第六章
高杉は週に一度のペースで「ブルーアトワ」に通い詰めた。言うまでもなく、美佳に会いに行くためだった。
中洲で最高級のソープ店はかなり値段もはる。それは貯蓄の一部を切り崩さねばならないほど彼の懐事情にダメージを与えたのだが、それでも彼女の出勤日にはわざわざ指名予約までして、意気揚々と中洲の歓楽街へ出かけていった。店の黒服たちには、風俗店のキャストに本気で入れあげる典型的な痛い客だと嘲笑されていたことだろう。
会うたびに高杉は美佳に惹かれていった。今では彼女を「美佳」と呼ぶようになっていた。だが虚しいことに、その名はあくまで彼の胸の内だけでの呼称だった。いまだにソープ店の一室で彼と顔を合わせる彼女は「ジュリナ」だった。
何度か本名を教えて欲しいと頼んでみた事もある。本当の名前で呼びたかったからだ。彼女との距離を縮めたかった。だがそう伝えると彼女は、少し困ったように眉根を下げる。
常連客の機嫌を損ねぬよう、適当な名前を言って取り繕うことも出来たはずだ。そうしなかったのは彼女の誠実さがゆえだと解釈した。
なぜそこまで美佳という女にのめり込むのか、彼自身、判然としない。三年前、偶然見つけた少女の写真。その生身の姿に出会ったという奇妙な巡り合わせに運命らしきものを感じ、陶酔していただけなのかもしれない。
また、美佳と知り合ったことで、彼女の父親だと思われる工藤賢太に関する事件はその後どう進展したのかという点も再び心に引っかかりを生じさせた。
そもそもあの出来事が捜査機関に発覚しているのか、事件化されているのかすらも不明だった。当時高杉が調べを尽くした限り、その兆候はなかった。
当初は逮捕の恐怖に怯え、寝ても覚めてもそのことばかり考えていたはずだ。しかし何事もなく時が経過していくにつれて、その不安もだんだんと薄れていったのだった。
三年前のあの場所で自分が目にした光景。自分がやったこと。何もかもが幻だ。何もかもなかった事にして、美佳と結ばれたいと願った。だが事態は彼の都合のいい方には転ばなかった。
少し遠いところへ行きたいな、ここから少しだけ離れた場所がいい、と彼女は言った。
美佳と出会って一年以上が過ぎていた。彼女の予想外の返事に高杉は有頂天だった。玉砕覚悟で、思いきってデートに誘ったのだ。
彼女のプライベートの時間を独占できるのならば、行き先などどこだってよかった。
高杉たちは全国有数の温泉地、大分県別府市の温泉旅館を訪れていた。美肌の湯で有名な
「温泉、気持ちよかったね」浴衣姿の美佳が、舟盛りの刺身を口へ運びつつ微笑んだ。普段は降ろしているロングヘアーが、アップに纏められているのが新鮮だった。「高杉さん、今日はありがとう。お店以外で一緒にいられるの楽しかったし、いい気分転換になったよ」
「それならよかった。俺も温泉なんて久しぶりに来たな」
「誘ってくれて嬉しかった。別府の温泉街って街全体が真っ白な湯煙に包まれてるみたいで、すごく幻想的」美佳は窓外に視線を向けた。
ここ一年のあいだ足繁く店通いをした甲斐あってか、彼女から一定の好感を獲得できているという自負があった。それは自惚れだろうかと思うときもあったが現にこうして遠出の、しかも泊まりでのデートを快諾してくれたわけなのだから、まんざら高杉の一人相撲でもないはずだ。
彼はグラスに残ったビールを喉へ流し込み、彼女の横顔に言った。
「なあ、もうそろそろ、その高杉さんって呼び方やめてくれよ」
美佳が高杉に視線を戻し、怪訝そうな顔をした。「え?じゃあ、何て呼べばいいの?」
「うーん……。もっと打ち解けた感じで、下の名前を呼び捨てで呼んで欲しい」
「隼平って?無理よ。お客さんに呼び捨てなんてしたことないもん」片手を口に当てて彼女は笑った。提案は却下されたものの、ずいぶん前に教えたはずの自分のファーストネームをさらっと口にしてくれた事が、高杉には満足だった。
美佳のグラスにビールを注ぎ、残りを自分のグラスに手酌で注いだ。
「ねえ、高杉さんって普段悩んでることとかないの?」
