絵画の記憶
天智ちから
絵画の記憶
その男はついに妻のことを忘れた。
いつからだっただろうか。いつからか男は忘れ物をしやすくなり、人の名前もパッと出てこなくなった。過労によるものだろう俺もそうだと画家仲間たちに言われ、ああそういうものなのかと納得した。そして思ったのだ。
「画家先生、相変わらず売れてるそうじゃあありませんか」
「何、いつものように描いているだけだ」
「正直俺にはこんな何が描いてあるか分からない絵の良さはとんと分かりやしませんよ」
古くからの友人は昔から聞いているこちらが気持ちがいいくらいに心情を話す。もちろん、今は酒が入っているからなのかもしれないが、つまらなさそうに飾られた絵を見ながら笑う。
「あんたの絵だから飾りはしますがね」
「飽きたら売ってくれて構わない」
「俺の死後にはそうしてもらいやしょう」
少し首を竦めておどけて言うそれは、『生きている限りは売らない』と言っているようなものだった。
「ああ、でも最近はなんだか作風が変わったらしいじゃないですか」
「……きっと私はもうこのような絵は描かないのだと思う」
「へぇ。俺もね最新作見せてもらいやしたが、俺ぁ昔のより好きでしたよ。何が描いてあるか見たらわかりやすからね」
「あれは見たら分からないといけない絵なのだよ」
そう言って酒を煽る。久々に会う友人との会話についつい酒が進む。
あれは、いつのことだったか。男は白いキャンバスと向き合ってひとり筆をとる。
それはある日のことです。夫はついに私のことを忘れてしまいました。運良く画商さんが来てくれていた日でしたので私はなんとか取り繕うことが出来ました。きっと1人では深い悲しみに飲み込まれていたでしょうから。
妻の私を忘れても、夫は絵を描くことは忘れませんでした。画商さんが夫の絵を引き取る時すら見向きもせずに絵を描き続けていたのです。まるでいつものように。
画商さんは憐れむような視線を寄越しましたが、絵を引き取ると速やかに我が家を出ました。それを見送ったあと、私はいつものように家の中へと戻りました。いつもでしたら家事や趣味の手芸などにとりかかるのですが、この日は予期せぬ来客がありました。
「私は、画家先生の友人です」
夫より少し若い、夫の友人を名乗る方で確かに結婚式でお見かけした方でした。
夫は絵を描くと他には目もくれないので、一先ず客間へとお通しいたしました。慣れていないのでしょう、出来るだけ丁寧な言葉を探しながら、彼は話し始めました。
それは突然でした。画家をしている友人から手紙が届いたのです。彼から手紙が届くのは珍しいことではありませんでした。しかしそれは、いつもの一言二言書いてあるような短い文ではなく、いつになく真面目な手紙でした。
私はこれから徐々に記憶がなくなるという病になった。友よ、この手紙を読んでいる時に私がどれだけのことを覚えているのだろうか。あの時話した小さな違和感は私を確かに蝕んでいたのだ。
手紙はそうやって始まりました。全てを読んだ私は急いでこちらに向かおうとしましたが、運悪く大きな仕事が入ってしまったのです。それをなんとか片付け、やっと今日私はここへ来れました。どうか、彼の元へと案内していただきたい。
妻はその友人を画家の元へと案内した。そこには相変わらず黙々と絵を描き続ける画家の姿。
少し離れたところへ椅子を2つ置き、友人と座ってその背中をじっと見つめても1度たりとも画家は振り向きはしない。
妻はぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
「あの人はある時から絵の作風が変わり、それまでよりも多くの絵画を描くようになりました」
あれは春のことでした。画家が集まるパーティに参加した次の日から、夫は今までの抽象画とは全く別のものを描くようになりました。それは風景であったり、人物であったり、まるで日常を切り取ったような絵を描き始めたのです。
画商さんは夫に今までのようなものを描いて欲しいと頼みましたが、夫はそれを跳ね除けました。最後の抽象画を引き取っていただいたのがつい先程のことです。
夫は、物忘れが激しくなっていきました。病院にかかるとこれは治ることの無い病で、これからどんどん進行していくだろうと言われました。なくなる記憶とは反対に絵画は増えていきました。
