100円自販機

花菱 創

100円自販機

春樹は自販機の前で立ち尽くしていた。手ごろで便利なはずだった自販機のジュースはいつの間にか180円になり、半年前から無職になった春樹にはやすやすと買えるものではなくなっていた。

 大手の証券会社で営業職をしていた半年前なら躊躇わなかっただろう。早朝から深夜まで仕事漬けだったあの頃は、お金の心配はしていなかった。入社当時から同僚や先輩に教えられた派手な遊びを続けていてもどうにかなった。

 しかし5年目のある日、それまでの過労と不摂生で体調を崩した。1か月ほど療養していると体の不調は徐々に良くなったが、精神的な不調は戻らなかった。そして、春樹はそのまま退職することにした。その時、次は自然と子供のころになりたかった絵本作家を目指そうと決めていた。

 親に退職することを伝えると地元に戻ってこないかと言われた。しかし、春樹はそれを断った。春樹が東京で働きだし、仕事でも良い成績を上げていたことに、一番喜んでくれていた祖母に合わせる顔がないと思ったからだ。

その祖母が最近入院した。元気なばあちゃんだったからその知らせを親から聞いたときは驚いた。そのばあちゃんの見舞いに明日地元へ帰ることになっていた。春樹は自販機で買ったジュースを持って公園のベンチに座り、ばあちゃんとの記憶を思い起こした。


 ばあちゃんはいわゆる大阪のおばちゃんだった。元気溌剌としていて町内に友達が多く、顔見知りに合うといつも大きな声でしばらく話していた。そんなばあちゃんがよく買っていたのが、ばあちゃん家の近所にあるチェリオという自販機のジュースだった。この自販機で売られている飲み物はすべて100円だった。ペットボトルのラベルは派手で、体に悪そうな感じが満載だった。それでも、ばあちゃんは「安くてうまいもんが一番や」と言って、笑顔で飲んでいた。

 春樹の両親は共働きで帰りが遅かった。春樹には兄弟がいなかったので、小学生のころはいつも学校からばあちゃんの家に帰っていた。家に着くと春樹はまず置いてあるお菓子を食べ、ジュースを飲んだ。そして、それらが終わると、自由帳にひたすら自作の絵本を書いた。春樹は描くことが好きだったし、描いた絵もとても上手だった。そのころから高校で進路を現実的に考えるようになるまで将来の夢は絵本作家だった。


 両親は共働きだったが春樹の家の家計は苦しかった。彼らは稼いだ分だけ使うタイプだった。母はハイブランドのバッグや服をよく買ったし、父は最新の家電が出るとすぐに買い替えた。

 その点、ばあちゃんは違っていた。ハイブラのバッグや服は持っていなかったし、冷蔵庫やエアコンはすごく古いものを使い続けていた。少なくとも春樹にはそう見えた。ばあちゃんは近所の商店街の「ファッションサロンさかむら」という店で、セールになっている服やバッグを、店員と話しながら選ぶのが好きだった。春樹はその会話を店のおばちゃんが用意してくれたお菓子やジュースを口にしながら、レジ横のパイプ椅子に座って会話が終わるのを待っていた。

 ばあちゃんがその店で買うものはだいたい奇抜な柄や色をしていた。大阪のおばちゃんのイメージで定着しているヒョウ柄のジャケットや紫のズボンなどだ。さらに、髪の毛は黄色をしていた。そんな見た目だから目立って仕方がなかった。

春樹はそんなばあちゃんの見た目を同級生にからかわれたことがあった。当時小学生だった春樹の周りは、みんなドラえもんを見ていた。その頃のドラえもんの映画にキー坊という緑色の木の小人が出てくる作品があった。子供の想像力は恐ろしいもので、誰かがキー坊をもじって、黄色の頭をしたばあちゃんのことをキー婆と呼び始めた。

 それ以降、春樹はばあちゃんと一緒にいるところを同級生に見られるのがはずかしくなり、ばあちゃんから「一緒に買い物行かへんか」と誘われても今までのようについていかなくなった。

 そんなある日、その日もばあちゃんから「チェリオ、買いに行かへんか」と誘われた。チェリオの自販機はばあちゃんの家から100メートルほどのところにあった。春樹はその時ちょうど喉が渇いていたので、チェリオの誘惑に負けてついていくことにした。短い距離だから友達にばあちゃんといるところを見られることは、まずないだろうと思っていた。

