無題③

 僕は彼女の住む部屋を出て、しばらくその個人経営のお店が多く点在する街中をふらついていた。


 歩いていても、地に足が着いていない感覚がして不思議な気分だ。


 彼女が寝取られて、その上、訳の分からない説教までくらって。


 僕はただ、彼女とまた、一緒に過ごすことで、心を癒やされたい、癒やして欲しい。。。そう願っただけなのに。差し入れを持っていって彼女を支えて上げたいというのは、表向きの理由だ。本当はただ、僕が彼女といま会いたかったから。それ以外の何ものでもない。


 僕はどこまでいっても、自己中心的な考えのなかを生きている。


 ……


 ……


 ……


 こんなやつだからだろうか。運命というやつは、とことん僕を見放すのだ。



「ああ、雪が降ってきた」


 

 歩いている途中で、その冬空は早くも雪を落とし始めた。


 太平洋側で大雪を降らすときは、大抵は南岸低気圧という、寒気と暖気を一緒に運んでくる低気圧が原因だと、この前ニュースで言っていた。


 今回の雪の降り方は、そのようなものらしい。ただ、予報では雨か雪か判然としていなかった。ただ、交通機関の乱れも考慮して過大に報道している節はあった。



「冷たいなぁ……」



 僕は空を見上げる。


 重くのしかかってくるような雲がぼんやりと遠景に見えて、僕はその細かい雪を顔いっぱいに浴びる。


 ゆっくりと、ゆっくりと、舞い散るように、雪は街全体を覆っていく。


 僕の心はすっかりと冷え切ってしまった。


 でも、僕の心境にはぴったりの天気なのかもしれない。


 訳のわからないとき、悲しいとき、切ないとき。。。


 どうして人間は総じて温かい現象よりも、このような心を痛めつけるしかないものを自ら求めてしまう癖があるのだろう。


 いや、これは果たして僕だけなのだろうか。。。



「僕の心を動かすものは、いつも風景、自分以外のものだ。良くも悪くも。人の心はこの世を映す鏡だとは、よく言ったものだな」



 悲しいときほど、やるせないときほど、人は詩情的な感性を求めてしまうのは、どうしてだろう。


 詩情的になるとは、この世を感覚で捉えることではないのかもしれない。このやるせない、厭世的になるしかない世の中を、少しでも自分なりに定義して、どんな形であっても納得をしたいと、そう思う、思いたくなる、、、どこまでも理性的で自虐的な取り組みなのかもしれない。



「はぁ……。僕はこれからどう生きようか。家族は死んで。今までの大学生活を共に歩んできた彼女もどこかへ行ってしまった。もうなにも、なにも信じられなくなってしまいそうだ。いや、違う。。。もう何もかも、信じたくないんだ、僕は。信じれば信じるほど、僕の大切なものばかりが、積み上がっていって、でも最後には儚く消え去っていく。信じれば信じるほど、僕は裏切られていく。なんだ、これは。信じた分だけ人は損をする生き物なのか。「信じることは美徳」なんていう言葉、損をすることを知らない人たちを利用して利益を得ようとする人たちが考えた悪質な教育的思想なんじゃないのか。なんだ、これは。ああ、、、あああ、、、あああああああああああああああああああああ!!!!」



 自分でも馬鹿なことを言っていると理解している。しかし、僕はどうしてもネガティブな考えをやめられない。あらゆる可能性を思考して思考して思考して。。。僕はどんどんと駄目な人間になっていく。


 可能性は毒だ。人間を堕落させる。それがネガティブなものであれば、なおさら駄目だ。同じところをぐるぐると巡ってばかりで、一向に前に進んでいかない。


 僕だってわかっている。家族が死んでから、どれだけそれを身をもって体感したことか。


 だけれども。。。


 僕はそれをやめられないんだ。頭では理解していても、どうしてもやめられないんだ。



 これは理屈じゃない。


 

 僕はそういう人間だ。




「ママー。あのひと、ずっとぶつぶつ独り言ってるぅー」

「そうねぇ。とてもつらいことがあったのかしらねぇ」

「よちよちしてあげて?ママ」

「そうねぇ。代わりにマイちゃんをよちよちしてあげまちゅねー。よちよちー」

「あははー。ママー好きー」



 いつの間にか少し大きめの公園のベンチでひとり、舞い散る雪を眺めながら座っていた。


 手はすでに、かじかんで、感覚があまりない。


 でも、その自虐的な行為をただ、他人事のように眺めていると、どういうわけか心が落ち着いていく。


 心が落ち着いていくんだ。。。



「あのママさん。子供を本当に大切に大事に育てているんだろうな。こんな僕に少しも変な目を向けることなく、そのような一挙手一投足が子供に与える影響を気にして生活をしているようだった。自分もいつの日にか、あんな聖人みたいな大人になれるのだろうか。っていうか大学生も終わりかけの人間はすでに大人か。。。」


 

 大人になりきれない存在なんて、そこらへんにたくさんいる。いや、厳密に言うと、大人なんて概念、純粋な子供を教育するためにある便宜上の存在に過ぎないのかもしれない。


 ……


 ……


 僕も大人になりきれないでいる。


 いつまでも生まれ育った家族を恋しく思いながら、前に進めないでいる。いつまでも彼女との甘い日々を忘れられないでいる。


 どうすれば、僕は何もかも忘れることができるのだろう。


 辛いことを今すぐにでも綺麗さっぱり忘れることができれば、僕はこんなにも面倒くさい人間になることはないだろうに。




「はぁ……。このやるせなくて悲しくて、切なくて、訳の分からないくらいに複雑な感情の集合体を全て、すべて……」



 雪が降ると、驚くほどに街中の喧騒がなくなっていく。その感覚に従うように。辛いこと、全部、全部……



「この雪が吸い取ってくれればいいのに」



 僕がそう呟いたときだった。


 遠くから救急車の音が微かに聞こえてきた。


 しかも一台ではない。複数台はいる。


 雪の降っている状況も考慮すると、あまり距離は離れていないだろう。


 しかし、どういうことだろう。


 ここまで慌ただしい都会の街は久しぶりだ。



「なにかあったのかな」




『ブブッ』



 ポケットに入れていたスマホが振動した。



 何か嫌な予感がする。



 僕はゆっくりと、そのスマホを取り出し、画面を確認した。



 そこには、僕の彼女からのメッセージがあった。



「は……?」




:アパート燃えちゃった




 大きな火の手が上がっている写真とともに、送られてきた言葉は、あまりにも軽くて他人事のようで……



「は……?」




 僕は何度も画面を確認した。確かに燃えている。彼女のアパートから火の手が上がっている。



「なんで、いきなり?」



 僕はいつの間にか、駆け出していた。今更いって何もできるはずないのに。今行っても他の大勢と同じく野次馬になってしまうだけなのに。



 僕は全力で駆け出していた。



「はっ、はっ、はっ……」



 冷たい空気が僕の体をさらに冷やしていく。


 遠くのほうで、真っ黒な煙が徐々にその顔を覗かせ始めていた。



【続く】

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