家坂本龍一のおじさんです。

結構雰囲気があり、リピーターが寄るお店でした。

2階がアパートになっているので、店の構造からしてカラオケとか携帯とか大声は厳禁です。

壁に古伊万里の破片とか古時計とか飾ってあり、アンティ-クな雰囲気が漂っておりました。

そこによく来る中年の女性と仲良くなりました。

一回彼女のアパートに誘われ、関係を持ちました。

どうせお互い子持ち、高をくくっていました。

(相手の男性とは別居みたいで、我が家の裏にあったゴルフ練習場近くのアパートに、一人住んでいました)

私が新内始めた頃(1990年(H2)10月スタート)ですから、もう30年以上前になるでしょうか。

結局その女性とは、なんとなく別れた積りでいました。

半年位経って古伊万里に行くと、どうも雰囲気がおかしい。

マスターも、戸惑っている。

見ると、彼女が居たのです。

早く離店すれば良かったのですが、中途半端になりそこのお客さんに因縁(多分彼女が告げ口したのかと思います)付けられ、外で思い切り背負い投げを食ったのです。

悔しさに、あ、そうだ。

かっちゃんが邦で寝ている筈だと携帯でSOSを送った。

邦と古伊万里は近いですので、直ぐに押っ取り刀で駆けつけて呉れました。

かっちゃんは、両方の言い分を聞いて呉れました。

言った言葉が奮っていました。

「よく分かった」「吉井お前が悪い」「ただ食いは良くない」「ま、終ったものはしゃあない」

「でもなお前(相手)、俺と吉井は刎頸の友だ」「あまりこの辺り詳しくなかったら、偉い面はしない方がお前の矯めだぞ」

その後私を背負い投げした男は、若くして死んだと風の便りに聞きました。

------------------------------

④野呂さん

実姉が近くでバーを経営していたので、邦は台風の目、超安全なスナックでした。

いつも邦ではにこにこと飲んでいました。

いつか私が横に居て肩が触れたか、野呂さんの左手を触ってしまいました。

「痛いじゃないか」と怒りました。

「済みません」、見ると左小指が包帯巻いてあるではありませんか。

「野呂さんどうしたんですか。」

女で不始末して親分(にびき組)に詫びを入れ、小指を切って来たばかしだったのです。

野呂さんは女好きで、前に右小指も切っていました。

面白い先輩でした。

(野呂さんは武2中の3年先輩、1980年に直木賞を受賞した志茂田景樹の同級生です)

