• エッセイ・ノンフィクション

新入社員から30代の頃&我が銀行の波乱万丈の40年要約。

水葉亭の建物見て思い出しました。
50年前の話です。
第一回大学華道会OB会・たまねぎコンペ(1973.5.23)を大熱海国際ゴルフ場で行いました。
前日はゴルフ場に至近の我が山荘に宿泊でした。
まだ建て替え前ですが築10年足らずの時です。
タランチェラの館になる前です。
ラウンド終り海岸線沿いに帰り途中熱海通過です。
コーヒータイムで熱海一番のステータスだった熱海ホテル(水葉亭手前、今は飛脚便・佐川急便の保養所です。)に寄りました。
ビックリです。我が社の第2代目社長(北根貞雄)夫妻にラウンジでバッタリでした。
吉井君ここで何してるんだい。
私はしどろもどろ、いや、あの、大学クラブの仲間とゴルフしての帰りでして。
あ~、そうかい。お父さん元気かい。
はい、お陰様で元気です。
宜しく言ってくれたまえ。
まさかここで社長と遭遇するとは。
同伴者が奥さんで良かった。
奥さんとは面識がありました。
入社して4年目に京都支店勤務になり色々ありました。
交通事故で免許取り消しになる前、結婚する前の話です。
当時滋賀県庁(週2日)と中京区・下京区の一部担当でした。
中京区では室町・先斗町、寺町、錦商店街、他でした
下京区の一部では(任天堂が大化けする前の花札屋の時代・奥さん(山内ニンテンドー社長・会長・相談役の実母。)に可愛がられました。
ある日次長に呼ばれました。
月 日社長夫人が××時到着のひかりで来京されるからお迎えして室町の問屋さん(山田繊維、野田、大平他)にご案内しなさい。
了解しました。
配車は支店長車ですね?
いや当日は支店長が接待ゴルフに使うので君が外回りで使っているパブリカよく中をキレイにして粗相のないように頼むよ。
前置き長くなりました。
そんなわけで愛人じゃなく夫人だとすぐわかりました。
夫人もあの時はお世話になりました。と言ってくれました。
北根社長は東海銀行時代京都支店長歴任です。お嬢さんか息子さんが京都の老舗の人と結ばれています。
余談ですけれど後に三越に君臨した岡田茂(愛人竹久みちと組んで。中国の毛沢東と紅青みたいに。)の実姉が北根夫人です。
北根社長と我が父は名古屋高等商業学校の同期生です。
父は同じ同期生ですが同じ東海銀行の期待の星・木下正美氏の方が親しかったです。
木下氏が既に常務に順調に栄進した時点で北根氏はまだ課長でした。
同期生のよしみで木下氏に引き立てられ木下氏が次期頭取間違いなしの副頭取になった時点でやっと取締役選任でした。
期待の星木下氏は目前で不治の病に冒され(血液の癌)帰らぬ人となりました。
昭和36年中央信託銀行が設立された時当時東海銀行の専務だった北根氏は2代目社長含みで東海銀行のエースとして送り込まれました。
初代社長は日銀理事だった白根清香さんがなりました。
まさにきたねえしらねいの日本最後の新設銀行の船出でした。
3代目社長は大蔵省(NOF)為替局長だった福田さん、4代目は東海銀行から当社設立と同時に転籍した大物関口武士さんでした。
網代に会社の保養所があった頃の話です。
不動産担当常務の頃の話です。
私は違う部の忘年会で来ていました。
トイレで関口常務とバッタリ。
吉井君酔っぱらっておちんちんの発射方向が定まらないので捧げ筒ならぬ捧げマラの命令です。
直属の上官ではありませんけどいずれ社長になることが確実な大物です。
モノも大きかったです。
横向いて捧げマラでした。
社長在任中に鬼籍でした。
60歳代の戦死でした。
新潟県出身、陸士出身(東大 陸士)でした。
5代目も東海銀行のエース坂野上さんでした。
彼は海兵でした。(東北大学 海兵)
いずれ社長になることが確実視されていた彼が人事部次長の時私が京都支店で交通事故を引き起こしてしまった。
自分の車で週2日の滋賀県回りをしていた。
直属の上司の社宅で外回りの新年会があった。
運の悪いことにその日は滋賀県回りの日で次長宅にマイカーで出向いた。
うだつの上がらない3人が面白くなく寮(高槻)で飲み直そうと私の運転でスタートした。
結果は田んぼに落ちて車はお釈迦、同乗の二人に軽い怪我を負わしてしまいました。
