変化

空からわさわさ

変化

 私はどうも長い時間寝ないとダメなようだ。一日8時間睡眠しても足りないということがしばしばある。今は学生という身分故なんとか体がもっているが、将来が心配である。

 いや、今も体こそもっているが精神はもっていないかも知れない。あまり寝ていたことが理由なのか、それとも私の精神がもっと睡眠を求めているのかは知らないが、最近精神的に疲れることが多くなった。

 具体例を出そう。数日前の話である。

 私は、列車を利用して登下校を行っている。その日も、学校が終わったあと帰宅のために、学校から何分か歩いてN駅まで向かい地下鉄に乗車した。

 N駅には地下鉄線が一本乗り入れているだけだ。しかしその地下鉄線は一部列車において私鉄線と相互直通運転を行っており、私のように私鉄線沿線に住んでいる人は、運がいいと寝ているだけで最寄り駅に着くことができる。

 その日、私は運良くN駅から直通の急行M駅行きに乗ることができた。私の最寄り駅―仮にS駅と呼ぶ―はM駅の手前にある急行停車駅なので、この日私は寝ているだけで家に帰れることが確定したのである。

 だからその日、私は心のなかでガッツポーズをして急行列車の中で眠った。なんとも愉快な夢を見たので、しばらくして愉快な気分で起きた。

 だが愉快な気分は一瞬で霧散した。自分を馬鹿だと思った。列車がM駅の一駅手前の駅を次の停車駅として案内していたことがその原因であった。

 自分を罰したい気分であった。これが下校だったからどうにでもなったが、登校であったらどうだっただろう。授業に出られなかったということになる。塵も積もれば山となるという言葉がある。これに則れば、このようなドジを登校のときに何度も踏もうものならば、落単は確実となることが誰でもわかる。

 そんなことを考えながらうつむいているうちに、いつの間にか列車はもうすぐM駅につくと言っている。なんてことだ。

 しかしこうなった以上は仕方がない。折角だから私はM駅周辺で買い物でもしてから帰ろうと思った。だがMという街を何度か訪れた経験から語ると、M駅は急行停車駅でこそあれ、周辺市街地が貧弱な駅である。私が楽しめるような施設は私の知っている中では4つしかない。

 1つ目に思い当たるものはカラオケボックスである。…ここに行くのはやめておこう。私は今、一人きりだから。いやこの言い訳は誤りである。私は一人で歌唱することを趣味としている人間であるから、別に一人でカラオケボックスに行くのに何の問題もない。

 だが「そのM駅近くの」カラオケボックスが嫌なのだ。私は以前M駅近くのカラオケボックスに行ったことがある。一人で。

 私は皆とカラオケに行こうものならば、全力で空気を読むような面白くない人間故、一人でカラオケに行くことを好む。そして折角一人カラオケに来たならば、やはり友人の前では歌いにくい歌を歌おうという考えをしている。

 前にM駅近くのカラオケボックスに行った時も同様で、いわゆる電波ソングというものを一人で歌っていた。

「がちゃがちゃきゅーっと! ふぃぎゅあっと! このまーちに降りたエンジェル~」とこんな具合に。するとカラオケボックスのドアが音を立てて開こうとする様子が目に入った。

 私は焦った。ドアを開けた主が見えるまでの間、なにか飲食物を頼んだか?と頭をフル回転させたが、何も頼んでいないことは明白。おそらく店員の人が間違えて開けたのだろうと思って、気を紛らわせることにした。私は別に、カラオケ店員に自分の歌っているところを見られるのは苦ではない。なぜなら私は、カラオケ店員は恒常的に我々素人の歌を聴いている為、私一人の歌に気を留めないだろうと考えているからだ。

 だが実際にドアを開けたのは、人の良さそうな、そしてカラオケにはめったに来なさそうな、推定70代女性だった。「おばあちゃん」と呼ばれるにふさわしい人の良さそうな顔つきの彼女は、私の歌声と顔を見るやいなや、気まずそうな表情でカラオケボックスのドアを閉めた。

 先述の通り私は、カラオケ店員は恒常的に我々素人の歌を聴いているから、私一人の歌に気を留めないだろうと考えている。だが彼女はカラオケ店員と性質が逆だ。赤の他人、それも素人の歌なんて、おそらく数十年ぶりに聴いた様子の彼女は、認知症にならない限りまず間違いなく私の歌声を記憶し続けるだろう。

