くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて

新巻へもん

若さとは未熟さの言い換えなのか

 一つ前の数学の時間、三角形の上を点Pが動くときにできる図形の面積を求める問題があった。

 解説で相似とか比とか教師は言っていたけど私にはよく聞いていない。

「点Pっていっつも動いてばかりでキモくない?」

 私の仲間と盛り上がった。

「まじ、それな」

「意味分かんねえし」

「ねえ、佐々木。なんで点Pって動くんだろな? まじダルくね?」

 私は何の気なしに体を捻ると後ろの席で教科書を読んでいる佐々木に声をかける。

 別に深い意味はない。

 誰かと話すことなくいっつも勉強している佐々木なら知っているかもと思っただけだ。

「知りませんよ。そんなこと」

 顔もあげずに佐々木は言う。

 いくら高校受験を控えているからって勉強しすぎじゃね?

 でも、こいつの塩対応はいつとのことなので、答えないならそれでもいいやと体を戻そうとするときにポツリと言った。

「Pも動きたくて動いているわけじゃないかもしれないですね」

 小さな声だから、他の人には聞こえなかったようだ。

「ねえ、シノッチ。今日、帰りにドーナツ食べに行こっ!」

 そう声をかけられて、佐々木がどういう意味でそんなことを言ったのか聞けなかった。


 そして、3か月後、地元の高校で私は佐々木と同じクラスになる。

 佐々木は県庁所在地になる進学校に行くものばかりと思っていたから驚いた。

「高校でも一緒だね。ヨロッピ」

 中学で仲の良かった子たちは別々のクラスとなる。

 そんな中、佐々木はクラスが同じだけじゃなくて、私の前の席だった。

 これはもうなんかの運命じゃね。

 そう思った私は佐々木のことを観察することにした。

 1年生で買ったばかりのはずなのに妙にサイズが合っていなくて、生地がてかっている制服を着ている。

 そそくさと食べ終えて勉強をしている弁当のおかずはモヤシのことが多かった。

 部活に入っていないのに放課後の誘いには絶対に応じない。

 新しくできた取り巻きとファミレスでだべっているときに佐々木の名前が出たのを耳にする。

「佐々木んちってクッソ貧乏らしいぜ。本当は一高志望だったんだけど、通う金がなくて諦めたらしい」

「それじゃ、俺たちのこと内心バカにしてるんだろうなあ」

「付き合い悪いし、そーかもしれないね」

 思わず言葉が口をついて出た。

「アホか。金がなけりゃ遊びに来れるわけないじゃん」

「だから、篠田さまに奢ってもらえばいいって言ったんだよ」

 そりゃ、私が全部払うこともあるけどさ。

「お前が言うな」

「さーせん。本当に感謝してますって。で、佐々木がなんと言ったと思う? 施しは受けないだってよ。マジ受ける」

「金がないのに無理しちゃって。あ、いいこと考えついちゃった。釣りやるからってアイツ、パシらせてみよっかな」

「いいねえ。ウィンウィンってやつっしょ」

「ふざけんな。そんな金あるんなら、今日はお前ら自分で払えよ」

 私には金しかない。

 親は私に関心がなく十分な小遣いを渡せば十分だと思っている。

 その金で私は友達を買っていた。

 誰かが私に吐き捨てたことがある。

「金の切れ目が縁の切れ目」

 じゃあ、金が絡まなきゃ、ズっ友ってか。

 心愛と紫緒はあれだけ仲が良かったのに、男を取り合って喧嘩別れをした。

 別に私が金払いがいいから人が側にいてくれるんで全然いい。

 だって、私に他に何がある?

 勉強はぜんぜん得意じゃないし、心愛や紫緒ほど可愛くもない。

 それに、どうせ心の中で何を考えているかなんて他人には分からないんだ。


 ファミレスで話を聞いてから、私はますます佐々木が気になった。

 ネグレクトぎみの親に代わって妹の面倒を見ながらバイトで稼ぎ、大学に進学する金を貯めていることを知る。

 制服は知り合いからお下がりを譲り受け、モヤシと見切り品のひき肉で弁当を作っていた。

 休み時間に勉強しているのだって、そこしか時間がないからに過ぎない。

 私は、せめてもうちょっとまともな物を食わせたい、という謎の使命感にかられた。

 しかし、佐々木は施しを受けることを嫌がっている。

 チャンスは他の科目に比べればまだマシな国語の小テストのときに訪れた。

 テストが返却されると今回は自信があったのに×がついている。

「ねえ、佐々木。これ、オカティ採点間違えてるっしょ?」

 岡本ティーチャー、略してオカティはそそっかしい。

 私が背中をツンツンすると佐々木は振り向いて、私のプリントをチラリと見た。

「間違えてません。ここもここも不正解です」

 指さす先には茶川龍之介と紫色部と書いてある。

 いや、これ、正解でしょ。

「茶じゃなくて下はホじゃなくて、2本線です。色じゃなくて式ですね」

 鉛筆で私の回答の横に字を書いた。

 そして佐々木はフッと笑う。

「篠田さんにしては良く頑張ったんじゃないですか」

 たぶん、純粋に褒めてくれていたはずだ。

 佐々木のそのセリフに私は閃く。

 あとで考えれば実にくだらない思い付きでしかなかったのだけど、そのときは自分を天才だと思った。

「は? あんた、私のこと馬鹿にしてんでしょ。これはちょっと鉛筆が勢いで滑っただけだし。じゃあ、次のテストの点数で勝負な。負けた方が勝った方に購買でパン一つ奢るってことでどうよ?」

「そういうのはちょっと……」

「私の本気見せてやるから。逃げんなよ」

 死ぬほど頑張った結果は15点対19点。

 もちろん私が勝った、などということはなく、購買で買ってきた一番人気の焼きそばコロッケパンを佐々木に押し付けた。

 むにゃむにゃ言う佐々木に啖呵を切る。

「ここで奢らなかったら私が嘘つきになるだろ。次は負けねーからな」

 こうして、私の連敗記録が10になったところで、佐々木がきっぱりと言った。

「篠田さん。あなたがテストの点数で僕に勝てるはずはない。これ以上、施しを受けるのはお断りします」

 ちっ。これだから頭のいい奴は嫌いなんだよ。

「何が施しだって? こりゃ賭け事だろ」

「これだけ勝敗がはっきりしているものは賭けが成立しません。いずれにせよ。僕はもう受けませんので」

 あまりに明確な拒絶にカチンときてしまう。

「勝ち逃げすんのか? この、卑怯者」

 口から出た言葉に自分で驚いた。

 違う。そうじゃない。私はそんなことが言いたかったんじゃない。

 私の浅知恵で始めたことが破綻するのに必要なのはたった1秒。

 後悔する暇すらない。

 佐々木の顔色が変わった。

 口から無理やり押し出すような声で言う。

「分かりました」

 翌日、今までに私が奢ってもらったものが私の机の上に積まれていた。

 チリツモである。

 私にとっては大したこと無くても、佐々木にとってはどれほどの大金だろうか。

 背中でもう話しかけてくるなという意思をみなぎらせて座る佐々木に、私はどうしていいのか分からなかった。


-完-

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