会社を辞めようと親父に相談したらつよく慰留され結局辞めませんでした。
親父は関口武士さんに相談したようでした。
ただ坂野上に完全にマークされました。
免許無くしても外回りを外してくれませんでした。
結婚して、らくちゃん・うたちゃんのお父さんが誕生、3年半の波乱の京都支店の次に転勤は関口武士さんが支店長だった名古屋支店でした。
いずれにしろ関口武士さんが早世して坂野上が社長になった時点で私の出世の道は閉ざされました。
6代目はビックリの人事でした。
世の中が丁度バブル崩壊の時でした。
坂野上さんが後継者に指名したのは何と途中入社の遠藤さんでした。
彼は東大出て日本道路公団経由当社が出来てから入社でした。
私が知っている遠藤さんは調査畑の人でした。
当然坂野上さんから後継者に指名されると本人も自負していた大西章夫さんは愕然です。(東大 ・東海銀行・ 中央信託と来たエースです。)
遠藤さんが社長在任中に北拓殖が潰れました。
道内の北拓殖支店は北海道銀行が買収、本州支店は何と当社が買収でした。労せずして店舗・資金量倍増でした。
その後破綻した日本長期信用銀行迄手を伸ばすけどさすが内容が悪過ぎ、大蔵省にも反対され頓挫した。
7代目は私の大学1年先輩の平川英于さんでした。
彼は業務畑を歩んで来たエリートです。
当社の出世の道は営業畑ではなく人事畑、総合企画部畑、業務部畑の純粋培養人間でなくては駄目です。
当社初めてのプロパー出身の社長誕生、本社も初めて自前のビルを田町の日本電気(NEC)の対面に建てたばかりでした。
たった半年間でした。
大蔵省は当時瀕死の重症だった三井信託の扱いに苦慮していました。
当社はバブルに足を突っ込みました。
気の小さい連中に1人の異能な男が出現でした。
福田さんと言う正体不明(一説によると当社本店顧問弁護士飯塚先生の遠戚の男とか)の高校卒途中入社の男でした。
本店不動産部の次長でした。
彼が本店不動産部の次長在任中の2年間は異常でした。
4期連続銀行全体の収益の半分は彼が稼ぎ出す仲介手数料でした。
坂野上社長も平服する存在感を示しました。
まさに福田天皇と崇めたてられました。
不動産部長なんて歯牙にも掛けません。
10時出勤、それも自分で雇った運転手にロールスロイス運転させです。
奢れる者久しからず。
派手な生活振りが時のFridayに大きく掲載されました。
一介の本店次長がフランスにお城を買ったとか、夜な夜な銀座の高級クラブで豪遊している、等々。
最後はマルサに所得税法違反で収監され刑に服しました。
彼のお陰で銀行は手を引いて最悪を免れました。
三井信託は地獄の縁迄行きましたが当社と合併する事で這い上がれたのです。当然当社が定款上の存続会社でした。
中央三井信託銀行の本店は我が社の田町新本店、存続会社は当社。
それなのに平川氏は三井に新会社の社長の座を明け渡し副社長に甘んじたのです。
中央信託と言う戦後最後に新規に設立された銀行は40年弱の命を発展的に閉じました。
私はその前に辞めて(58歳で60歳定年扱いの新制度にいち早く手を挙げました。)います。
その後の展開は皆さまご存知の通りです。
5年前でしょうか。
我が社の名前が消え失せました。
中央三井信託が住友信託と対等合併し三井住友信託となったのです。
ボタンのかけ違えは平川氏が遠慮した事がそもそもの間違いでした。
銀行と言う人間の集団を握るのは人事権です。
つまり人事部を掌握するのは社長です。
今さら悔やんでも仕方がないですが。
それ迄本店だった田町の旧本店は芝営業部になりました。
昔のさつきGだったトーメンが破綻した時年金は全て一時金で決済されました。吸収合併した豊田通商が身軽にして来いが合併の条件でした。
対等合併でないとこうなります。
昔・セントラルファクターで2年一緒に仕事した元トーメンの仲間の企業年金は一時金で清算させられたので今あるのは国民年金だけです。
破綻したので止むを得ませんけど厳しいものです。
話は一気に飛びます。破綻寸前のギリシャは国民が身を切る痛みを負わなくては、いくらEUが18兆円の巨額・資金補給をしても駄目でしょうね。   
以上

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する