「黒猫」と「独り言」

yaasan

第1話 「黒猫」と「独り言」

 このタイミングでアパレル用店頭什器のデザイン的な修正指示。帰宅直前にあったクライアントからの連絡を帰宅時の電車の中で思い出すと、俺は舌打ちをしたくなる気分だった。


 ことは什器だけに収まらずウェブ、動画、紙媒体等々、様々なツールにその修正は波及する。特にウェブと動画に関しては、修正しているような時間が多く残されてはいない。


 明日の朝からクリエイティブや工務の連中と修正指示やスケジュールの交渉をしなければならない。その時に彼らが浮かべる嫌な顔や否定的な言動を思い浮かべると、どうしても気持ちが沈んでいく。


 こういう時にはいつも思うのだが、彼らがどれだけ不平や不満を言おうが、結局はクライアントがやれと言えば最終的にはやるしかないのだ。となれば、不平や不満を言うだけ無駄だとは思わないのだろうか。


 それともそんなことは十分に承知していて、彼らの怒りの解消として俺のような営業にそれをぶつけているだけなのだろうか。そう考えると正解は後者のような気がしてきて、俺の気持ちはますます沈んでいくようだった。


 広告代理店といえば聞こえはいいのかもしれないが、媒体を持たない中小の代理店など実際には広告代理店ではない。単なるセールプロモーションの会社で、その営業などはクライアントの奴隷だ。


 今年四十二歳になる俺はこの業界で二十年近く営業として働いている。だけれども自分がこの業界の営業として向いているのか、今でも俺自身が分かっていない。


 このように面倒な修正等のトラブルがあると何もかもを投げ出したくなってくる。俺は電車の吊革に掴まりながら、周囲には分からないように少しだけ溜息をついた。

 

 電車が都内を抜けて神奈川県内に入った時だった。網棚に置いている俺のカバンの上に黒猫が寝そべっていることに俺は気がついた。


 黒猫はカバンの上に寝そべりながら、吊革に掴まっている俺を凝視していた。


「何だ、驚かないのか?」


 不意に黒猫が語りかけてきた。網棚の上の黒猫。そして、喋る黒猫。俺は周囲をゆっくりと見渡した。


 だが誰もこの異常な事態に気がついている様子はなかった。左右の吊革に掴まっている五十代に見える会社員らしき男性も、二十代に見える女性も自分のスマホを見ているだけだった。


「いや、驚いている」


 俺はそう言った。俺の声も周囲に響いているはずなのに、黒猫の言葉と同じで周りにいる乗客の誰もが俺に目を向けるようなことはなかった。


「驚いているように見えないがな」


 猫が面白くなそうに言って鼻を鳴らした。


「いや、十分に驚いているさ。この状況に。それに猫が鼻を鳴らしたんだからな」


 俺がそう言うと黒猫は再び面白くなさそうに鼻を鳴らして口を開いた。


「猫だって不本意であれば、鼻ぐらいは鳴らすさ。それにしても随分と面白くなさそうな、疲れた顔をしている」


「そうか? そうでもない」


 俺はそう言って肩を竦めた。他人にそう見えてしまうかもしれない理由はあったが、猫にそれを言ったところでと思ったのだ。


 黒猫はそんな俺の左手に視線を向けた。その左手には結婚指輪が嵌っている。


「結婚しているのだろう? 子供はいるのか? 帰れば幸せな家庭がある。結構なことじゃないか」


「子供は二人いる。まだ小二と年長さんで小さいがな。幸せ? そいつは定義の問題だな」


 俺の言葉に黒猫は訝しそうな顔をする。


「幸せではないと?」


「言ったろう? 定義の問題だと。一方では幸せで、一方ではそうでもない」


「ちょっと何を言っているのか分からんな」


 黒猫が苦笑混じりで言う。


「家庭に不満があるのか?」


「さあ、どうなのだろうな。一方では妻や子供がいる幸せ。一方ではそれがあるからこその不幸があるのさ」


「やれやれ、酷い言い方だな」


「そうだな。酷い言葉だ」


 黒猫に同意を示して俺は更に言葉を続けた。


「一つ言えることは……妻には絶対に言えないが、もし時を戻せるのならば、結婚の選択はしないさ」


「……今が幸せではないからか?」


「そうでもない。一方では幸せなのだからな。ただ、そういうことだ」


「やれやれ、人間は複雑だな。正直、よく分からん」


 黒猫に言われて俺は薄く笑った。結論はあるのだ。だからそう複雑ではないと思ったが、黒猫にそれを言ったところで仕方がない。


「猫は複雑ではないのか?」


「さあ、どうなのだろうな。個体によるのかもしれんな。複雑な個体もあれば、そうでもない個体もきっといる」


 まあそうなのだろうなと俺も思う。人間だってきっと同じだ。俺が頷くのを見て黒猫は更に言葉を続けた。


「こう見えて猫の生活も大変なのさ。野良猫なんて、生まれてすぐに死んでしまうのが大半だ。大きくなれたとしても、五年も生きられれば大したものだ。人に飼われているとしても急に捨てられてしまうことや、それこそ虐待なんてこともあるしな。そうそう単純ではないさ。よく言われるが、一日中寝ていられて呑気でいいという話でもない」


 きっとそれもそうなのだろうと俺は思う。人間だって猫だって、その誰もが内面では色々と抱えているものがきっとあるのだ。外からどれだけそうは見えないとしてもだ。


「お? そろそろ最寄りの駅ではないのか?」


 黒猫の言葉に俺は無言で頷く。何で自宅の最寄駅をこの黒猫が知っているのか。そんな疑問が俺の頭を掠めたが、それを口にはしなかった。そして、黒猫は更に言葉を続けた。

 

「そうか。ならば、俺は眠ることにする」


 黒猫はそのまま目を閉じてしまう。

 何だ。やはり呑気じゃないか。俺はそう思う。


 やがて、少しの揺れを伴って電車が駅に到着する。扉が開くタイミングで俺は網棚に手を伸ばして、自分のカバンを握った。


 まだ混み合っている電車内。軽く頭を下げながら俺は電車の外に向かう。俺が握るカバンの持ち手には、クライアントの依頼で作ったばら撒き用のノベルティ、そのクライアントのマスコットである黒猫のキーホルダーがぶら下がっていた。


 その黒猫の顔が少しだけ悲しそうに見えたのは、きっと気のせいだったのだろう。

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