娘にお父さんの仕事は何と?聞かれ、「おとうさんはね[ザスター(ヤクザ)]なんだよ」と。

      ----------------------------

志茂田先生は、徳間書房出版で、文庫本それもヤクザものを出版しています。

ヤクザ世界うんぬんについて、野呂さんの協力があったようです。

野呂さんは、新宿が拠点の尾津組の流れを汲む、中央線沿線を仕切るやくざ連合(にびき会)の幹部でした。

全日本飯島連合会・飯島一家小倉二代目が尾津喜之助でした。

彼は戦後の新宿の闇市を仕切り、1945年に新宿マーケットを開店、闇市の価格上昇を抑制し適正価格を設けた。

1957年には、傘下組織の武田組(武田一郎組長)と安藤組が抗争事件を起こしたりした。

尾津は、全日本飯島連合会の会長も勤めていた。

日本経済の復興により闇市は衰退し、関東尾津組は解散に至った。

余談ですが家内は尾津の娘と幼友達でした。

      ------------------------------

☆野呂さんで、面白かった事

ある日邦に偉い威勢の良いサラリーマン風の2人が、1見の客で入って来ました。

奥の4人掛けBOX席に座って、やくざっぽい言葉を使っていました。

好きなだけ話させてカウンター席の端っこで“ちびちび”やっていた野呂さんが、おもむろに奥の彼等の席に横座りしました。

「おいアンちゃん達、ずいぶん勢が良いじゃないか」

「俺はこの辺りを仕切っている“にびき”の野呂って言う者だが知っているか」

と“くるっと”後ろ向きになって上着をたくし上げた。

粋がっていた2人はすごすご勘定払って退散しました。

野呂さんの俱利伽羅紋紋は“傍目ひょっと子”でした。

「野呂さん何故龍とか虎とかにしなかったのですか」とからかうと、「うるせ~、知るか」とすかされました。

や~さんの幹部は大人ですが、下端が空威張りして逆に怖いのです。

両小指が無いのは珍しい幹部、それだけ根はお人よしなのかも。

10年前鬼籍に入りました。

---------------------------

⑤アリババのママ

邦で飲んでいた時・たまに行く店スナック「アリババ」のママが、慌てて店内に飛び込んで来て叫びました。

「邦のママ、お願い匿って」

事情の分からない邦ママでしたが、トイレの奥の3畳間に匿いました。

数分して警官が入って来ました。

「この店に入ったのは分かっている」「出て来なさい」

結局アリババママはお縄でした。

お店の手前で検問があり、車を捨てて逃げて来たのです。

酒酔い運転でした。

邦ママも宝塚調、アリババママはもっとそうでした。

そんな雰囲気をお互い感じていたのか、近所のライバル店同士ですが気の合う二人でした。

アリババママの歌は絶品でした。

それとカントリー大好きでした。

所有ビルディング1階奥がお店でした。

いつもミスター・ミセスウェスタン、ジョンウェインみたいな格好の連中の溜まり場になっていました。

-------------------------------

⑥雨漏りの話

私が夕方早くから1人飲んでいたら、急に雨が降って来ました。

しょうがなしに、傘を差して飲みました。

雨降りの理由はこうです。

2Fに下宿の学生が酔っぱらって、風呂が溢れているのに気が付かず、熟睡してしまったのです。

床を伝わって天井から、大量に漏れて来ました。

仕方なしにおさまる迄、傘を差して飲んでいました。

外を通る通行人が、首を傾げていました。

外は降ってないのに、何故店内で傘を差しているのか、皆不思議そうに通過して行きました。

-------------------------

⑦あきらさん

1992年というと31年前、当時は不動産売り買いがまだ活発だった頃、バブルの終焉期にあきらさんと邦で出会いました。

      -------------------------------

1986年(S61)以降の土地や株が高騰した時期の経済をバブルと呼ぶが、1990年(H2)以降、地価、株価は急落してバブルは崩壊した。

当時不動産部次長に、ふくちゃんという怪物が居ました。

当社(中央信託銀行)本店の顧問弁護士(飯塚さん)の紹介で、栃木の高校を出て途中入社したというが、未だに謎の人物です。

時の不動産部長、ケースによっては社長を上回る権力を、手にした大物でした。

その彼が都心一等地の土地の転がしに辣腕を振るっていて、彼の黄金期2年の当社への寄与は、収益の半分を占めていました。

彼は自分で運転手を私的に抱え、ロールスロイスで出勤していました。

銀行の次長がフランスにお城を買っていると、フライディーに取り上げられました。

彼がマスコミに叩かれたのは、バブルが頂点に達する前でした。

結局栄耀栄華は続かず、所得税法違反で逮捕、彼の末路は糖尿病悪化による早死でした。

当社は彼のお陰?で、頂点寸前に手を引けた次第です。

その逆、行け行けどんどんだったのが、三井信託でした。

2000年4月当社は、経営悪化した三井信託を吸収合併しました。

         ----------------------------------

彼あきらさんは、私より1廻り年長です。

地上げ大手の下で働く、1匹狼・不動産やでした。

口がうまいので、結構仲介で大金を稼いでいました。

手数料100万稼ぎ、1晩で新宿のキャバレーで大盤振る舞いをしたと自慢していました。

彼は邦に来る時は、いつも若いいい女を侍らせていました。

不思議に思ったので、彼がたまたま一人で入店した時に聞いて見ました。

「吉井ちゃん簡単よ、不動産と一緒で千に三つよ」

つまり彼の場合恥ずかしさも何もなく、手当たり次第、次から次へと若い子に「○○やろうよ、一緒にホテル行こうよ」と声かけるのだそうです。

そうは言っても、私は最高学府を出たエリート?です。

見栄もあるので、例え手当たり次第声をかけ続けたとしても、20人位連続断られればもう続ける気にはならないでしょう。

彼は、小股の切れ上がったイイ女がやっている、小料理屋を探す名人でした。

キリ大へ行く途中に飲み屋、寿司や等がかたまってある1角があって、その一番奥の店に連れて行って貰いました。

目鼻立ちのしっかりした、美人ママさんでした。

(旦那と結婚する前は、三越に勤めていたそうです)

ご主人は葬儀屋で、いつも店終わる頃迎えに来ていました。

彼等の家は東久留米でしたので、私の家を通って帰るのが常でした。

ボックスカーになっていて、後部座席は取ってあってがん箱の上に私は座って帰りました。

時々迎えに来ない事もありました。

(多分愛人が居て、しこしこやっている事もあったのでしょう)

そんな時は彼女を誘い、飲んで帰る機会もありました。

ある時遅くなって、彼女を自宅迄送り届ける途中、身を摺り寄せて来たので、ラブホテルに行きました。

間の悪いとはこの事でしょう。

彼女の高ぶっている間に寄った2軒共に満室で、千載一遇のチャンスを逃しました。

逃がした魚は大きかった。

----------------------

⑧小林チャラ

小林君のお父さんは植木屋でした。

父も良く頼んだ腕のいい職人さんでした。

若くして離婚、本当は親の商売(植木屋)を継ぐ筈がやくざな道に走ってしまいました。

邦に出入りする男に、佐竹という建築関係の下請けの下請けをやっている男が居ました。

チャラは彼の手下(配下)になっていました。

佐竹は建築と言っても、人を集めて下請けに送り、手数料を稼ぐのが仕事でした。

邦に佐竹がチャラを連れて来て初めて、彼の生活の“めちゃくちゃぶり”が分かりました。

佐竹が言うには、二日酔いで無断欠勤する事がしょっちゅうだと。

前借請求もしばしばだと。

その日もチャラは大荒れで、入口ドアのガラスを、座っていたマル椅子で打ち割るは大暴れでした。

同じ幼な友達でも、私やかっちゃんとは大違いでした。

その後何年かして、肝硬変かなにかで若死にしました。

----------------------------

⑨銀寿司

邦の近くに面白い寿司やが、ありました。

養子の彼はアイデアマンでした。

・巻きずしを大学名にした

(早稲田巻き、東女巻き、キリ大巻き、成蹊巻き、慶應巻き、あ・じゃパー巻き、獣医巻き、日赤巻き、等々)

