無題②

 彼女の部屋には、狭く暗く、息苦しい雰囲気が漂っていた。


 あくまで僕の感覚ではあるが、彼女の部屋は一ヶ月前くらいに訪れたときよりも、かなり荒れ果てていた。玄関には、履き慣らしていない新品の靴ばかりが転がり、廊下には飲みかけのペットボトルや、ゴミ袋などが散乱している。


 彼女が靴を集めるのが趣味だったことは覚えている。しかし、これはあまりにも酷い。玄関には、足の置き場などなく、靴が何重にも積み重なっている。もうどれがペアなのか分からない状態だ。


 部屋の乱れは心の乱れ、などという、そんな言葉を軽く言えるような状況では、もうすでになくなっていた。


 電話越しには感じられなかったが、彼女は今かなり精神的に大変なときなのではないだろうか。


 僕はそんな気を起こしながら、扉の向こうに閉ざされた彼女の姿を求めて、ノブに手を掛けた。


 左手には差し入れの袋を持って。


 右手でゆっくりと、そのドアを押した。



★★★★★★★★★★★★★★★



「すぅ……すぅ……すぅ……」

「んがぁああああああああ。んがあああああああ……」



 僕は左手に持っていた差し入れの袋をするりと、床に落とした。


『がさっ』


 虚しい音が反響する。


 僕は何度、自分の目を疑ったことだろう。


 眼の前にいる、寝息をたてている二人の存在を、どうしても認めたくない。


 誰だ。

 

 この男は。


 誰だ。


 こんな男を家にあげている女は。


 誰なんだ。


 僕に知られないままに、抱き合っていただろう、こいつらの名前は。


 ……


 ……


 この女は、本当に僕の知っているお前なのか。


 ……


 ……


 僕は、心のなかで、そんな憤りを何回も何回も、反芻して、反芻して。


 しかし、その思いを一向に消化しきれずにいた。



「すぅ……すぅ……すぅ……」

「んがぁああああああああ。んがあああああああ……」

 


 それもそうだろう。


 今、目の前で、自分の彼女が名前も知らない男と一緒に寝ているんだ。


 この汚い、ゴミで溢れた部屋のなかで。抱き合って寝ているんだ。


 裸で……


 お互いの体の形を確かめあっているかのように、くっついているんだ。


 ……


 ……


 いつの間に、こんなことになってしまったのだろう。


 いつの間に、こんな男と関係を持っていたのだろう。無精髭を伸ばしたい放題の、いかにも自由人といった、世捨て人。僕の一番、苦手なタイプの人間だ。こういう人に限って、個性豊かで人間味があったりするんだ。だから君はつまらない僕のことを忘れて、こいつと寝たのかな。。。


 いつの間に、部屋がここまで汚くなってしまったのだろう。僕が掃除をしないと、駄目な人だとは知っていたけど、まさかここまでとは思ってもいなかった。その男と関係を持ったことも、影響しているのかな。どうなんだろう。教えてほしいな。


 駄目だ。僕、メンヘラみたいになってるな。。。


 ……


 ……


 僕の知らないところで、どうしてこうも、自分以外の人間は変わっていくのだろうか。


 僕が大切にしている人ほど、どうして僕の思い通りにはなってくれないのだろうか。



 ……


 ……


 

 どうして僕はこんなにも悲しいのに、涙の一つさえも、出てくれないんだろうか。


 心のままに泣き叫んだり、怒ったり、できないんだろうか。


 どんなにつらくても、自分の境遇を相対化して考えてしまう癖のある自分が、本当に心の底から嫌いだ。どうして僕は、こうも感情を表に出せない、表向きは冷静に見える人間になってしまったのだろう。心はこんなにもぐちゃぐちゃになってしまっているのに。


 ……


 ……


 どうしてばかりが僕の人生を埋め尽くしていく。



「すぅ……すぅ……すぅ……」

「んがぁああああああああ。んがあああああああ……」



 目の前で、二人が気持ちよさそうに、寝ている。


 安酒の空き缶に囲まれて、寝ている。


 酒に酔いしれているように、二人は二人の心地よさに酔いしれて、僕のことなど眼中にないといったふうだ。



「ああ、僕はもしかしたら、この空間にこの上なく、場違いな存在なのかもしれない」



 ずっと、そんな二人を見ていて、面倒くさい自問自答を繰り返していたからだろうか。


 僕の心のうちにあった、怒りは、いつの間にか自己嫌悪の波に飲まれて、どこかへ消え去ってしまった。



「思えば、僕は彼女と3年間一緒に付き合ってきたけど、まだ一回もこうして堕落した生活を送ったことがなかったな。もしかすると、彼女はこういう生活を望んでいたのかな。僕と過ごす3年間は多分、ちっとも楽しくなかったんじゃないかな」