「お辛いことでしょう……」
「いいえ。元々、あまり会話をするような人ではなかったのです。お見合い結婚でしたから、仕方のないことだと思います」
実は、私が頼み込んでお見合いをしていただいたのです。
夫の母は「息子は女に興味を示さず絵ばかり描いている。あなたのような女性に貰われるなら安心だ」と夫に女の影は1度たりともなかったと言っておりました。
しかし、夫は慣れたように記念日には花を贈ってくださいますし、誕生日にはケーキとプレゼントも欠かすことはありませんでした。言葉こそかけてくれないものの、物を贈ることは疎かにしませんでした。初めのうちは、夫も私に対し愛を抱いてくれたのだと思いました。
けれど、時が経つにつれて私は自分が愛されてなどいないのだと思いました。こんなにも良くしていただいているけれど、1度だって愛を告げられることはなかったのですから。だから、だから私は夫の記憶から私が抜けても、それでも良かったのです。
「すみません、こんなことをお客様にお話してしまって」
「奥さん、彼はちゃんと貴女を愛していましたよ」
そう言って画家の友人は妻へと何通もの手紙や葉書を渡した。
それは全て開封済みで、全て画家から友人へと送られた手紙だった。そんなものを読んでもいいのかと妻は思って返そうとするが、友人がどうか読んでほしいと言うので渋々手紙を広げることにした。
そこにはあの喋らない画家からとは思えないほどの言葉があった。
1通目、母が見合いを持ってきた。余計なお世話だ。俺は結婚などせん。
2通目、見合いをした。結婚することになった。
3通目、うるさい。惚れたものは仕方ないだろう。結婚式にはお前も呼んでやる。
4通目、俺は女と付き合ったことがないんだ。どうすればいい?
5通目、助かった。妻も喜んでくれていたようだ。喜ぶ妻はそれはもう愛らしく…
6通目、7通目、………
ポタポタと妻の涙が手紙の色を濃くしていく。
私には、1回も言ったことないのに、手紙には随分書くじゃないですか。私、貴方に愛されていたんですね。こんなにも思ってくれていたんですね。
とても器用に絵を描くのに……とても不器用な人だったなんて、知らなかったわ。
次の日、友人はまた画家の家を訪ねた。絵の沢山置いてある画家の部屋に妻と友人が入ると、画家は1つの絵画を持って立っていた。
「どうしたんだ?」
友人は画家にそう声をかけ近づく。
「この絵、この絵の人はとても美しい。実在する人物なのだろうか?それならば1度でいい。会ってみたいものだ。とても素晴らしい人なのだと、絵からですら伝わる」
友人がその絵を見ると、その絵は妻の若い頃の絵だった。それを確認した友人はニヤつきながら「惚れたのか?」と問うと、画家は耳を赤くしながら「うるさい」と一蹴。それを見た妻はまた泣いてしまった。
それに気付いた画家はおろおろしながら、妻の手を握る。
「君が泣いていると私はどうすればいいのか分からない。どうか、いつもみたいに笑ってくれないか」
まるで記憶が戻ったかのような言葉に妻は画家の手を握り返し、少し歪な笑顔を浮かべた。
その次の日、男はやはり妻のことも忘れていた。
絵も、もう描くことはない。自分で起き上がり食事をすることも精一杯で、妻に支えられながら食事をする。
だけど、2人は幸せそうに暮らしている。
画家の記憶の絵画に囲まれて、2人は残りの時を過ごした。
記憶がなくなっても、絵画が覚えていてくれる。
妻は死ぬ時まで、その思い出の絵画たちを誰にも売ることをしなかった。
いつからだっただろうか。いつからか男は忘れ物をしやすくなり、人の名前もパッと出てこなくなった。過労によるものだろう俺もそうだと画家仲間たちに言われ、ああそういうものなのかと納得した。そして思ったのだ。
いつか全てを忘れる時が来るのではないか。それはとても恐ろしく、悲しいのではないのかと。
幸いにも男は画家であった。
いつか全てを忘れても残るように絵を描こう。
記憶を絵画へ。そして絵画から記憶を呼び起こすのだ。
ああ、そうだ。あの日だ。この絵みたいに桜が綺麗で、風が吹いていた。あの日、初めてあなたに出会ったんだ。
絵画の記憶 天智ちから @tenchikara
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