俺だってやるときはやる

浅賀ソルト

俺だってやるときはやる

 電車通勤もいつもの雰囲気に戻ってずいぶん経つ。コロナ禍のガラガラだった電車が嘘みたいだ。

 俺は電車がプラットホームに入る時には自分が乗る車両に目をつけて見るようにしている。他の車両より混んでいるかをチェックする。近づいてくると乗り込むドアの周りがどうかまでチェックする。

 混んでても隣のドアに移ったり車両を変えたりはしない。そのまま並ぶ。ただ見るだけだ。あとは会社まで退屈な移動になるか、あるいは近くにちょっとかわいい女の子がいてその退屈が少しはまぎれるか、その違いがある程度だ。

 その日はまぎれる方だった。

 俺は電車に乗り込み、なんとなくその制服の女子高生の近くに立った。息を大きく吸う。もうちょっと近くじゃないと女子高生の空気は感じられない。

 俺はじりじりとそっちに寄った。黒髪で伏し目がち。実に正しい、これぞ“女子高生”という女子高生だった。女生徒といってもいい。化粧もしていない。アクセサリーの類もしていない。そんな校則違反は絶対にしないタイプだ。

 気がつくと隣に立っていた。周りの動きが俺を隣に立たせてくれたようだ。俺は今度は確実に女子高生の空気を鼻に入れ、それで肺を満たした。

 それから電車に揺れに合わせて女子高生の肩に俺の腕をくっつけたり離したりした。混んできたのでくっつけたままでも不自然ではなかった。スマホを見ていたがさらに混んできた。手を顔の前に上げるのが無理でも自然なほどだ。スマホを持ったまま手を下げてスカートの下にもってきても不自然じゃない。

 そのまま駅から駅へと電車は通過していった。

 不意に腕を掴まれ、耳元で男が囁いてきた。

「おじさん、次の駅で下りようか」

 血の気が引くというのはこのことだ。一気に体温が下がった。自分でも信じられないほどの俊敏さで掴まれた腕が動いた。しかし俺の腕を掴んでいた手は握り潰しそうな瞬発力でグッと力を入れてきた。腕の筋が骨に食い込んで激痛になったほどだ。思わず「いてっ」と漏らしてしまった。

「大丈夫。ちゃんと示談で済ませるよ」

 その言い方に失望というか絶望というか、なにかこの世の悪を見たような気がした。悪魔の囁きというのはこういうのを言うのだろう。なんてことだ。今日は本当についてない。失敗した。最悪だ。

 この段階でも俺は自分の腕を掴んでいる男の正体を確認できなかった。肩とか顎とか体の一部は視界に入っているのだが、そちらに顔を向けられるはずがなかった。

 腕を掴まれたまま、俺はじっとしていた。

「手を離すけど、逃げるなよ」

 男は小さく言って、本当に手を離した。

 まわりの他の乗客にも聞こえているはずだが、まるで何も聞いていないかのように無反応だった。立ったまま自分のスマホを見ているか、ワイヤレスイヤホンを付けて虚空を見ている。

 離した手は俺の手を掴み直し、そこにある俺のスマホを奪おうとした。ぐっと掴んで渡さないようにしたが、向こうの手もぐっと掴んでもぎ取ろうとした。俺はその一回のラリーで諦めて手を離した。俺のスマホは無情にも奪われた。

 斜め後ろの動作を視界の隅で見ただけだが、男は俺のスマホを無造作にズボンのポケットに入れた。操作しようとはしなかった。

 長い長い時間が経過して俺の乗った埼京線は池袋に着いた。板橋から池袋がとんでもない時間に感じられたが、おそらく実際には昨日と同じスピードだっただろう。

 明日はどうか分からないが。

 俺の目的地は池袋ではないが、もちろん俺はそこで下りた。耳元で「下りろ」と言われた。たくさんの乗降客がいる。俺がいつもと違う駅に下りることで乗降客は普段より一人多いのだが、誰もそんなことには気づいている様子はなかった。後ろの男も普段の乗降客ではないだろう。そして女子高生も。

 ホームに下りた人は階段やエスカレーターに流れていく。俺だけが立ったままその流れを見守る人になっていた。

 そして人が流れていって、余裕ができた頃、「こっち向け」と言われた。実際には30秒も経過していなかったはずだ。俺は振り返り、それまで声だけだった男の姿を見た。

 こういうパターンか。俺が最初に思ったのはそれだった。相手は一人ではなかった。俺に話し掛けていたと思われる男の後ろに、痩せた男が立っていてカメラを構えていた。カメラで目は隠れているが口元が笑っている。YouTuberだ。手前にいる男がなんという配信者なのかは知らないが、その配信者の肩越しにそいつは俺の顔を撮っている。

 手前の配信者はごつい体をしていた。こういうトラブルをネタにやってきたんだろう。顔はまあまあにブサイクで、なんならキモい感じすらあったが、目がギラギラとキマっていた。演技なのか本気なのか分からない。俺はヤバい奴だぜというアピールがすごい。圧がかかっている。

 女子高生も後ろにいた。あとになって色々分かったこともあったが、この女子高生がグルなのかどうかについては最後まで分からなかった。

「どうもこんにちは。スマホもいいですが、身分証を確認させてもらってよいですか?」男の喋り方には配信者としての意識があった。第三者にも聞かせるような喋り方だ。

 俺は素直に出すわけにもいかず、かといって嫌だとも言えず黙っていた。こういうとき、「断る!」と堂々と言える人間がいるんだろうか?

 配信者は俺に襲いかかるとバッグを奪った。俺はそれを取り返すでもなく突っ立ったまま様子を見ていた。あーと間抜けに手を伸ばしたまま固まってしまって、その手をゆっくりと太股に下ろした。

 配信者は俺のバッグを腕にぶらさげて手を出した。「財布」

「え?」

「財布を出せ。今のお前がどういう立場なのか分かっているだろう?」

 俺はじっとしていた。撮影されていると思ったので顔が映らないように下を向いた。

 下を向いた状態でも、俺に向かって差し出された男の手は視界の中にあった。財布を受け取る形のまま固まっている。

 次の電車がホームに入ってきた。池袋駅のホームは数分で乗客が溢れる。

 視界の中心にはホームの床と配信者の男の足があった。さらに多くの足が周りを動いている。前にあるのは配信者と撮影者と女子高生の足があり、ほかのたくさんの足は電車に向かって列を作っている。

 こういうときに一目散に逃げる痴漢の話がよくニュースになる。しかし俺はそういう日常的な痴漢じゃない。偶然がなければ痴漢はしない。ああいう逃走ができる奴はすごい。実際には足がプラットホームにはりついて石のようになっていた。動くことも喋ることもできない。俺は社会人としても二流だったが痴漢としても二流だった。いざというときの覚悟がまるで出来てなかった。

 それに比べるとこの配信者は度胸がある。こんな撮影したところで配信できるはずがない。それでもやってやるという覚悟ができている。

 俺は顔を上げた。配信者の顔をじっと見た。

 図体はいいが、顔に傲慢な意識が透けて見えた。俺を再生数のエサとしか見ていない。覚悟が決まっているといっても、俺より上だろうか? こんな若造にナメられてそのままでいいのか?

 俺は突き出された手を払って踏み込んだ。「わああああ!」無我夢中になるとそのまま男の顔面に頭突きをかました。

 状況は自分でも理解できなかったが、なんだか滅茶苦茶になり、男が鼻血を出してよろめいたのは分かった。

 俺は一目散で逃げた。

 バッグもスマホも取られたままで、ますます厄介な状況になっていると気づいたのは、駅から遠く離れて一息ついてからだった。

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