 僕は後退りをするように、二人から離れていく。


 もう、何も信じられなくなってしまいそうだ。


 何を間違えているのだろう。



「何をしたら、偶然に家族が死んでしまう、なんてことが起こるのだろう」




 どうして、僕だけこんなにひどい仕打ちばかりを受けないといけないのだろう。



「どうして。どうして」



 どうしてどうしてどうして……



「僕はこんなにも、不幸なんだ」



 僕がそう、言った瞬間だった。



「お前ってやつは、本当に悲劇のヒロインってやつに憧れてるんだな。ここまでかっこ悪いやつは初めて見たぜ。人の女も抱けて、最高に気持ち悪いやつにも出会えて、俺はなんて幸せなんだ」



 名前も知らない男、僕の彼女を寝取った男が、口を開いて、そんなことを言った。どうやら、寝たふりをしていたらしい。


 ずっと、最初から、僕の独り言を聞いていたといった喋り口だった。



「家族が死んだんだってな。それは可哀想なことだ。ご愁傷様ですってやつだな」



 男は僕の彼女の胸を揉みしだきながら、そんなことを流れるように口にする。


 時折、彼女の口から微かな喘ぎ声が漏れる。僕はただ、それを呆然と聞くことしかできない。



「でもな。それで全ての出来事において悲観的な眼差しを向けてしまっては、駄目なんじゃぁないのか、自分よう?」

「…………」

「もうそろそろ、世の中を公平な立場から見つめ直す態度で生きてもいいんじゃぁ、ないのか?」

「…………」

「お前がそれを言うなって顔してるなぁ」

「…………」

「人の彼女に手を出すような、糞虫が言うセリフじゃないって思ってるよなぁ」

「…………」

「でもなぁ。そういうことを思うってことは、俺の言ってることに反論できない何よりの証拠じゃあ、ないのか?俺の言ってることがアホンダラだったら、そんなことちっとも考えないんじゃないか?」

「…………」

「くくくっ。お前って本当に頭が固いんだなぁ。彼女の中は柔らかくて、温かいぞお?今からお前も入れ直すか?俺が使い倒した後でいいならだけどなぁ」



 男は、僕の彼女の体を好き放題に弄って、僕に見せつけてくる。


 何度も何度も、僕が見てきた、その彼女の体が、まるで全く異なる物体であるかのように思えてきてしまう。



「なぁ。どうしてこの女が俺なんかと寝たと思う?なぁ?」



 僕は拳を握りしめる。この男のことを今すぐにでも殴り飛ばしてやりたい。その手を、体を、彼女から引き剥がしてやりたい。


 でも、その心とは反対に、体はまったく言うことを聞かない。まるで、学校の先生を恐れている優等生かのように。ぴくりとも体が動こうとしない。



「教えてやろうか?俺にはちゃあんと教えてくれたぜ。彼女、なんていったと思う?当ててみろよ」



 男は、そのふにゃんとしたものを自分でしごき始めた。とても滑稽な姿がそこにはあった。



「あはははははっは。答えられないんだ。あはははは。いいよいいよ。特別に教えてやるよ。彼女なぁ……。大学で俺がナンパした、その日の夜に俺と寝たんだけどなぁ。行為しながら、こういったんだよ」



 彼は大きくなったそれを、僕に見せつけながら、こう言った。



「彼のより大きくて、気持ちがいいわ」



 そんなエロ漫画でしか聞いたことのないようなセリフを、その男は堂々と実物を示しながら、言った。


 自信満々な男の顔は、まだ酒が残っているようで、真っ赤に火照っている。




「だってさあああああああああああああああああああああああ。お、お、お。おげぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」

「えっ……」



 そして男は盛大に嘔吐した。


 彼女の部屋に名前も知らない男の吐瀉物が撒き散らされていく。どういうわけか、男はフラフラと室内を歩きながら、全体に満遍なくそれを撒き散らしていく。当然のように、その嘔吐は彼の自慢のイチモツにも注がれている。



……


……


……



 一体これはどういう状況なんだろうか。全てが非現実的な光景のように思えてきてしまう。見知らぬ男に、しかも彼女を寝取った男に、好き勝手説教された果てに、見たくもない男の性器を見せつけられ、終いに彼女の部屋に嘔吐を撒き散らされる。



 この出来事になんと名前を付けようか。



……


……


……



「ああ、なんか。何もかも。彼女も。この変な男のことも。どうでもよくなってきたな。なんだよ、これ。どうして俺は見知らぬ男の体液の飛沫が飛ぶ空間にいるんだろうか。彼女を寝取られた?なんだ、それ。あはは。なんかこの世界、根本的におかしいんじゃないか?」



 男が膝を付き、倒れ込むようにして、くたばっている。


 僕はそれを見て、なんだか哀れだなと、そんな率直な感想だけしか抱くことができなかった。



「はは、この世界はもしかすると大きな大きな、夢なんじゃないのか?」



 僕はそんな言葉を残して、彼女の部屋をあとにした。



「すぅ……すぅ……すぅ……」


………


………


………



 空は冷たい、冬空の様相で僕を迎えいれた。



【続く】

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