「悩み?どうしたんだよ急に。俺って悩みとかなさそうに見える?」唐突な問いかけに苦笑した。だが彼女の方はいたって真剣な表情だ。
「ううん、別に深い意味はないんだけどね。そういえば高杉さんって私が風俗のお仕事してる理由、全然きいてこないなあって思って。常連さんってだいたい皆んな訊いてくるのに」
「人それぞれ事情があるだろうからな。質問されて気分がいい内容でもないだろうし。でも正直気になってはいたよ」言葉とは裏腹に、他の客の影がちらついてしまい、内心少し鼻白らむ思いだった。
やっぱりね、と独りごとのように呟いて彼女は微笑んだ。「高杉さんは私の気持ちとか、気にかけてくれてると思ってた」
彼女の方からそういった話題を振ってくるということは、尋ねて欲しいという事だろうか。高杉は真っ直ぐ美佳の目を見つめた。
「もしよければ話して欲しい。どうしてジュリナは、今の仕事をしているんだ」
美佳は一つ呼吸を置き、それから口をひらいた。
「私の家お金に困ってるんだよね。私が高校生の頃から、働き手が母一人になっちゃったから」
高杉は小さく頷いた。ありがちな話だな、という感想をいつもならば抱くところだ。家計を支えるために身を粉にして働いているという美談を語る風俗嬢は少なくない。情に絆された客がチップを弾んでくれることもある。そして、そう語る彼女たちの多くは、業界の歴に比例して身につける物が高価になっていく。
だがこのとき彼が抱いた感想は全く別のものだ。背筋に冷たいものが走った。やはりそうか、と思った。あの日、工藤賢太は何者かに殺された————。
そして、高杉はその
「ああ、前に聞いたかもな。母子家庭で育ったんだっけ」精いっぱい平静を装った声でそう答えた。
「ううん、そうじゃなくて、父がずっと入院してるの」
えっ、と不自然に大きな声を漏らしてしまっていた。「お父さん亡くなってないのか?」
「え?うん、一応生きてるよ。ていうか母子家庭だなんて今まで話したことないと思うんだけど……」
美佳は怪訝な表情で小首を傾げた。
「ああ……そうか、勘違いだったかな」
血を流して倒れていたあの男、工藤賢太は生きていた——。それにしてもあれから三年も経つというのに、今も入院中だとは一体どういう事だろうか。
「父は私が高校三年生のときに事件に巻き込まれたの。中洲近くの公園で強盗にあって、頭を強く殴られたみたいで今も意識が戻らないんだ」
美佳が発した「強盗」という言葉に狼狽し、彼は俯いた。確かに状況からみて、父親を襲った人物が財布を持ち去ったと考えるのが通常だろう。
工藤を襲ったのは高杉ではないが、罪を犯したこと自体に変わりはない。にもかかわらず、その被害者の娘に想いを寄せている。盗人猛々しさここに極まれり。高杉は胃に鉛をのみ込んだような鈍痛を感じた。
おそるおそる美佳の顔を見上げる。「それで、その犯人は捕まった?」
「それがまだ逮捕されてないんだよね。事件が起きてすぐのときは、頻繁に刑事さんが家に訪ねて来てたんだけど、最近では全然。父が昏睡状態のままだから被害に遭ったときの状況もわからないし、捜査が行き詰まってるみたい」
「親父さんの入院費なんかはどうしてるんだ?」
「私のお給料から払ってる。家族にはキャバクラで働いてるって言ってるけど、弟の学費もあるし風俗でもやらなきゃとても賄えない」
美佳は泣き笑いのような表情で言った。目元が少し赤らんでいるように見えた。
ふいに高校生の頃の彼女の顔が脳裏に浮かんだ。工藤賢太から盗み取った財布から見つけた写真の、一七歳の彼女の笑顔だ。笑顔ではあるが、あの写真もちょうど今のような表情だったような気がする。
「なあ、俺はいつでも味方だからな」高杉は膝の上で両のこぶしを握った。「余計なお世話かもしれないけど、親父さんの入院費、俺にも手伝わせてくれよ。美佳の助けになりたいんだ」彼女の目をまっすぐに見つめてそう言った。彼女の観心を買いたいがためだけでなく、贖罪の意思から出た言葉でもあった。
美佳は一瞬目を見張り、驚いた表情を見せたが、すぐに微笑を取り戻すと首を横に振った。