もう忘れてしまいましたが、それぞれ意味がありました。

早稲田巻きだけは覚えています。

・いくら経っても芋、明日から頑張ろう

・イクラと山芋とアスパラが具でした

2Fで月1回お見合いパーティーを、開催していました。

私は絶対輪に入れて呉れませんでした。

私の息子と同じ年の長男が居ます。

私の息子は武蔵野美大ですが、彼の息子は立教大(中退)でした。

変わった子でした。

親が溺愛したのか、20歳まだ学生のうちに店を譲ってしまいました。

それは良いのですが変に自信を持ってしまい、父親に立て突くようになりました。

暴力を振るわれ両親は難を逃れ、一時行方不明になりました。

10年位して突然電話がありました。

三鷹北口でお店を開いたと。

私も一生懸命応援して、結構繁盛していました。

奥さんの親の面倒を見なくてはならないという事で、残念ながら5~6年営業して、閉店してしまいました。

武蔵境のお店はその後息子が辞めてぶらぶらしていたので、洋風会員制居酒屋「ぱんだ」に貸しました。

現在も繁盛しており、その賃料がかなり入って来ますので商売をしなくても万全です。

銀ちゃんは現在癌と宣告され、余命数年と言われております。

息子とはこんな事もありました。

彼がマスターで居た頃の話です。

女性が入って来ました。

結構飲んで息子と彼女と私の3人気が合って店を閉めてから、もう1軒飲んでからタクシーで彼女の家へ送って行きました。

彼女が結構ご機嫌になって、家で一杯飲まないかとの話になり上がり込みました。

息子は、ある時間になると魚河岸に仕入れに行かなくてはと、先に帰ってしまいました。

このチャンスを逃す手はないと、彼女を食べました。

彼女は独身・私の中学後輩・ジャズ歌手でした。

-------------------------

⑩2合半

前述③のかっちゃんのところで述べた古伊万里も、雰囲気のある店でしたが、この2合半という居酒屋は、さらに一風変わった店でした。

線路と平行して「ぱんだ」の道を小金井方向に歩き、途中から左折します。

住宅街に入りキリ大方面へのバス道路に出る手前左側に、ひっそりとそのお店がありました。

女将さんは、大正時代の女みたいに丸髷で、あまり美人ではありません。

旦那が更に変わり者で、お店に入って来るお客の顔色、酒の臭いをかぐのです。

つまり、自分の店が1軒目でないとお断りなのです。

それと旦那を無視して二人だけで私語は、厳禁と変な店なのです。

1人で3~4回通って、夫婦と顔見知りになった所で、花小金井在の会社後輩(今年死去)と一緒に口あけで入りました。

親しい仲なので、小さい声でひそひそですが、話が弾んでしまいました。

カウンター内の小上がりに座って、お銚子やつまみを出していた主人は面白くなかったのでしょうね。

その時は何も言われませんでした。

その1週間後邦が少し混んでいたので、2合半で時間調整して行こうと、1人暖簾を潜りました。

旦那は?と奥さんに問うと、ちょっと急用が出来て出掛けていると。

最初ママさんと二人で歓談しながら、酒飲んでいました。

途中でアベックが二組入って来て、少し華やかな雰囲気になりだした所で旦那が登場、おもむろに私を指さし、当店の雰囲気に合わない客だから、帰って呉れだって。

アベックも事情が分からないので、目をキョトキョト。

何でなんだと問うと、前回来た時は、2人でだべってばかり居て、腹が立っていたと。

そんならその場で指摘・注意すればよいものを。

私も他の客の手前、もう1時間以上飲んでいてのこのセリフ、頭来て啖呵を切りました。

「お前の店はお客の顔色を窺い、判断するのか」

「いつも向いのやくざ(安西と言って野呂さんのダチ公)が、べろべろで酔っぱらって入って来ても、文句一つ言わず揉手して、“オベンチャラ”ばかり言っているじゃないか」

もう来ないから、ありったけの罵詈雑言を言ってやりました。

「お前は偽店主だ」

「やくざに弱く堅気に高飛車、強気を助け弱気を挫く、けちな野郎じゃないか」

「もう2度と来ないからな」と。

それから5年位は商売していたでしょうか。

結構馴染み客とか、漫画家とか来ていて、ガラガラという事はない店でした。

前述の安西は碌な野郎ではありません。

同級生なのか、野呂さんお姉さんのバーで引っ掛けたのか、は分かりません。

車で来ていた彼女(野呂さんお姉さんの友達)を連れて、邦にも飲みに来ました。

その後、酔っぱらっている安西よせば良いのに、彼女の車を運転、キリ大の方へ左折しないでそのまま突っ込み、同乗の彼女を殺してしまったのです。

当然服役でしたが、たった1年で出所して来ました。

彼女は殺され損でした。

-------------------------

⑪志茂田景樹

筑波大のエリート玉川ちゃんは今どうしてるかな。

その当時彼は講談社の営業でした。

1980年に直木賞受賞したばかりの志茂田景樹氏を邦に連れて来ては一緒に唄ったものです。

志茂田・玉川・吉井の超音痴が、お客を圧倒したのが懐かしい

志茂田氏とは、後年杉並に住む岳友小舘氏を通じた会で再会しております。

今は童話作家に変身です。

私の家からそんなに遠くない武蔵境北口に住んでいます。

----------------------------

⑫岡ちゃんと佐竹

24年前に死んだかっちゃん、昨年他界の豆腐屋岡ちゃん(豆腐屋の後は奥さんがスナックを経営)と佐竹は3人組で仲が良かった。

☆岡ちゃんが運転手をしていた時の話

まだそんなに年を食っていない男を、武蔵境の自宅から時々市ヶ谷の日本棋院に送る事が、ありました。

若い癖にと思っていたそうで、あのレジェンド小林光一とは知らなかったとは、とんだぼんくらでした。

女とラブホテルに行きタクシー代支払いの段になって、岡ちゃんだと気が付いたお粗末の経験も一度だけありました。

☆佐竹とかぶった女二人の話

佐竹は3人の中で1番若く手配の親方をやっているので、口も巧く女性に持てていました。

彼の彼女2人とかぶっていた時期がありました。

1人は、今も地元でスナックをやっている元美容師(るみちゃん)です。

邦で飲んで意気投合、数軒梯子して彼女のアパートに転がり込んで食べました。

しかし余韻に浸る間もなく、佐竹が来るかも知れないから早く帰って・帰って、と追い出されました。

もう1人は、東小金井近くの団地に住む、未亡人Tさんでした。

地元の居酒屋で偶然会い気があって旅荘に行ったり、ゴルフをしたりして親密な仲でしたが、そんな長い付き合いではありませんでした。

30年前の秋(1993.11.10~11)佐竹・Tさん・邦ママ・それに私の4人で追分山荘に1泊しました。

翌日小諸高原ゴルフ場でプレーしました。

その後彼女は佐竹の彼女になったと、誰かが言ったので面白いものだなと思った次第です。

佐竹の奥さんは日本無線に勤める姉さん女房、良く出来た奥さんで彼を操縦していました。

----------------------------

⑬江藤はるみ

彼女は人妻ですが、好色でした。

岡ちゃんのスナック忘年会に、Kさん(現在86歳、小金井市東町在)が連れて来ました。

二人で意気投合して、吉祥寺ラブホテルに行きました。

先年40歳の若さで他界したそうです。

ご主人は大分の名門で、警視庁の鑑識課勤務と聞きました。

-------------------------------------

⑭それを上回る好色女

かっちゃんが邦に来る前、最初に立ち寄る喫茶店ママの妹よしえですが、病的に男が好きでした。

看板になって、ママは小平に帰るので車を取りに行きました。

店の相鍵はその妹に預けてありました。

何か忘れ物があり店に戻りました。

奥の座敷3畳間からごそごそ音が聞こえるので、覗いて吃驚です。

何とよしえとM電工の若い男H君が、しこしこやっている最中ではありませんか。

邦のママは、裸の二人にこう云いました。

「早く離れて、服来て出て行ってよ」

「ホテルでも旅館でもどこでも良いから、とっとと行ってちょうだい」

「あ~、いやだ、いやだ、臭いを消すのにどれだけ時間がかかる事やら、ここはする所ではないのだからね」

私もその事件の前、彼女と数軒飲んだ事があります。

彼女何だかホテルに行きたそうな感じ(もよおして来たのか)でしたが、私は知らんふりして、別れました。

誰でも良い公衆便所みたいな女では、いくらお面が良くても燃えません。

☆色んな面白い事があった邦での16年でした。

★掃き溜めに鶴

------------------------------------

知り合いのママが吉祥寺でスナック(スクウェア―)を経営していた(1986年(S61)に開店、1996年(H8)に閉店)頃の話。

ママと三鷹駅南口のごちゃごちゃした所で飲み屋を探して、偶然入った店があります。

再開発でその辺り数十軒あった飲み屋は、今は区画整理されてしまいました。

まさに掃溜めに鶴とは、こういう彼女の事を言うのでしょう。

やり手婆の店がほとんどの中で、まさに素人然の雰囲気漂わせ、楚々とした風情の店でした。

コの字のスタンドだけのお店は、いつもサラリーマンネクタイ族で満席でした。

一回店がひけた時に、何を思ったかママさんの方から、飲みに行こうと誘われました。

喜々として、朝迄やっている三鷹電車庫沿いの道に、連れて行きました。

女好きのマスターが、目をパチパチして吃驚していました。

「吉井さんどうしたのよ」「こんな別嬪を連れて」

彼女小声で私に囁きました。

「明日お店に寄っても知らんふりしてね」

「常連のお客さんから誘われても見向きもしてないのだから」

その店に何故鶴が居たかというと、やり手婆(義母)が病気になったのでピンチヒッターで再開発権利確保でした。

(彼女は息子や岩下志麻と同じ都立武蔵(旧府立第13高女)でした)

★艶のある話3題(①が青カン②がN・Iさん③が京都の思い出)

-------------------------------------

①青カンの話

40年以上前、まだ30歳代のしごろやりごろの時代、体力がありました。

青カンの話の前に、切掛けとなった道の説明です。

武蔵境駅と三鷹駅の中間付近は、普通の住宅ばかりです。

一元のお客は絶対に来ない道だけが、夜中になると煌々と灯りが点きました。

ここら付近は、三鷹電車庫(電車の大きな基地)があり暗い所です。

        ----------------------------------

戦後間なし(1949(S24)7.15)に、突然夜中電車庫の電車が暴走・三鷹南口ホームを突き抜け玉川上水近くの民家(本屋他)に飛び込み、寝ていた住人6名轢死20名負傷という大事件(三鷹事件)がありました。

