無知 終

 ずいぶんと分厚くなってしまったと思いながら、手に持った紙の束を見た。ここの施設のことと、地下にある、あの装置のことについてまとめた資料だ。

「本当にこれでよかったんですか」

 その声に振り向くと、ベガは監視カメラから送信されている映像が映し出された画面を見ていた。

 ここは、本館と呼ばれる建物の最上階の部屋だ。

 画面にはベンチに座る二人が映っている。二人の間には距離がある。

「いいのよ、これで。あなた、私の好きなようにって言ったじゃない」

 ベガは、この資料を一緒にまとめてくれた。ベガという名前は彼が自分で付けた。夏に見られる星からとっている。

「そうなんですがね。『私』は…、いや、名もなき『ドクター』は、あなたが知ることを望んでなかった。なのに私が…あ、今の私というのは私自身のことで…」

 ベガのあたふたした様子に思わず笑ってしまった。

「あなたはあなた、ドクターはドクター。別の人よ。あと、この世界について知りたかったのは私よ。だからあなたにあの映像を見せてもらったんだから。あなたが負い目を感じる必要はないわ」

 ベガは笑われたことに不満げな様子だが、それすらも可笑しくてまた笑ってしまう。画面に目をやる。二人は何かを話している。伝わってくる雰囲気はぎこちないが、楽しげだ。

「ドクターの望みは、私の代わりに彼女が引き受けてくれるわ」

「…私とドクターが違う人なら、あなたと彼女も違う人なのでは?」

 ベガはすねた子どものように口をとがらせて言った。その様に苦笑する。

「同じ人であり、違う人でもあるってことよ」

「よく分かりません。天才にもわかるように説明してください」

「意地が悪いわね」

「笑われた仕返しです」

 笑顔を見せたベガに、言い表しようのない安心感を覚える。今のこの瞬間は、ドクターも、私の元になった女性も体験しなかった、私たちだけのものだ。

「あなたとドクター、そして私と彼女は、遺伝子的には同じ人かもしれない。でも違う人生を歩めるのよ。私は知ってしまった事実から目をそらして生き続けることはできない。でも彼女は、これからこの世界を知っていくことができる。自由に生きられるのよ」

「彼女に自由に生きさせたいわりには、彼と引き会わせてしまいましたが」

「彼女にはわたしと同じように助けてくれるパートナーが必要よ。彼の記憶を調整したんでしょう?」

「ええ。時間と共に徐々に記憶が発現していくようにしました。私が作られたときのものと同じ記憶が」

「彼は、彼女の助けになるはずだわ」

 ベガが肩をすくめる。

「わかりました。何を言っても、あなたの意志は固いようだ」

「あなた、外に出るのが怖いんでしょ」

「そうですよ。もともとが引きこもりなんですから」

 私は笑って、手に持った資料をテーブルの上に置いた。彼らがこの施設のことを知りたいと思ったときのために彼らに残しておく。これからは、ここは彼らのものだ。

「じゃあ行くわよ。まだ残っているかも分からない世界を救いにね」

 

 部屋には、監視カメラの映像だけが残った。画面に映る二人は、星を見ていた。何も知らない彼らは、幸せそうに寄り添っていた。

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凡庸なる脳漿 次郎次郎河太郎 @boscojr

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