 しかし、自販機にたどり着いて春樹がジュースを選んでいると、後ろから聞き覚えのある声がしてきた。彼らは同じクラスの男子4人組で、春樹のばあちゃんをキー婆と初めに呼び始めた子供たちだった4人はちょうどばあちゃんの家のほうから歩いてきているようだった。。春樹は急いでボタンを押してジュースを取り出した。そして、すぐにその場から去ろうと思い、「ばあちゃん早く!今日はあっちのほうから帰ろう」と4人に聞こえないように小さな声で訴えたが、ばあちゃんは気にせずゆっくりとどれを買おうか悩んでいた。そして、ついに春樹は4人組にばあちゃんといるところを見られてしまった。

「あ、春樹とキー婆やん。春樹、お前のばあちゃんカラーコーンより目立つ色してるな。」と4人組の一人が言った。今思えばあのばあちゃんの目の前でそんなことを言った少年に感心するが、当時の春樹は学校内でもやんちゃだったその少年たちが怖くて何も言い返せなかった。

 春樹はその場から黙って立ち去ろうとした。しかし、隣にいたばあちゃんは違った。すごい速さで4人に詰め寄ると、大きな声で4人に説教をし始めた。言葉遣いや自分に対する侮辱、孫への態度など合わせて30分も怒っていた。その迫力に4人の少年は完全に閉口していた。そして、ばあちゃんの説教が終わるころには、4人ともばあちゃんの言うことに、はい!と勢いよく返事をしていた。

 そんな様子を見て春樹はドキドキしていた。春樹のことを馬鹿にしていた少年たちが怒られて落ち込んでいる姿を見て、高揚感を覚えていたのは確かだが、あとで仕返しをされるのではないかという心配のほうが強かった。

 しかし、その心配は不要だった。ばあちゃんは人を味方につけるのがうまかった。一通り説教が終わると彼ら4人に「おばちゃんもう疲れたわ。あんたらもおばちゃんの話長いし、喉乾いたやろ?なんでも好きなもん買うたげるし、はよ選び」とチェリオの100円ジュースを買ってあげた。そして、ジュースを飲む4人にむかって、春樹と仲良くしたってなとさっきまでとはまるで別人のようなやさしい笑顔で話しかけていた。4人はそれまで得体のしれない黄色い髪をしたおばさんが、話してみると実は気は強いが悪い人ではないと気付いたようだった。

 その日以来、春樹のばあちゃんのことを同級生のみんなはチェリオのおばさまと呼ぶようになった。無論、そう言うように指示したのはキー婆こと春樹のばあちゃんだった。

 春樹にしてみれば訳すと「百円自販機のおばさま」になる新しいあだ名も恥ずかしがるべきなのではという思いもあったが、同級生のみんなは春樹のばあちゃんを馬鹿にするのではなく、慕ってチェリオのおばさまと呼ぶようになっていた。だから、春樹もばあちゃんと一緒にいるところを見られることは怖くなくなっていた。

 春樹はこの一件で、ばあちゃんのパワフルさを改めて尊敬するようになり、さらにばあちゃんのことが好きになった。


 そんなばあちゃんと春樹は喧嘩したことがあった。春樹が中学3年生のころだ。

春樹にはそのころ好きな女の子がいた。彼女は透き通るような白い肌をしていて、目は大きくまつ毛も長かった。そして、身のこなしがとても落ち着いていた。彼女は男女関係なくクラスの誰からも好かれているようだった。中学1年生のころから知ってはいたが違うクラスだったので、話したことはなかった。たまに廊下で彼女とすれ違う時や、運動会などの行事で予想外に彼女との距離が近くなった時、春樹の胸は自然と弾んだ。

 2年生になっても春樹は彼女と同じクラスにはならなかった。春樹はその間一度も恋人はできなかったし、彼女に彼氏ができたという情報も春樹の耳には入ってこなかった。

 3年生になってやっと春樹と彼女は同じクラスになった。しかし、1学期の間、彼女と席が隣になることはなく、春樹は話す機会がなかった。

そんなある日、春樹が下校中に学校から数百メートル離れたチェリオでサイダーを買おうとしていた。すると後ろから「春樹君だよね?」と女の子の声がした。春樹はその女の子が誰なのかすぐにわかった。ぱっと振り向くと彼女が少し不安そうな顔で立っていた。春樹がそうだよと答えると彼女の顔がぱっと明るくなった。その瞬間、春樹の頬は紅潮した。夕日に照らされた彼女の顔はいつも以上に美しく見えた。


