第3話

「早く家に帰りたい。」

どんなに訴えても、それが聞き入れられることはなかった。


夫はやっと仕事に行けるようになったのだ。私が体調を崩しがちだったので産後は度々休みを取ってくれていたし、義父が亡くなって葬儀で1週間も休んだ。やっと仕事に行けたのに、私が入院なんてすれば子どもを見てくれる人はいなくて、夫がまた仕事を休むしかなくなってしまう。


「赤ちゃんと一緒にいることはできませんか? 授乳しているんです。」

そもそも授乳できる状態だということが医師には信じられなかったらしい。

「赤ちゃんのお世話なんてできないでしょう。」

と言われれば、

「ずっと一人でお世話できていました!面倒は見れます!」

と反論した。

赤ちゃんだけ私が見ていれば、上の子は幼稚園に預かってもらうことができる。それなら、夫は仕事に行けなくもないだろう。


結局、周りに手助けしてくれる人もいないと知った病院の配慮で、赤ちゃんも一緒にベッドにいてもいいということになった。とりあえず、どうあっても入院させたかったらしい。もしかしたら、とても珍しいケースなのでより詳しく検査したかったのかもしれないが。そして、私にお世話はできないだろうと思っていたようなのだ。そうなれば、赤ちゃんにご退室してもらえばいい。寝返りもしない動けない乳児だし、短時間であれば看護婦がおむつとミルクくらいならケアできる、と思ったのかもしれない。もしかしたら、余命いくばくもないのだから、子どもと過ごしたいという望みをかなえてあげようと思ったのかもしれない。病院側の思惑はどうであれ、ここでしか受け入れられないと私にあてがわれたのは、シャワールーム付きの個室だった。

 

おそらく、病院側の思惑に反して、私は赤ちゃんのお世話ができた。

点滴でかなり楽になっていたし、なにより他の家事をする必要なく、ゆっくり過ごす事ができた。点滴は偉大だなと初めて点滴を尊敬したほどだ。

ノックがあったとき、相変わらず点滴につながったままだけれど、私は赤ちゃんを抱いてベッドの脇に立っていた。そのまま戸を開けた看護婦は驚いた。すぐに医師もやってきた。私は動けないと思われていたのだ。


1人でトイレもいけないだろうと、尿瓶を持ってきた看護婦に丁重にお断りして、トイレも自由に行けるように、点滴スタンドも動くものに変えてもらった。

医師は手元の数値と私を見比べて驚いていた。夕方になって、物々しい数の医師がやってきた。12人までは数えたが、狭い個室に入りきれないほどだ。実験動物のような気持ちになったが、やはり数値と私を見比べ、意識をもって受け答えすることに驚いているようで、本当に失礼ね、と思ったが、かなり意思を尊重してもらっていたのでにこやかに対応した。


私につけられた病名は低カルシウム血漿。ただ、いまだかつてないほどの低カルシウムで生きている超レアな事例だった。

数値を改善するために医師たちが勧めた薬は、カルシウムの定着を促すための、要するにビタミンDの薬だったが、通常の6倍だと薬剤師から説明があった。それ以外に手立てがないことも知った。投薬によって授乳もあきらめなければならなくなり、それでも退院できないと知ると私は病室にミルクを持ち込んでもらった。意地でも子どものそばを離れたくなかった。


夜中に目が覚めると、周りには医師たちの顔がずらっと並んでいた。

「あの、なにかあったんですか?」

と私が聞くとざわっとしたあとに、

「医師が心臓が止まりそうだったので」

と答えた。

私には点滴の他に心電図も取り付けられていて、その心電図が弱くなったので慌ててきたらしい。夜中に患者を起こさないようにと真っ暗な中で懐中電灯をもって心電図覗き込んでいる集団をいきなり目にすることの方が心臓が止まりそうなのだが。そうのうえ、心臓が止まりそうだったと聞かされる方が、心臓に悪い。


入院当時、私は血圧も低かった。上が69、したが38。これも相当に危ない数値らしい。血圧が低すぎて測れず、足で血圧を測った。足で血圧を測れるとは知らなかった。常に足を少し高くできるように設置されたベットで、私は思う。

妊娠中も血圧は上が88の下が50を切るなんてこともあった。妊娠時は高血圧になりやすいって聞くしね。あれは高血圧になっていたんだな、と。もともとが低血圧気味で、血液サラサラだわ~なんて思っていたが、実は弱っていたのか。何年弱っていたのだろう。


医師たちも思ったらしい。こんなに低カルシウム、低血圧で生きているのは不思議だ。これはいきなりなったのではなく、徐々に徐々に時間をかけて身体がそれに慣れていったのではないだろうか、と。普通は立てないどころか、意識を保てないし、そもそも生きていない。


入院も3日目になるころ、私は今までの病院歴を聞かれた。そもそもが妊娠以外で病院にかかったことが少なかったが、少ない病院歴を答えると、過去にかかった病院に問い合わせて、私の過去のデータを見つけてきてくれたらしい。それによれば、上の子を産んだ3年前に、首が痛いと整形外科に行ったとき、骨密度と血液検査を行っていて、その時点でカルシウムと血中ビタミンD濃度の低下が認められていたという。


その時はかなり元気だったので、当時の医師にも養生するように言われたらしいのだが、一切覚えていない。ただ、少なくともは確実に3年前からじりじりと私は命の数値を下げながら生きてきたと証明された。




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