被疑者竹内が逮捕され結局最高裁迄争ったものの却下、死刑執行される前に獄死しました。

        -----------------------------------

お客をあしらって帰らせ、自分は憂さを晴らしに夜中12時~1時タクシーを飛ばして来るスナックママ・クラブのママで道は、一気に華やかになり活況を呈します。

私は昔からマスターと懇意でした。

喫茶店上がりのやり手のマスターはケチでした。

奥さんがやはりカウンターの中に居ましたが、上品で落ち着いたママでした。

ところがこれが曲者、陰で旦那(マスター)を手玉に取っていました。

道にはタクシーの運ちゃんが、結構立ち寄っていました。

------------------------

☆運ちゃんに纏わる面白い話

年増マダムを乗せた時の話です。

車内でやりたいと言うので快諾、前技を楽しもうとゆっくりと、1枚1枚剥がしました。

冬場です。

いくら剥がしても、裸体が現れません。

疲れ切って、ギブアップしたと。

------------------------

☆前置きが、長くなりました。

やっと青カンの話です。

一人の若い女が、カウンターにうつ伏せになっていました。

道のマスターが、私に目配せです。

分かりました。

私に「やれ」と云う、前からの打合せサインでした。

彼女は酔っぱらっているので、呼んだタクシーに乗せるのに一苦労でしたが、やっと発射、いや発車しました。

ラブホテルに着くまでの間、彼女は私に抱きつきキッスの嵐です。

やっとホテルに、到着しました。

これからが肝心です。

彼女の手はたこ入道か、吸盤があるのか降ろそうとしても右手を離したら、今度は左手がタクシーのドアを持って、なかなかラチがあきません。

ホテルの従業員も出て来て、運転手と私と3人がかりでホテルの中に連れ込もうとしましたが駄目、結局諦めました。

この女は吸盤女かと激怒しましたが、仕方ありません。

東小金井駅付近のセブンイレブン近くの家と言っていたので、運転手さんにそこ迄送って貰いました。

セブンイレブン前で二人降りました。

もう零時を過ぎ、人気はありません。

彼女は急に尿意を催したらしく、コンビニの向いの桑畑に入り込みしゃがみ込みました。

私は、終わるのを待っていました。

彼女がカムカムと言ったので、やりたいのかと嬉しくなって茂みに飛び込みました。

いやなんの、カム(来い)ではなく紙だったのです。

紙なんぞなく私のハンカチは勿体ないので、手で陰部を拭いてやりました。

彼女がひこひこと腰を振るではありませんか。

手であそこを撫でてやったので、興奮して私に抱きついて「してして」と小さな掠れた興奮した声で舌を私の口に絡ませて来たのです。

私は一気にズボンを脱いで、下半身丸出しで興奮して立った棒を一気に濡れた花弁に押し込みました。

初めて畑でやりましたが、案外ふかふかしているので彼女の腰が下がって不安定でした。

5~6分抜き差しをして、一気に発射しました。

彼女も一緒に出したのが、分かりました。

私のお尻がセブンイレブンの明かりに照らされているのではないかと、それが心配でしたが人が通る気配も無く杞憂でした。

お互い満足して、彼女のアパート迄送ってキッスして別れた次第です。

☆一期一会のセックスでした。

------------------------------

②7年間付き合った別嬪N・Iさん

最初に出会ったのは27年前(1996年(H8))の6月、吉祥寺スナック・スクウェアーでした。

最後に別れたのは20年前(2003年(H15))の6月、宇佐美山荘での1泊2日(6.27~28)でした。

その時彼女56歳、私は60歳でした。

この7年間で月1回強として少なくとも100回はやったでしょうか。

スクウェア―のママは成蹊大学出身、父上は眼科医(井上眼科出身)で成蹊大の嘱託医でもありました。

兄貴は吉祥寺東急横で眼科経営、お姉さんは三鷹で有名な皮膚科(旦那も日赤勤めの医者)、彼女だけが異質でした。

N・Iさんはスクウェア―・ママと成蹊同級生(ママは下から成蹊、N・Iさんはあの有名な桜蔭高校(女子の東大進学率日本一))です。

--------------------

☆彼女を当時山にも連れて行きました。

あれは24年前(1999(H15).5.23)、埼玉の西(東)御荷鉾山に登った時です。

帰り、花園IC近くのラブホテルに入りました。

行為の最中暑いので、気が付きました。

クーラーが壊れていたのです。

支配人に文句言いましたが、今更部屋を替える訳に行きません。

大汗かいて、行為した次第です。

関越道走る度に、このラブホテル横目に見ては思い出します。

------------------------------

☆わが家でやった事も一度ありました。

家内が友達と旅行に行っている間の行為でした。

隣に住んでいる息子が来たような気がしましたが、大丈夫だったです。

☆前置きが長くなりました。

-------------------------------

☆1997(H9).10.19~20ですから26年前、私が54歳の時です。

N・Iさんと日光霧降高原(1689m)に行きました。

10月の中旬で、丁度紅葉が綺麗な季節でした。

牧場経由戻ろうとしたら、草地で彼女が催したので、奥に引っ張っていきました。

上に圧し掛かって1時間ばかしチョメチョメしたら、うっかり時間を食ってしまいました。

この時二人とも、ヘッドランプ持参していなかったのです。

やむなく牧場を下りて、川沿いで野宿しました。

余りにも寒いので裸になって、密着して腰回転を続け、朝迄SEXしました。

離れると寒いからです。

この時はまだまだ若くピンピンの頃でした。

-------------------------

☆当時彼女は、旦那(T海上本社の次長職にありました)と離婚協議中でした。

あと1週間早かったら、危うくハンコ押していた所です。

その旦那が、通勤途上で突然死(労災認定)したのです。

数千万の手切れ金でチョンになるところでした。

それが未亡人になったのです。