「よかった。人違いだったらどうしようかなってちょっと心配だったの。春樹君もチェリオ好きなの?」と彼女は言った。春樹は「うん、ばあちゃんが好きだからその影響で昔から飲んでるんだ。」と言って、日本のサイダー(ジュースの商品名)のボタンを押した。ごろんと音がしてサイダーが落ちてきた。春樹は彼女にむかって君は何を買うのと彼女の顔を見た。すると彼女は落ち込んだ様子で、「私もサイダーを書こうと思っていたの。でも売り切れちゃった。残念」と言った。

 春樹は一瞬驚いたがすぐに「俺は別のジュースを買うよ」と言い、彼女にサイダーを渡した。顔に出さないように自然にジュースを渡したが、内心では自分と彼女の好みが似ていることがすごくうれしかった。

春樹は代わりに買ったライフガードを自販機から取り出すと、お礼を言いながら財布から100円を出そうとする彼女に、「お金はいいよ」と言った。

「それは申し訳ないよ。お金は払わせて」とそれでも渡そうとしてくる彼女の手を止めて、春樹は「100円くらい問題ないよ」と言って断った。彼女は本当に申し訳なさそうにしていたが、春樹にとっては二人で話ができたことが幸せだった。それに100円を断るときにすこし手が触れたことが何倍もお釣りがくるくらいうれしかった。その後、春樹は彼女と一緒に帰れることを期待したが、彼女は学校に戻って用事があるようだった。春樹はその場で彼女と別れた。それから家に帰って寝るまでずっと高揚した気持ちがおさまらなかった。

翌日から、彼女は春樹と目が合うと優しく微笑んでくれた。時には二人で話す機会もできた。春樹は彼女との距離が縮まったことで、自分に彼女と付き合うチャンスがめぐってきたのかもしれないと思うようになった。

ばあちゃんと母親は最近、春樹が調子よく登校していることや、帰ってきてからも浮かれた顔でこちらの話を上の空で聞いていることを気味悪がっていた。


それからしばらく経ったある金曜日、春樹は帰りにまたチェリオの自販機でサイダーを買うことにした。すると、彼女があの日と同じように現れた。今度も春樹は同じようにサイダーをおごってあげた。彼女は今回も申し訳なさそうに受け取った。

しばらく立ち話をした後、今回も彼女は前と同じように用事があると言って学校へ戻っていった。春樹はしばらく家路を歩いてから、傘を忘れていることに気づいた。その傘は家を出るときには降っていなかったが、ばあちゃんの家の近くを通っているときに降り始めたからばあちゃんから借りたものだった。ばあちゃんの傘を失くすと怒られそうだから、春樹は学校へ取りに戻ることにした。

 春樹は自分の教室まで傘を取りに行き、傘を取るとそのまま教室をでて帰ろうとした。すると、隣の教室からさっき別れた彼女の声がした。春樹は驚いたが、彼女かどうか確かめようと思い窓の端からそおっと室の中をのぞいた。

すると、そこには楽しそうに会話をしている彼女と隣のクラスの男の姿があった。

 春樹は金属バットで頭を殴られたような衝撃を受けて、一瞬動きが止まってしまった。そして、次に目にしたものがさらに春樹に追い打ちをかけた。その男は春樹が彼女に渡したジュースを手に持っていたのだ。春樹は自分が彼女のために買ったと思っていたものが、他の男に飲まれていたことにひどく傷ついた。

 自分の存在が彼女とその男に気づかれないように、春樹は静かにその場をあとにした。春樹は帰り道、自分がおごっていたジュースが知らない男に飲まれていたことを知らずに、気分よく彼女と話をしていたことに悲しみとともに恥ずかしさを感じていた。

ばあちゃんの家に着くと憔悴しきっていた春樹は、普段なら誰にも言わないようなこの恋の話をばあちゃんにポロっと言ってしまった。ばあちゃんはいつもの元気な声で「そんなん気にせんとき。これからいくらでも出会いはあるんやから」と慰めてくれた。春樹は人に話したことで少し気持ちが楽になり、ばあちゃんに話してよかったなと思った。しかし、悲劇はここで終わらなかった。

