【ショートストーリー】「最後の診察券」

藍埜佑(あいのたすく)

【ショートストーリー】「最後の診察券」

 それは、どの病院にもない特別な診察券だった。

 受付で渡されるそのカードには、患者の名前も病名も書かれていない。

 ただ一つ、「あなたの願いを叶えます」という不思議なメッセージ。


 この診察券を手にした人は、一人一人、診察室に呼ばれる。

 部屋には医師の姿はなく、代わりに最新鋭の機械が鎮座している。

 機械は患者に一つの質問をする。


「あなたが失ったものは何ですか?」


 老婦人が診察券を手に部屋に入った。

 彼女の失ったものは「時間」。

 若い頃の夢を追うことなく、あっという間に歳をとってしまったという後悔だった。


 機械は静かに動き出し、その場で老婦人の目の前に、過去と現在が交錯する映像を映し出した。

 若かった日々の彼女が画面に笑いながら現れる。

 しかし、それはただの映像ではなかった。

 彼女は、画面の中の自分と対話を始めた。


「あなたが失ったものは何ですか?」


 老婦人の目は潤んでいた。


「時間……つまり若い頃の私の夢です。看護師になることでした。でも、家族が私を必要としていて……」


 画面がゆっくりと彼女の若き日の姿を映し出す。

 若い彼女は公園のベンチに座り、看護学校の受験勉強に没頭している。

 老婦人は息をのむ。


「こんにちは」と若い彼女が画面から話しかける。

 声は明るく、目は希望に満ちていた。


 老婦人は戸惑いながらも答える。


「こんにちは、私……あなたは私の夢を見ているね?」


「夢を追いかけることは大切だけど、人生は夢だけじゃない。家族も大切だよね?」


 画面内の彼女が優しく言う。


「そうね…でも、私の人生は、あなたのようには行かなかったわ。」老婦人の声が震える。「私は家族のために、自分の夢を諦めたのよ。」


画面の彼女が微笑む。「でも、お母さんになり、素晴らしい子供たちを育てたじゃない。それはあなたの選んだ夢だったんだよ。」


「そうだけど、いつも何かが足りない気がしてたの。私、看護師になることができなかった……」


 老婦人の目から涙がこぼれる。


「でも、あなたは毎日、母として、妻として、多くの人の心を癒してきた。それも立派な看護だよ」


 老婦人は静かにうなずき、画面の彼女と目を合わせる。


「そうだわ……あなた、いいえ、私……私たちは、心の看護師だったのね」


「そう、あなたはいつも人を思いやり、愛してきた。それがあなたの本当の夢だったんだよ」と画面の彼女が最後に言う。


 老婦人は深い満足感を覚え、自分が選んだ人生の意味を再認識する。

 画面がゆっくりと消えると、彼女の心は平穏で満たされていた。


「ありがとう、私……私の時間、私の夢は、ここにあったのね」と老婦人がつぶやくと、部屋が暖かい光に包まれた。


 彼女はその温かい光に手を伸ばし、かつての自分を抱きしめるように自らを包んだ。

 そして、輝く光の中で、彼女は長年の重荷を下ろし、心に深く息づく愛と充足感に満ち溢れた。

 診察券の奇跡は、彼女に過去の選択を受け入れる力を与え、今を生きる喜びを思い出させた。


 部屋を後にするとき、彼女の足取りは軽やかで、目はかつてのように希望に満ちていた。

 診察券を持った次の人への優しい微笑みを残し、老婦人は新たな日々へと歩き出した。

 あの部屋で、彼女はただの時間を超えた治療を受けたのではなく、自らの存在全体を癒し、再生させたのだ。


(了)

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【ショートストーリー】「最後の診察券」 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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