死亡退職金、遺族年金、さらには生命保険に沢山入っていましたので数億の金を手にしました。

高井戸の一戸建ちの家は、総合保険で一挙に借金ゼロになりました。

旦那が死亡した後、毎月百万円浪費の生活をするようになりました。

別れてから、20年になります。

あのまま使っていたら、そろそろ心配になります。

ところが別れて数年後、60歳前に薬で不審死していたのです。

余談です。

☆その彼女はもう一人の別嬪(同じ成蹊大学)と、二人吉祥寺のお教室でシャンソン習っていました。

その先生のシャンソンスナックが、吉祥寺南口にありました。

彼女ともう一人の別嬪は、一元のサラリーマン風の男二人と意気投合して、また飲み屋に行って酔っぱらって、ラブホテルに連れ込まれたのです。

朝気が付いた時には男達は既に居ず、パンティとかブルマーとか下着類と、財布の現金が抜き取られていたそうで、挙句には淋病もうつされていました。

彼女の言い草が奮っています。

「あなた、淋病とかAIDS virusは大丈夫でしょうね」

「ちゃんと証明書貰って来てよ」だって。

日本の3大女子高のトップ、水道橋の桜蔭高校を出て成蹊を卒業した、深窓の元令嬢のお言葉ではありません。

☆20年前の宇佐美のチョメチョメを最後に別れて、3年後に不慮の事故死でした。

二股掛け付き合った男から麻薬を勧めらSEXで常用し、服用過多で他界していたのです。

その話をスクウェア―のママから聞いて、絶句したのがつい数年前の事でした。

------------------------------------------

③女と言えば、もう一人忘れない女が居ます。

今から50年以上前の話です。

一人息子は現在51歳・京都桂で誕生しています。

私は1971年1月15日に28歳で一ツ橋・学士会館に於いて挙式披露宴でした。

独身時代最後は京都支店恒例の忘年会、1970年12月30日でした。

その頃は土曜日も営業、年末は大晦日迄営業、お正月は4日から営業開始の時代でした。

その忘年会はいつも支店の2F大部屋で机を並べ、ビール、お寿司、おつまみを幹事が買って来て、支店の仕事が一段落した7時から開始でした。

立食で飲めや、カラオケセットなんぞないから、しきりに食べてはこの1年を振り返って歓談、また飲んでの2時間半でお開き、最後は支店の歌「祇園小唄」で〆ます。

以前から私に色気を示していたと分かっていた、総務の女の子(M・Hさん)が居ます。

彼女にどこか飲みに行こうかと、かまかけたら「行く行く」とすがって来ました。

大丸前でタクシー拾って、一気に建仁寺の近くのラブホテルに行きました。

その間終始私の手を取り、腰に当て唇を私の口に当てて来て、早くしたいというそぶりを見せます。

かなり経験者だなと、気が楽になりました。

彼女は受け口で色気がありますが、美人というわけではありません。

しかし何か男を引きつける魅力を感じます。

セックスして吃驚しました。

彼女のあそこは極上でした。

私の棒に絡んで来るのです。

こんなのは初めてでした。

まさにたこ吸盤という表現が適切でした。

彼女とセックスの抜き差しの度に彼女は唇を絡ませて来るので、相当のテクニシャンと思いました。

痛いほどしまるので、気持ちが良い事この上ない天国にふわふわいる気分でした。

満足した2人、帰る方向が違うので2台タクシーを呼んで帰りました。

翌朝お店で顔会わせても、お互い知らん振りが出来たので、私は2週間後新たな気持で結婚する事が出来ました。

彼女は結婚前の男のあそこを試したかったのでしょうか。

彼女と結婚した男性は、夜の営みは十分満足している筈です。

羨ましい限りです。

★道絡みの2題(①は着付けの先生②は変な女)

---------------------------

①着付けの先生

立川で着付けの教室を持っており、いつも道には遅くに寄りました。

豊満な感じの女性で、当時40歳後半の私が見ても年上の感じでした。

結構お酒が強く、道でもぐいぐいやっていました。

何回か会っている時、彼女がトイレに入っている隙にマスターと目線を合わせました。

マスターは目配せして「いけるよ」のサインです。

彼女が戻って来たので、一緒に帰ろうよと言うと頷くのでタクシーを呼んで貰いました。

彼女の家と反対のホテル伏見に一気です。

彼女は相当酔っぱらって自ら着物を脱ぎ全裸になって、横たわりどうにでもしてと、受け入れ態勢十分です。

私もすっぱだかになり、彼女の白い大きな裸体に武者振りつきます。

しかしいくら陰部を指でくじっても、潤って来ません。

不感症なのかと焦りました。

そそりたった棒を押し当て挿入しようとしましたが、陰部が潤っていないので跳ね返えされます。

やっと入れても挿入活動が出来ないので、陰部の周囲を摩羅(男根)の先で捏ねくりまわして、何とか潤いが満ちて来るのを待ちましたが駄目でした。

こうなると男根は萎えてしまい、最後は口で、指で彼女のサネを吸ったり男根で当てたりして自分で興奮して自滅がおちでした。

その後も2~3回ラブホテルに行きましたが同じでした。

彼女は興奮していて抱きつき、私の舌を彼女の舌でからめ下半身も全裸同士でおっつけ合うのですが、どうもぬるりと合体が出来ないのです。

興奮するだから、不感症ではない筈です。

50歳ちょっといった位の良い女でしたが、残念の巻きでした。

-----------------------------------------------

②変な女

友達と2人銀座数寄屋橋付近の公園で夜休んでいた時、中年の女が地面に白墨で何やら画を書いていました。

「うまいね」と私がおだてたら喜んで益々書きます。

私と彼は何かのイベントの券を買わされて見に行く用があったので、「2時間後だったら戻れるので居てよ、そしたら何でも奢ってやるから」と。

(ホテルについて来る雰囲気の女だったので連れ込む積りです)

結果居ませんでした。

イベントなんかに行かないで、即誘ってホテル直行をなぜしなかったのか、悔やまれました。

一期一会と諦めていたら、半年後何とその女が道に居るではありませんか。

何で銀座の女が道に?