 あの時、ここまで思考が回った私は死にたくなった。

 だからあのカラオケボックスには行きたくなかった。普通に高いし。

 カラオケボックスはなしだなと思った私は、M駅プラットホームで電車を降りながら、次に思い当たるM駅周辺―つまりMという街―の面白い場所のことを考える。

 即ちレンタルビデオ店だ。

 いまやインターネットに駆逐されつつあり、私の家の近くからは消え去ったレンタルビデオ店だが、どこか10年遅れている感じのするこのMという街では、未だレンタルビデオ店が残っている。

 私はそのレンタルビデオ店に一度だけ行ったことがある。どうしても見たいアニメがあったのだが、それがどうも私の登録しているサブスクリプションサービスでは見られない様子だったので、円盤を借りに行ったのだ。

 レンタルビデオ店の雰囲気というのは唯一無二のような気がしている私は、「時たまレンタルビデオ店に行きたくなるものだよなあ。」と考えながら歩いていた。するといつのまにかM駅の改札まで来た。

 改札を出て、駅前にあるレンタルビデオ店の方に視線を向ける。

 だがなかった。レンタルビデオ店は消えていた。ドラッグストアになっていた。言いようのないショックを受けた。この街は十年遅れている様子じゃなかったのかよ。

 いや待て、十年前というのは最早00年代でも10年代序盤でもない。10年代中盤じゃないか。丁度私の家の近くのレンタルビデオ店が消えた頃だ。

 それじゃあ致し方がない。ここはおよそ十年しか出遅れていない街なのだから。

 切り替えて、他に面白いところといえばゲーセンがあったなと思った私は、ゲーセンのある方へ歩き始めた。

「そうか、Mのビデオ屋も死んだか。」なんて独り言をつぶやきながら、Mのレンタルビデオ屋のことを考えていると、あっと言う間にゲーセンについた。

 最近のゲーセンでは、UFOキャッチャーしか遊べないところが多くなっていないだろうか。少なくとも私の体感ではそうだ。

 だがMのゲーセンでは、まだ様々なアーケードゲームが遊べるのだ。

 Mのゲーセンは一階がUFOキャッチャーのコーナーになっていて、二階より上にアーケードゲームがたくさんおいてある構造だ。

 私は一階を素通りして二階に向かった。適当なゲームをやろうと筐体を見て回る。

 するとおかしな点に気がつく。「このゲーム、スマホやPCでも遊べたよな。」と思い当たるゲームしかそこにはないのだ。さらにグラフィックも特に秀でていない。   PCやスマホに比べるとただ余分に金がかかるだけだ。

 私はゲーセンでUFOキャッチャーが増え、アーケードゲームが減った理由の本質を垣間見た気がした。なんだか怖くなった私は、別に何も悪いことはしていないのに逃げるようにゲーセンを出た。

 ゲーセンの出口を小走りで抜けた私は、最早私にとってこの街最後の希望となった、私がM駅周辺で面白いと認識している場所、新古書店に向かう。

 新古書店に入ると、そこには新古書店特有の古い紙の匂いが立ち込めていた。私はそれに少し安心する。だがすぐに不安な感じが心に押し寄せてくる。

 私は新古書店でなにか、この街で変わっていないものを探し求めていた。

 新古書店に入ってはじめに、中古ゲームのコーナーが目についた。そこでは私が小学生の時、斬新な話題作として売り出されていたゲームが税抜き100円で投げ売りされていた。

 戸惑いながら漫画のコーナーを見る。陳列された漫画を見ていると、私が小さい時好きだった漫画が連載終了して久しいことを思い出した。

 嫌な気分になって漫画コーナーから目を離し、隣のライトノベルのコーナーを見る。そこに新しい作品は置いていなかったが、逆にその事実はジャンルの衰退を想起させた。そして私が好きだったライトノベルは「有終の美」を忘れてかつての輝きを失ったまま醜態を晒していた。

 一般文芸、文学はどうか。だが私はよく確認しなかった。私はもう疲れていた。

 とりあえず来たからには何か買おうと思って、某文豪の著作の中でまだ読んでいなかった某作品を見つけた私は、それを買って帰った。

 350円だった。

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