ばあちゃんは秘密を守っていられるような人間でないことを、その時の春樹は忘れていた。次の日の朝には母にその話がばれていた。母は春樹の朝食を用意しながら「あんた失恋したんやってな。しかも、チェリオで釣ろうとしてたんやろ。そんな安いジュースで女の子は口説けへんよ。はよご飯食べて元気出して学校行きなさい。」と言った。

今度は全身に高圧電流を流されたような衝撃を春樹は受けた。春樹はその場から逃げたくなり何も言わずにご飯を口にかきこみ、急いで学校へむかった。

春樹は学校へむかいながら、100円で彼女と話せることが自分に経験したことのない喜びをもたらし、それがどれほど大事な時間だったかを考えた。それをこんな風に馬鹿にされるとやはり腹がたった。

そして、春樹は情報漏洩の張本人、ばあちゃんのことを生まれて初めて「あのばばあ、絶対ゆるさない!」と思った。

それから1か月間、ばあちゃんと会っても春樹は口を利かなかった。はじめ、ばあちゃんは「そんなことで怒らんでええやんか、失恋なんて誰もが経験することや」と笑い話で終わらせようとしていた。しかし、春樹が頑なにばあちゃんの言うことを無視し続けた。すると、最後はばあちゃんが根負けして何度も悪かったと謝ってきた。春樹はそのころになると怒りも収まっていたから許すことにした。

春樹がようやく許すとばあちゃんは「ありがとう、まいったわ。春樹があんなに怒るとは思わんかったわ。ほんまにごめんな。それにしても春樹にもちゃんとあたしの血が入ってたんやな、こんなに頑固やと思わんかった」と笑っていた。

春樹は初めてばあちゃんを本気で困らせることができたと思うと少しうれしかった。

 

 あれから10年以上たった今、春樹は久しぶりにばあちゃんと会った。ばあちゃんは想像以上に痩せていた。動きには前ほどの速さや元気がなかった。それでも看護師との受け答えははっきりしていたし、まだボケていないようで春樹は安心した。

 看護師がいなくなったあと少し二人で話をしていると、ばあちゃんが突然、「仕事辞めたんやってな」と言ってきた。春樹は驚いてばあちゃんの顔を見た。どうやら母親がばあちゃんに事前に伝えていたみたいだった。

 春樹は子供のころからの夢の絵本作家を目指してみようと思うとばあちゃんに伝えた。

 すると、ばあちゃんは「ええやんか。夢をもつことはええことや。やりたいことをするのが一番やで。あんたはお行儀よく行きすぎや。ばあちゃんみたいに好きなように生きたらええんやで。」と言って笑った。春樹は心の底で鉛のように沈んでいた思い将来への不安が少し軽くなったように思った。そして、ばあちゃんにはこれからもばあちゃんらしくいて欲しい、ばあちゃんが死ぬ前に絵本を完成させて見せたいと春樹は思った。


それからしばらく話した後、ばあちゃんが「喉乾いたやろ、ジュースでも買いに行こか。」と言った。

身体は弱り切っていると思っていたばあちゃんだが、ゆっくりとでも力強く自分の足で歩いていることに春樹は驚いた。

 春樹はばあちゃんの歩みに合わせてゆっくりと並んで歩きながら、やっぱりばあちゃんはたくましいなと思った。自分にもこの血が少しは入っているはずだ。だから、将来に不安があろうと自分に自信がなかろうと一歩ずつ、自分が決めた道を少しでも前へ進んでいかなければならないと春樹は思った。

 「春樹、どれにする?なんや、この自販機はえらい高いな。」とばあちゃんが言った。春樹は「東京はどこもこんなもんだよ。チェリオみたいな安い自販機はないからね」と春樹は言った。なんやそうなんか、とばあちゃんは悲しそうに自販機に小銭を入れていた。

 すると、横から知らないおじいさんが「チェリオか、懐かしいなあ。こっちでは見いひんから、また関西に戻って飲みたいわ」と話しかけてきた。

 そのおじいさんは笑顔でこちらを向いていたが、その口元を見ると左下の歯1本以外すべて抜けていた。

歯はないが悪い人ではないと思った春樹がそうですよねと相槌を打とうとしたとき、隣から大きな声で「なんやその歯は!熊本城の一本石垣か!」とするどいツッコミがはいってきた。

そのばあちゃんの大きな声は、夕日のオレンジ色のあたたかい光が窓から差す静かな廊下に響き渡っていた。

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