第五章
高杉は
ここ五、六年ほどの間に、この辺りで耳にする言語は日本語以外のものが格段に増えたように思う。
目的の場所はこの通りを抜けた先にあった。「ブルーアトワ」の看板が見えた。店の入口に立つ従業員の男が「もうお決まりですか」と声をかけてきた。黒のスーツ姿に少し色の入った銀縁メガネをかけた、いかにも風俗店の黒服らしい
彼は店の入り口に立ったままで、こちらに近づいて来る素振りはない。風営法の締め付けが厳しくなってからというもの、かつてのように通行人に付きまとってしつこい客引きをする者は減った。
高杉が予約をしている旨を伝えると店内へ通された。受付で前払いの清算を済ませ、部屋へ案内される。
室内にはソープ店特有のシャボンのような香りが立ち込めていた。脱いだ上着を
指名予約していた嬢は、言うまでもなく「ジュリナ」だった。あの日感じた正体不明の
しばらくしてドアがノックされた。返事をすると、ドアが開き小柄な女性が姿をみせた。彼女は「ご指名ありがとうございます。ジュリナです」と言って深々と礼をした。どうも、と高杉も反応した。
顔を上げた彼女は、口もとに
そして、やはり何処かで見た記憶がある、と高杉は思った。
過去に面識があったかどうか、直接彼女に尋ねてみようかと思った。だがそれは
風俗嬢にとって、知人が客として現れることは歓迎できることではない。それどころか最も避けたい出来事であるはずだ。
それに高杉と顔を合わせても、彼女にこれといった表情の変化はなかった。やはり思い過ごしなのだろうか。
ジュリナはゆっくりと高杉のもとへ歩み寄ってきた。触れる事ができるほどの距離までくると、ふいに背中を向けた。「はずして」といった。少し鼻にかかったような甘い声が心地よかった。
キャミソールの首から背中へかけて、ボタンが並んでいる。高杉は言われるがままにそれに手をかけた。全て外し、キャミソールを一気に引き降ろした。
彼女のきめ細やかな肌はまるで陶器のように滑らかだった。高杉は、後ろから彼女を抱きすくめた。股間が激しく
「お兄さんの、あたってる」ユリナが後ろ手で高杉の股間のあたりを撫で、そしてズボンのジッパーを降ろし始めた。振り向きながら、流し目でこちらを見る彼女と目が合った。
そういう目つきをすると、彼女の左の瞳は黒目が若干内側に寄っているように見える。少し内斜視気味なのかなと思った。だがその彼女の特徴も、高杉には可憐に思えた。
そのときだった。高杉の記憶の一部が刺激され、よみがえった。
そうだ。あのときの少女だ——。
降ろしきったジッパーの間に手を入れ、ユリナは高杉の陰茎を露出させた。
手や口を使って奉仕する彼女の顔を見下ろしながら、三年前の公園での出来事を思い返していた。
あの日高杉は仕事の合間に公園で時間を潰していた。そして偶然見かけた意識のない中年のサラリーマンらしき男の財布を盗んだ。その財布の中には写真が二枚入っていた。
今、
あのとき高杉は、男の財布を持ったまま逃げた。酔い潰れているだけだと思っていた中年のサラリーマンは後頭部から血を流して気を失っていた。もしかすると死んでいたのかもしれない。
そして、彼が男の鞄を物色する様子を、陰からじっと窺う者がいた。その存在に気づき、
その後しばらく怯える日々が続いた。事件に関するニュースが出ていないか、報道番組や新聞をくまなくチェックした。死体から金品を盗む行為はどういう罪に問われるのかネットで調べたりもした。当然のことながら、知人に相談などできなかった。
もっとも恐れていたのは、殺人犯に仕立て上げられることだった。男の服や鞄から高杉の指紋が検出されているはずだ。彼には条例違反の前科があり、その際に指紋や掌紋、DNA型にいたるまで警察に採取されていた。それらは警察のデーターベースに保存されているはずである。
いつ自分のもとに警察が訪ねて来てもおかしくない状況だと思った。情けないことに朝方、勧誘や宅配業者のインターフォンが鳴るだけでも鼓動が高鳴った。
だが、幸いというべきか高杉のこの不安は杞憂に終わった。それから数日たっても数ヶ月たっても警察の来訪はなかったのだ。新聞やニュースに、この件が取り上げられることもなかった。
「ブルーアトワ」をあとにして帰宅するとすぐに、施錠したデスクの
写真は二枚入っている。そのうちの一枚は、制服姿の女の子とその隣に小学校高学年くらいの男の子が椅子に腰掛けており、それを挟むようにして夫婦と思われる男女が写っている家族写真である。
もう一枚は少女一人の写真だ。少し垂れ気味の大きな目や、小ぶりだが美しい鼻すじ、口元のホクロの位置も全て、今しがた店で目にしたばかりの彼女の
カメラ目線でほほえんだ左の瞳はやや内側に寄っていた。人の容貌の評価として、マイナスの印象を与えかねない特徴かもしれないが、それがむしろ彼女の美貌を底上げしているように高杉には感じられるのだった。それは同時に、この写真の少女がジュリナ本人に間違いないと確信をもつ根拠でもあった。
高杉は財布の中身をあさった。現金もカード類もそのままの状態で保管していた。免許証の名前を確認した。氏名の欄に「
彼は、やにわにスマートフォンをジーンズの尻ポケットから取り出すと、免許証と写真二枚を撮影した。
ふと、片方の写真を裏返してみた。少女が一人で写っている方の写真だ。
そこには、手書きで小さく「美佳、十七」と記されていた。
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