第4話

色のついていないような、あまり感情の動かないような、そんな灰色の世界にいたことすら気が付いていなかった。救急治療室でくもぐったような緑一色の視界を経て、やってきた病室は白い一色でまぶしかった。病室で、回復するにつれ、空の青さに気が付き、簡素でしかない病院食が鮮やかに見える。今まで、どれだけ苦しい世界にいたのか、身体が楽になっていくにつれて驚いた。


私のいろいろな数値は回復するまでに時間がかかった。数値は、まだ「死んでいる値」であったのに、身体は劇的に楽になってきた。少しのことでイライラしていたのに、穏やかな気持ちでいる時間も長くなった。子どもがかわいいと思える時間が多くなった。医師たちは、数値がじりじりとしか回復しないのに「劇的に身体が楽になった」「早く自宅に帰らせてほしい」という私を見て、長きにわたって患っていたため身体が慣れてしまったのだろう、そして子どものころからのもともとの体質もあるだろうと結論づけた。


それでも、あまりにも低数値であったため、じりじりと入院は伸ばされ、定期的に病院に通うことと一生薬を飲み続けることを約束して、退院できたのは入院してからひと月も経っていた。



それは本当に偶然の出会いだった。

退院した後に、整体を受けた治療院で体の様子を見てもらい、入院の話をした時のことだ。鍼灸師の先生いわく、私の状態は「東洋医学的に言うと氣が無くなった」らしい。東洋医学的には持って生まれた先天の氣と生まれた後に主に食べ物などから作られる後天の氣という氣で人のエネルギーを表すのだが、私は先天の氣という生命エネルギーが枯渇したのだという。先天の氣は親からもらう氣だ。そういう考え方を聞いたとき、私は腑に落ちたのだ。


大きく体調を壊す前に、私は親兄弟と絶縁した。心が死んだ出来事だった。

親兄弟とは、それまでは私の我慢で家族として成り立っていたことを知った。


おそらく、私は長い間、医学的にはあり得ない数値で生きていた。常にぎりぎりで生きていた。どんな状態になっても、意識ははっきりしていたし、たいてい動くことさえできた。死んでいる数値であったけれど、臨死体験すらしていない。


夫は私によく言った。

「38度以上もあって、よく動けるよね。」

「痛みやきつさへの耐性が異常に高いよね。」

夫からそう言われるたびに、頑張り屋さんだねと評価されたかのように思ったけど、普段の苦痛から逃れるために感覚を鈍くしてきたのかもしれなかった。

 


東洋医学に詳しい治療院の先生は教えてくれた。

―――氣がないということはエネルギーがないことと同じで、温かさがなくなるから周りは冷たく感じるのだよ。


私は、親兄弟から冷たい、冷たいと言われ続けた。親兄弟以外にはそういってくる人はいなかったが、冷たいと感じる人も多かったのだろうとは思う。ただ、異様なほど親兄弟からは冷たいと言われた。私は優しくない。偏屈だ。冷たい。私が言葉を尽くすほどに、嫌われた。仲良くしたくて、わかってほしくて、歩み寄ろうと、気持ちを伝えることが逆に嫌われた。


「仲良くしたいのに相手には仲良くやっていく気持ちがなくて悲しい」

 

私の氣はずっとずっと枯渇していたのだろう。暖かな氣を持っていなかった。本来は家庭で養われるはずの氣が養われなかった。だから、いつだって心はすれ違い、冷たいと嫌悪され、暖かな氣の交流はできなかった。そう、きっと親にも暖かな氣は残されていなかったのだろう。気に入らないという感情論には何を言っても太刀打ちなんかできない。


親が枯渇寸前だったから、私は持って生まれた先天の氣も少なかったのだろう。その少なかった私の氣を親は奪い続けたのだ。親も枯渇していたから。そして親子でお互いに氣がなくなった。私の我慢で成り立っていた家族というつながりも、私の氣がなくなったから保てなくなり絶縁した。それでも、支えではあったのだ。細い枯れ木が微妙なバランスで互いを支え合っているような、そんな奇跡のバランスであったけれど。それが明確な「絶縁」となったとき、それまで保っていた心身の限界が崩壊していった、そんな気がする。


回復するにつれ、ずっとマヒしていた感覚が正常に戻ったのか、私も親兄弟の冷たさを自覚した。エネルギーバンパイヤという言葉がある。私は親兄弟に氣を吸われすぎて朦朧として生きてきた。ずっとずっと気が付かなかった。死んだ数値で生きていることを不思議に思って過去にさかのぼって私の数値を調べてくれた優秀な医師がいて、そのあとに東洋医学の氣という考え方に出会ったから気が付いた。


私と親兄弟との在り方は、すでに私を殺していた。親兄弟は否定するだろう。

でも、私はすでに死んでいたのだ。



たまたま妊娠中の具合が悪くて、たまたま産後に体調を崩して、体調の悪い産後に無理して葬儀のために帰省した。そんな無理をしたから、倒れたのだと思っていた。確かに出産も産後の心身の酷使も大きな要因にはなるものだけに「疲労」だという診断だって一度は下った。でも、本当のところは積もり積もった長年の抑圧だった。苦しさにずっと気が付かなかっただけ。心は限界だったのに、身体も限界だったのに、蓋をして、自分の心が死んでいることに気が付かずに生きていたように、自分の身体が死んでいることさえ気が付かないようにして生きてきた。


私には私を酷使してでも「しなければならない」という刷り込みがある。自分の心や体を無視して「しなければならない」で動いてしまう。そうやって死んだように生きていた。根底には親兄弟とのかかわり方がある。もう限界だったんだ。だから、身体が硬直して動かなくなった。そんな私の人生の生き方に気がつけと。


自分で自分を死ぬほど追い込んでいた。そのことにさえ気が付いていなかった。けれど追い込まなくては気づくこともできなかった。育った家族である親兄弟からのしがらみを手放して、自分を大事にすることを。


私はゆっくりしてもいい。

私は全ての子どもの世話を背負わなくてもいい。

私は献身的ではなくてもいい。

私は働かなくてもいい。

私は誰かに頼ってもいい。

赤ちゃんを抱えて飛行機に乗らなくてもいい。

体調を壊して入院するときくらい、子どもを夫にでも友人にでも託したっていいのだ。たとえそれが授乳の必要な乳児であっても。

急いで退院する必要もないのだ。

自分の身体を労わっていい。


ゆっくり回復していく道のりは、ゆっくり生まれ変わる道のりになるのかもしれない。

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私はすでに「死んでいる」 @branch-point

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