「高杉さんにそんな事してもらうわけにはいかないよ。それに今の仕事続けてるかぎり、なんとか払っていけるから」
「でも、いつまでも今みたいな仕事をずっと続けるわけにはいかないだろ?親父さんの容態だって、いつ回復するか分からないだろうし」
彼女は視線を落とし、黙り込んでしまった。この話は今日のところはやめにしておいた方が良さそうだなと思った。話の行きがかり上とはいえ、風俗嬢に説教する中年親父めいた台詞を吐いてしまったことを後悔した。
夕食を済ませたあと、旅館の近辺を二人で散策した。空気が澄んでいて、星が綺麗だった。彼女が自分の事を知ろうとしてくれている事が嬉しかった。
これまで他人に話さなかったような、いろいろな話をした。
高杉は熊本市の旧城下町で生まれ育った。祖父の代から受け継がれた家屋敷からは、聳え立つ熊本城の天守閣を拝むことができる。両親と、二つ下に弟がいる。弟の啓介はどこへ行くにもちょこまかと兄のあとについてくるやつだった。同級生数人と連れ立って遊びに行くときにも、後ろをずっと付いてくる弟を疎ましく思った記憶がある。
警察官である父の勧めで、小学三年生のときに近所の道場で剣道を習い始めた。初めて出場した県の大会で三位に入賞した。道場の先生や仲間たちから、父親の血を引いて才能があると賞賛された。もちろん自分自身も誇らしかったが、そのときの母親の嬉しそうな表情をより印象的に覚えている。
毎年、文化の日には剣道の日本選手権が開催される。父が予選を勝ち抜いて熊本県代表として出場したときは
優勝者インタビューでアナウンサーが「本日は奥様のお誕生日ということで、最高のプレゼントになりましたね」と言った。文化の日が母の誕生日だった。
「お父さん、すごい人なんだね」両の手を後ろ手に組み、少し前を歩く美佳が言った。
温泉街の通りは、側溝からも湯煙が立ち昇ってる。彼女は時折それをのぞき込むような仕草をしながら高杉の話に耳を傾けていた。
「そうだな。日本選手権を制覇するくらいだから、すごい選手だったんだと思う」
「高杉さんは?今は剣道してないの?」
「俺は高校で辞めたよ。大した才能がなかったんだ」
高校には剣道の特待生として入学した。中学時代の活躍を買われ、過去に全国制覇を何度も達成している地元の名門校からスカウトされたのだ。
だがその高校で、高杉は卒業まで一度も公式戦に出場することが出来なかった。レギュラーメンバーに入るために毎日血の滲むような努力をした。実際に血尿が出たことも何度かある。それでも努力が実ることはなかった。試合の当日には出場選手の道具運びや雑用ばかりこなしていた。
高杉が高校三年の春、弟の啓介が入学してきた。彼もまた特待生としてスカウトされたのだ。啓介は全中を個人優勝し、鳴り物入りでの入学だった。
彼は入部して間もなくレギュラー入りした。五月に福岡で開かれる全国大会では彼の大車輪の活躍によってチームは優勝した。テレビカメラの前で監督や両親に感謝の言葉を述べる弟の姿が、小学生のときに見た父の姿と重なってみえた。高杉はその日一日、弟の道具運びをしていた。
その日以降、今日まで一度も竹刀を握ったことはない。高校最後の夏の大会を待たずに、退部届けを出した。
宿に戻ると飲み直すこともなく床に入った。明日は朝早くから別府市内を観光する予定だ。部屋の灯りを消し、二つ並んで敷かれた布団にそれぞれ横になった。しばらくあお向けのまま目を閉じていると、徐に美佳がこちらへ潜り込んできた。甘えるように高杉の首元に抱きついた。彼は彼女の浴衣の帯を解き、唇を重ねた。
店のベッド以外で触れる彼女の肌の感触はより一層艶やかに感じた。行為の後、裸で抱き合ったまま二人は眠りについた。
目が覚めると、まずはじめに天井の木目が視界に入った。次に障子の隙間から差し込む朝の陽光。日常と異なるその感覚の中で、ここは別府の温泉旅館であること、昨日から馴染みの風俗嬢と一泊旅行に来ていることを徐々に思い出した。隣に寝返りをうつと、そこに彼女の姿はなかった。並べて敷かれていたはずの布団もなかった。まるではじめから誰も存在していなかったかのようだ。畳のささくれを二本みつけた。