何か知り合い(同棲相手)の男がこの近くに住んでいて、待ち合わせにここのスナック便利なので(朝迄やっているので)、たまに来ていたのです。

私の事は覚えていました。

結局その日は彼氏が来ないので私がいただく事になりました。

深大寺近くの旅荘にしけ込みました。

彼女が寝物語で話したのは、勤めていたアクセサリー会社社長竹久みちのあくどさでした。

      -------------------------

今から41年前、三越岡田事件が大いに世間を賑わした。

1982年の三越事件で商法の特別背任などの罪に問われ、実刑判決が確定したアクセサリー会社前社長の竹久みち(本名小島美知子)は2009年・79歳で死去している。

その竹久は三越の岡田茂元社長=特別背任罪に問われ、上告中の1995年に80歳で死亡=と共謀し1978~82年、関連企業を不当にもうけさせ、三越に約15億7千万円の損害を与えた。

また、香港三越などから得た手数料収入などを申告せず、約2億5千万円を脱税した。

三越本社に居た親友の絡みで全盛期の岡田氏を、イベントで何回も拝見しています。

余談ですが岡田氏の実姉が、当社(中央信託銀行)の2代目社長夫人でした。

      -------------------------

彼女のあそこはゆるゆるで、あまり快感は得られず残念でした。

彼女は悶えに悶え大満足だったようで、もう1泊してやろうよと閨房の余韻に未練たらたらでした。

私は振り払って旅荘を出て三鷹に向った次第です。

★その他アットランダムに11話(好色物語)

----------------------------------------------

①邦の近くの結構別嬪なママさん。

エキゾチックな顔立ちなので、出身はと聞くと沖縄でした。

パトロンが居るらしかったですが、お店に顔出しはしていませんでした。

ある時私しかお客が居ない時、ママさんに意味深な言葉をかけました。

「男が好きそうな良いぷりぷりした体をしているね」

「ママとチョメチョメ出来たら嬉しいな」と。

ママは嫌な顔をせず「試してみる?」と即反応しました。

待ち合わせは立川でした。

知り合いに会わない町という事でした。

食事をして勇んでホテルに行きました。

お互い興奮してすぐに真っ裸になり抱きつきました。

私はママの豊満な姿態に武者ぶりつきました。

彼女も久し振りなのか興奮しているのが抱きついた感じでピンと来ました。

その後がいけません。

彼女の興奮が増すにつれて体臭が私の鼻に匂って来るのです。

それが好きだという男もいるようですが、私は駄目です。

萎えそうになるのを必死にこらえ、抜かず三発はやりましたがお泊りだけは出来ませんでした。

---------------------------------------------

②私が童貞失った日

意外と奥手でサラリーマンになってからです。

新入社員の頃、先輩と都内で飲み電車で1人帰宅途中、急に女の居る店に入りたくなりました。

叔母が高円寺に住んでいましたので、何気なしに高円寺南口に降りて新規の店・アルサロに入りました。

今の人はアルサロとキャバレーの違いが分からないと思います。

アルサロの方が少し高級かな?

