冬の臥床

犀川 よう

冬の臥床

 その庭園は三八階建てのオフィスビルの上にあり、深夜になると私と彼の誓いの場になっていた。夜の十一時を過ぎれば、ほぼ全ての人間がビルから外へと流れ出し、下界の明かりに引っ張られるように散らばっていった。私はそれを庭園の金網から見下ろすのが好きだった。その映像にはほとんど音がなく、冬の冷たい風に揺れる草木の掠れる音だけが私の耳に入った。ほんの僅かではあるが、下から湧き上がるクラクションの短い破裂音や、奇声のような言葉として理解できない咆哮がノイズとして混じるだけで、夜の庭園の静寂さは都会の中にありながらとても良く守られていた。私は彼が来るまで、下で流れる景色を眺めていた。


 ある日、深夜二時と朝五時に警備員が巡回に来ることを知っていて、庭園の入口の鍵を手に入れてさえしまえば、草花が規則的に植えられた夜の庭園の主になれることに気がついた私は、会社の同僚である彼に、何とかその鍵を手に入れられないかと相談したことがあった。昔二人で夕方の閉園間際に庭園に行ったときに見た、茜色の強い光が芝生を朱に染上げた光景が忘れられなかったから、もしこの美しい庭園の夜に私が訪ねることができたら、どんなに素晴らしい世界が広がっているのだろうと考えてしまったのだ。照明が消された庭園の、月明りと周りの高いビルの航空灯が降り注く世界に、私は入り込んでみたくて仕方がなかったのだ。

 私は彼にその欲求をそれからも何度も話した。彼は「そんなことは不可能だ」と、話を取り合わなかったが、会社の給湯室で十数度目かの相談をしたときに、彼は両手で私の肩を掴み真顔で「警備員に抱かれろ」と言った。私はその短い言葉を理解するために、ひとつひとつの単語を咀嚼しながら彼の目を見た。彼の目に嘘や戸惑いはなかった。だから私は、彼が私の欲望を満たしてあげようと、真剣な愛を籠めて命令したのだと理解ができた。私もあの庭園以上に彼を愛していたから、彼の言うことに誤りを見出せなかった。彼は私に毎日飲ませている白い小さな避妊薬をその場で飲ませ、念の為にと普段は使っていない小さな箱を渡してきた。ぎこちないが、笑顔になった彼は「今晩行っておいでと」告げて、自分のデスクに戻っていった。彼からの赦しを得た私は、その晩に警備員に抱かれる代償を払って、夜の天界に繋がる合い鍵を手に入れることができたのであった。


 夜の十二時になる前に、彼が庭園の重い扉を開けて入ってきた。私は彼に近づいていき、彼を抱きしめた。冬の庭園が私の身体を冷たくしていたのが、彼の温もりからわかった。彼は私を更に手繰り寄せ唇を合わせてきた。彼は私の身体の中に自分の居場所を見出している人で、私のあらゆる中に侵入するのが好きだった。私には彼のその欲望が理解できた。この庭園のように、自分ではない何処かにあるいは何かに入り込みたい気持ちは、私も共有することができた。だから私は、この庭園のささやかな草原を臥床にして何度も求めてくる彼がいとおしかった。いつも彼は私の手を引き、芝生に押し付けるように私を寝かせた。私がコートを開け、ブラウスに手をかけようとすると、彼はあの白い錠剤を私の口に入れて飲ませた。毎日のように訪れる夜の庭園で、私と彼の盟約はこの薬から始まった。私はそれを飲み込むと口を開け、彼に完璧な愛の行為をする資格があることを証明する。彼は私の口の中を確認する。指を入れ、小さな欠片でも残してはいないか捜索していく。同時に、彼は私の耳に触れ、指を入れていく。私の聴覚のバランスがおかしくなる。儀式の始まりはいつもそうだ。それが終われば後はもう、彼は自分の思うままに私の肉体の入れる処をひとつひとつ侵していった。私はそれに身を委ねながら冬空を眺めていた。どれだけ寒空の下にいても、私は自分を隠すものを剝ぎ取られ、彼が触れないところがなくなるまで、私たちはこの庭園の芝生の一部になっていった。


 彼との逢瀬は続いたが、この日はその儀式が崩れ去ることになった。冬にしては暖かい日だった。私はいつものように薄暗い緑の臥床に身を置き、彼の与える白い錠剤の愛を受け取ることを待っていた。だが彼は、それをせずに黙っていた。私は彼が覆い被さった状態のまま静止していのをじっと見上げていた。――もしかしたら儀式の方法を変えたいのかもしれない――。あるいは、私の身体のどこから入ろうか考えているのかもしれない。私は黙って彼の次の動作を待っていたが、彼は何もしなかった。

 私は「どうしたの?」と彼に問いかけてみた。私自身が一刻も早く彼に身体のすべてを埋めて欲しかったら、催促してしまったのかもしれない。――早く薬を飲ませて欲しい――。思わずそう口にしてしまうくらいに私の身体の芯は熱かった。

 やがて彼は、「今日はからもう、飲ませるのはやめようと思う」と呟いた。わたしは最初、彼が何を言っているのか理解ができなかった。警備員に抱かれろと言われたあのときにすらなかった、咀嚼できない不明瞭な言葉があったことを知って、私は酷く狼狽した。彼が私の上からゆっくり降りてくる。彼の頭が私の横にきて、彼の口が私の耳に近づいた。ようやく彼は耳から入ろうとしているのかと期待したが、そうではなくて、私の耳に入ってきたのは、「もうこれからは飲まなくていいんだ」という言葉であった。私は「え?」と、悲鳴のような声を出して彼に問い直した。彼は同じように、「もうこれからは飲まなくていいんだ」と繰り返した。彼が何を言いたいのか、本当にわからなかった。彼は私の顔を見て自分が言いたいことが伝わっていないのを知ると、私の左手を手にとった。そして私に伸し掛かったままの恰好で、私の四本目の指に自分の親指と人差し指を絡めた。


 ――しよう。彼は私にそう告げた。私はようやく、最初の儀式がなくとも、彼に抱かれる権利を得たのだと受止めることができた。それは同時に、彼が私の中に残されていた最後の扉の鍵を開けるという宣言に同意を求めているのだということでもあると理解した。彼が私から離れると、彼の顔と冬の夜空が滲んで見えた。どうしようもなく美しく暗い庭園の中で、どうしようもなく酷い彼のプロポーズによって、私は庭園よりも欲しかった本当のものを手に入れることができたのだと知った。

 私は冬の臥床に彼の引きずり込んで、しがみついた。そして、何度も頷きながら、大声で泣き続けたのであった。

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