寝ぼけた頭を起こすため、洗面所に立った。冷水で顔を洗い流すと、後頭部の鈍い痛みに気がついた。昨夜はそこまで深酒しなかったはずなのに。ドレッサーの鏡が映し出した彼の両目は赤く充血していた。
和室へ戻りテレビをつけて畳の上にどっかと腰をおろした。大分ローカルのニュース番組に視線を向けてはいるが内容は何一つ頭に入ってこない。
意識的に考えることを後回しにしていたが、そろそろはっきりと自覚せざるを得なかった。部屋に彼女の気配が感じられないのだ。手洗いの方に声をかけてみたものの、その時にはもう彼女がここにいない事には気がついていた。さっき洗面台に立ったとき、彼女の靴や私物の一切が消えていることは確認済みだった。
何者かに攫われたという考えも浮かびはしたがすぐに打ち消した。旅館の一室で同じ布団で寝ていたのだ、現実的にみてその可能性は皆無に等しい。状況から察するに彼女の意思でこの場を立ち去ったと考える他なかった。
枕元の携帯電話に手を伸ばした。もしかすると彼女からメッセージが届いているかもしれない。しかし新着メッセージはなかった。
それどころか、今までの美佳とやり取りしてきたメッセージの履歴が全て消えている。そしてもっと重大なことに、美佳の連絡先そのものが消えていた。
いったいどういう事だろうか。彼女が高杉の携帯のロックを解除して操作したのか。だがロック解除のパスコードは他人がすぐにわかるような設定にはしていない。解除することは彼女には不可能なはずだ。
そう思う一方で、美佳が姿を消した事と、彼女からのメッセージや連絡先の登録が消えている事を関連付けて考えずにはいられなかった。
昨夜の高杉の言動に、なにか彼女の不興を買うようなことがあっただろうか。いくら考えても、少なくとも昨日の彼女の態度からはそんな様子は微塵も感じとれなかった。
ただ一つ気になった事がある。昨夜の会話で、美佳の父親の入院治療費を高杉が負担したいと申し出たとき、表情がほんの一瞬曇ったように感じたのだ。あれは遠慮という類のものではなかったように思う。どちらかと言えば不快な表情だったはずだ。他人に施しを受けることが彼女のプライドを傷つけたのだろうか。
いや、違う——。そうではない。昨夜の、この部屋での記憶が徐々によみがえった。
あのとき、彼は彼女を「美佳」と呼んだのだ。
彼女と知り合って以来、常に注意を払っていたことをすっかり失念していた。彼女がした打ち明け話の内容に驚き高杉の平常心は失われた。
目の前のこの男は、なぜ知るはずのない私の名を口にしたのか。口にすることができたのか。内心動揺したにちがいない。彼女は常日頃から、自分のプライベートの領域に立ち入られることを特に警戒している風俗嬢だった。
しかし彼女は一瞬強張ってしまった表情をすぐに立て直した。その場で直ちに高杉に問い質すこともしなかった。そうしたとしても、聞き間違いだとか適当な口実をつけられて逃れられてしまうと判断したのだろう。そこで、高杉が自分の本名を知るに至った手がかりが何かないかと考え、最も手近で可能性がありそうな携帯を調べることにした。
だがどうやってロックを解除することができたのだろうか。その点についても昨夜の記憶を辿るにつれ、やがて合点がいった。歪めた口元から思わず自嘲の笑みがこぼれる。
そうだった。昨夜彼女に促され、自分の生い立ちや過去の出来事を語った。その中で、父が日本選手権を制した文化の日は母の誕生日でもあったという話をしたのだ。
自分はつくづく間抜けだなと思った。高杉の携帯のロック解除パスコードは1103だった。
湿った敷布団にごろりと寝転がり、徐にスマホを開いた。もう
だがそれが、どこにも見当たらない。
女衒屋彷徨録 絢絢 @mohriken
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