私に付いた女性は私より年配の女性でした。

ラストまで居て、彼女が着替えて出て来るのを近くの喫茶店で待って、少しお腹に入れてから彼女のアパートにしけ込みました。

私が女性と接するのが初めてだと告白すると、嬉しそうに洋服を脱がせてくれました。

彼女も全裸になり、体を合わせキッスしました。

そして私のたくましくなった男根をしごき、口に含ませ舐めまわして呉れました。

私も有頂天になり、彼女のサネをくじりましたら「舐めて」と譫言のように言うのでお互い舐め合いました。

いきそうになると男根の先を押えて、まだまだと優しく指導して呉れました。

「朝迄寝かせないから頑張るのよ」と掠れ声で、彼女も体が熱く興奮しているのが分かりました。

女の味がこんなに良いものと、初めて知った私も夢中でした。

彼女の体の上に跨って抜き差しして、彼女の豊満な肉体を必死になって味わいました。

疲れて死んだように眠って迂闊にも朝になりました。

私はまだ新入社員です。

「会社に行かないと駄目だ」と彼女に言いました。

「それなら私がバックになるから腰を抱えて後ろから入れて」と言われました。

「こんな恰好で出来るの」と言うと、彼女は時間が惜しいように私の男根を添えて入れて呉れました。

喜悦の世界にまた暫し彷徨いました。

出勤したその日は、終日下半身が立って仕方がありませんでした。

-------------------------------------------------

③神田のキャバレーに行く度に、彼女と待ち合わせ大塚の旅館にしけ込んだ45歳(本店勤務)頃の話

大塚にしけ込む前は、必ず鶯谷あたりの店で腹ごしらえか・一杯飲んでから行くのが常でした。

何故大塚かというと、彼女がその辺りに住んでいたからでしょう。

大概一人でキャバレーに行くのですが、いつか部下M君を連れて行った事があります。

何日か経って彼が言いました。

「吉井さんやばかったですよ。」

見合いした相手の両親が探偵を付けていて、終日見張っていたそうです。

キャバレーが終わるのは12時過ぎですので、さすが探偵は最後迄見届けられなかったようです。

-------------------------------------------------

④駒込のスナックで店の若い女の子と、彼女のアパートに転がり込んでやった話

スナックに勤めている女だから経験者かと思っていましたが処女だったのです。

朝ベッド敷布に赤い血が沁みていたのには吃驚しました。

何故、当時30歳代に駒込なんかで飲んでいたのか。

定かではありません。

当時若い時は、円を描いて(山手線の周りを)飲んでいました。

それが50歳過ぎたら、直線(中央線)になり最後は点(地元)になり今はゼロ(無)です。

------------------------------------------------

④ N・Iさんと親友M氏の彼女と、軽井沢追分山荘で2組・同時に大声出してSEX

27年前(1996(H8).7.12~13)53歳の夏・1泊2日の旅でした。

私の女は相手交換OKするも彼の女が躊躇してダブルセックスは出来ませんで、痛恨の極みです。

私の彼女は、向こう側の部屋で友達と女がセックスしているというので、興奮度が増したのでしょうか。

いつになく大声で喜びの嗚咽を上げまくっていました。

----------------------------------

⑥新大久保のスナックママとの面白いセックス

花札やりながらのセックスでした。

一発やる毎に花札をやるのです。

花札は布団の上で、真っ裸になって二人でやると興奮度が増して良いものと、初めて知りました。

☆新大久保と言えば、超売れっ子の男娼を夕方一番で買った事がありました。

見た目は超別嬪です。

さすが穴への挿入は憚られました。

支払いは個人小切手でしましたが、信用して貰いました。

☆あるスナックで国鉄の車掌と親しく飲みました。

飲んでいる最中は車掌とは知りませんでした。

飲み過ぎて彼は寝てしまいました。

朝目が覚めて大慌て、その日は1番電車山手線の車掌だったのです。

内回りの方が早く追い付くと急ぎ出て行きました。

--------------------------------------

⑦40歳前のセントラル・ファクターに出向していた頃

友達M君とアンコウを食べに大洗(那珂湊)で1泊した時の経験です。

旅館での夕餉が終わってタクシーを呼びました。

タクシーの運ちゃんにやれる所と言うと、町はずれの安スナックに案内して呉れました。

そこで二人は店の女の子(フイリピン人)とお見合いをして、お互い気に入った子を連れて近くのラブホテルに入りました。

私の女がバッグからなにやら粉(葉っぱ)見たいのを出して、紙に巻いて火を付けて自分も吸い私にも吸えと促します。

私は何だか知らず、言われるまま吸いました。

それは淫慾作用のある大麻でした。

凄いです。

持続し、かつ今迄味わった事のない、強烈な体を突き抜けるような・痺れるような、興奮が全身を駈け廻りました。

我を忘れる極楽の世界が、セックスやっている数時間かけめぐりました。

極道の世界、麻薬でお互いの興奮を増して、女を男から離れられないようにすると物の話で聞いた事があります。

まさに言い得て妙です。

翌朝、彼と合流してその話をしたら、彼の悔しがる事、悔しがる事、たらありませんでした。

------------------------------------

⑧S新聞山の会のA・Sさんと荻窪ラブホテル

途中迄3人だったが、居眠りしてしまったK君を置き去りにして荻窪で途中下車、環八から少し入った所のラブホテルにベッドインでした。

次に会った時K君からは疑惑の目で見られましたが。

彼女はぶきっちょでおっかぶさるだけで、SEXはぎこちなかったが、新鮮さはありました。

結局T氏の女になる前、もう1回だけラブホテルに行きました。

----------------------------------

⑨バブルの頃、新宿で女をナンパ

どこかで飲んで最後、女のアパートにしけ込みました。

長屋みたいなアパートでした。

女の部屋という感じがなく質素そのもの、侘しくセックスしたのを、微かに思い出します。

--------------------------------------------------

⑩売春クラブ

やはりバブルの頃クラブの先輩O氏に連れていかれ、新宿歌舞伎町の売春クラブで女を買った事がありました。

私が買った女はモンゴルの子であすこは極上でした。

------------------------------

⑪あれは1989年・34年前(名古屋駅前支店単身赴任の頃)季節は春

名古屋駅裏で夜の女を、買いました。

寝物語で彼女と約束しました。

今週の土曜日1泊で信州の高遠桜を見に行こうよと。

宿も予約して当日を待ちました。

嘘つかれました。

宿キャンセル料も取られ、踏んだり蹴ったりでした。

商売女との寝物語の約束はするものではありません。

★その他3題(初めての韓国とM君絡み2話)

-------------------------------

① 初めての韓国

私がまだ34歳の時(1977年(S52)3月17~20日)、今から46年前、大学クラブのOB仲間3人で、戒厳令下の韓国で初の海外編たまねぎ杯ゴルフ旅行をしました。

余談ですがその仲間(K・Y君とT・Y君の両名)は、後輩ですが既に他界です。

ゴルフはまさに大名ゴルフ、球はキャディがティーに添えて呉れ、全てナイスショット、OBライン越えていても内側に蹴って呉れセーフでした。

夜のお話です。

ゴルフ終わって夕方市内で女を漁りました。

女衒の家で何十人も居る番号札付けた中で気に入った女を買いました。

ホテルの部屋に連れ込み、やりました。

当時は夜間(11時以降)外出禁止の時代、朝迄女と同衾でした。

二日目仲間の一人が新婚時代で、前夜の女はやっていないので権利を私に譲ると。

その女とやりました。

朝ひと悶着です。

昨日は昨日、今日は今日だと。

結局払わされました。

それだったら、昨日買った女と今日もやれば良かったと反省しきりでした。

------------------------------------------------------

② スズメのお宿

あれは早期退職(58歳・2001年)の前年ですから、今から23年前の話です。

友達M君と、群馬のスズメのお宿(磯部温泉)に行きました。

そこはウグイスの谷渡等の花電車芸の芸者を、呼べる事で有名な宿でした。

部屋でひとしきり芸を披露して貰って、大いに盛り上がりました。

友達は感激して、女の秘部をまさぐっていました。

その後地下のクラブに行って、飲めや歌え、大盛り上がりです。

私と若い芸者は意気投合して、部屋にしけ込みました。

いざ行為しようとしたら、ドアの外から友達と芸者がガンガン叩くではありませんか。

結局行為中止せざるを得ませんでした。

年長芸者の嘆くことったらありません。

若い芸者はべろんべろんになって、背負われて帰りました。

芸者がゲイでは形無しだとぼやきながら。

----------------------------------------------------

③ 沖縄初旅

1990年(H2年)7月、バブルの頂点の頃、今から33年前のこの旅は、ひょんな事から実現しました。

船橋に住んでいる友達M君・地元スナックの女の子が、石垣島に帰った。

女が友達と2人で沖縄那覇迄来て呉れる算段だから、行きましょうよと。

少し助平根性もあって、半信半疑ですが行った次第です。

待ち合わせのホテルに“待てども暮らせども”来ません。

「どうなっているんだよ」と私は友達に詰問、彼は石垣に電話しました。

何と彼女が電話口に出るではありませんか。

「何で来ないのよ」と。

「いやあれは冗談の積りでまさか来るとは」だって。

私は怒りました。

いやいや気分直してと。

沖縄初日がホテルバーで、焼け飲みです。

それでも、神様は見放しませんでした。

可愛い女の子が一人・カウンターに座って、飲んでいるではありませんか。

3人で飲み直して市内に出掛けました。

2軒ばかし梯子して、私と彼女は意気投合して、彼氏を巻く算段になりました。

私も彼女も飲み過ぎたのか、なかなか彼を巻けません。

30分ばかし追いかけっこみたいになり、私もいい加減疲れてしまいました。

直ぐタクシーを捕まえれば良かったのです。

結局ホテルに戻りました。

ここで私が大失敗しました。

遅くなったので、彼が彼女を送って行くと。

そのまま信じた私が赤坂見附、いや浅はかみつけ。

朝迄彼は帰って来ません。

結局彼女は彼に食べられてしまったのです。

翌日からの観光の詰まらない事夥しかった。

後味の悪い沖縄初旅のお粗末でした。

そう言えば、学生時代から40年親友だった彼とは、沖縄初旅の10年後に友達付き合いを解消してしまいました。

疎遠になって20年以上になるでしょうか。

★第2回欧州財形金融視察団での旅の恥は掻き捨て

-------------------------------

上記視察団はバブルの最中、今から36年前(1987(S62).10.31~11.13)2週間の旅でした。

ベルリンの壁崩壊の2年前でした。

労働省の課長補佐を団長として、各金融機関から1名ずつ参加の総勢21名(うち2名は引率財形協会&旅行社添乗員)でした。

①アムステルダムの飾り窓で梯子3人(1発2000円)でした。

最初は皆で見学していたのですが富士銀行のY氏(Y財閥の御曹司)がいわゆるマッチポンプでした。

彼の後を付いて行っても碌なものでないと判断、途中から単独行動に切り替え正解でした。

②ドイツの駅裏で買いました。

この時は好き者3 人と一緒でした。

後半の2国(フランス・イギリス)は、公娼制度が無い国なのでやばいと思い、買いませんでした。

ベルリンオリンピックスタジアムで、朝吉祥寺スクウェアー・ママに電話したのも覚えています。

★日韓親善

-------------------------

1992年ですから、今から31年前(私が49歳)の話です。

相手は、渋谷道玄坂・井の頭線高架傍の家庭料理のお店「多抜来」のママです。

最初は、多抜来の常連“望っちゃん”(望月さん)も若い彼女を連れて、4人で韓国に行くはずでした。

“望っちゃん”と言えば、渋谷道玄坂辺りでは知らない人はもぐり位の有名人で多抜来を彼女との待ち合わせ場所にしていました。

何しろ服装が目立ちます。

ある時は上下白・靴も白、ある時は皮ジャン(後ろに星状旗)です。

年に2回(1回の滞在は最低1ヶ月)、ハワイホノルルに滞在、1回当たり1千万円の豪遊でしたのでホノルルの繁華街でも有名人でした。

惜しくも50歳代で有り金全部使って早死しました。

       ------------------------------------

“望っちゃん”のドタキャンで残された二人どうしようかとなりました。

私も男、一旦言い出したら引きません。

馴染みのお客からは、「吉井さん大丈夫?ママに犯されない?」とママに聞こえよがしに揶揄されました。

ママは、「失礼しちゃうはね、これでも貞操は堅いのよ。」と。

2泊3日ドアーツードアー(成田~ソウル空港~市内観光(3日間・専用ワゴンバス借り切り運転手&ガイドの金さん付き)~ソウル空港~成田)で1人3万円でした。

帰り、成田~新宿迄エクスプレスグリーン車の代金(5050円)の割高感が、目立ちました。

金さんはその1年後30年前・1993年に、短期語学留学で来日しました。

多抜来でアルバイト・私が各地案内と日韓友好私的親善大使?として尽くしました。

1993.2.21(日)デズニーランドに金さんを案内しました。

金さんが友達連れて行って良いかというのでOK、何人かと聞くと日本語学校の友達と4人だと。

そこで私は親友のOさんに応援を頼みました。

その彼も先年ガンで他界でした。

余談; 五反田の駅前のレストランで食事をして戸惑った事。

メンバーは男性2人+女性4人=6名 女性が全員韓国です。

マネージャーは差別的な目で「ちょっと待って下さい」と言いました。

そんなに混んでないのに他のお客さんの目のつかないよう奥に案内されました。

よっぽど日韓友好をやって何が悪いのかと文句言おうかと思いました。

★最近の話

---------------------------------

まだ数年前の話です。

近所のショットバーで知り合ったY・Iさんです。

40歳代の魅力的な女性で、何回か吉祥寺の白耳義館等のバーでデートしたりして付き合いました。

彼女は水商売願望の女性で、深入りすると資金面でも肩入れする恐れありで長続きしませんでした。

精々タクシーの中でのディープキッスが関の山でした。

どうしても年を取ると淡泊になっていくようです。

★車中の多目的ナイフを取りあげられた事

------------------------------------------

東道路の日用品スーパーの屋上にマイカーを駐車していた時パトカーから抜き打ち検査がありナイフを取りあげられた。

山用に使うといくら説明しても不法持で警察迄同行を求められ取り調べを受けた。

結局不起訴になり無罪放免になったが最近になって一番頭に来た事案であった。

★最後に

------------------------------------

邦での酒浸りを終えたのは52歳でした。

山にのめり込んだのはその後です。

中野のスポーツセンターTACに週3回会社が終わってから通いました。

体力がつき54歳前から百名山登山を開始、6年半60歳(2003.9.16)で三百名山を達成出来ました。

そして武蔵野スイングホールで、2004.2.7盛大にパーティーを催す事が出来ました。

キリマンジャロ(2002.9.20登頂)、アコンカグア(2004.1.7登頂)に登ったのもこの間です。

50歳半ば前から山にのめり込んでいなかったら、現在の元気さは無かっただろうと思い、山に感謝です。

70歳を過ぎてから断捨離の一環として、山道具を捨て登るのを止めました。

-----------------------------------                                                                                                                                                                                     

2021(令和3年).3.1

----------------------

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

邦での16年 風のPOOH・新HN @dqe1725

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