第6話 母から満州を引き継いだ日(翌朝 2023/09/02)
翌朝、母は食卓に古い原稿用紙を閉じた冊子を載せて待っていた。糸で縫い付けられた千代紙の表紙に『ある一家と人々との交わり(祖父)』という題目が、角の目立つ手書きで記されている。
「仏壇に入れてずっと取っておいたのよ」
それは私が中一の時に国語の課題で作った、母方の祖父の伝記だった。満鉄(南満州鉄道株式会社)に務めていた祖父の一生を母に語ってもらい書き留めたものだ。茶色に変色した原稿用紙が破れないように、そっとページをめくった。前書き、祖父の生い立ち、苦学時代、渡満、終戦、引き上げ、日本での戦後、後書き、本人の言葉の九章が、二十数ページに渡って纏められていた。中学生とは思えないしっかりした文章が綴られているのは、母の語りをそのままに筆記したからであろう。私が忘れていただけで、母は父親の人生を代弁することで満州での経験を娘に伝えていたのだった。
祖父の伝記を読み終わった私に母は言った。
「凉子が聞きたいことは何でも聞いていいよ」
母は中学生だった私には話せなかったことを、父親ではなく自分自身の経験として語る覚悟を決めて座っていた。二歳の赤ん坊の時に渡満し十二歳で終戦を迎えた母の歴史が紐解かれようとしていた。
「お母さん、辛いことをお願いしているかもしれないけれど、九十歳を過ぎた歴史の生き証人の言葉をしっかり受け止めるからね」
私はこう言うと、スマホの録音アプリをオンにした。
母は私の質問に答えながら、自分の頭のなかに当時の情景を鮮明に映しだしているようだった。そのくらい母の描写はリアルだったーー西洋に負けないモダン都市だった奉天の美しさ、突然ロシア軍が攻め入って来た日の驚愕、奉天で終戦を迎えた特攻隊員の悲惨な行く末、中国人労働者が火をつけた工場地帯の炎で真っ赤に染まった敗戦した夜の空、敗戦後三日のうちに日本帝国軍が姿を消した後、残された民間人が助け合って生き延びたこと、ソ連軍から国民党軍、そして八路軍(中国共産党軍)へと満州統治勢力が変わっていった様、そして一家離散になりかけながらも、どうにか全員無事に帰国を果たした家族の試練、その全てについて、一生懸命記憶を手繰り寄せながら言葉を紡いでくれた。
ひと通り母が話し終えたところで、私はこれまでどうしても聞くことができなかったことを問うた。母が棺桶まで持って行くつもりの秘密かもしれないと思うと、母だけでなく自分自身の胸に刃を突きつけた思いだった。それは、軍規の乱れたソ連兵が略奪と暴行を重ねていた満州で、当時十二歳だった母と周りの女性達の身に何が起こったのかということだった。母は淡々と自分が目撃した恐ろしい出来事と自分を守ってくれた人達のことを語った。それは私がそれまでテレビや小説で見聞きしていた占領軍兵士によるレイプよりも遙かに複雑で、やった、やられたという単純な暴力行為にとどまる話ではなかった。そしてその時の体験が、母のその後の人生に如何に暗い影を落とし続けたか、という事を初めて認識した。
母からとてつもなく大きなものを引き継いでしまった。文章力をつけてこの話の全てを書かなくてはいけないと思った。
母は今回も正しかった。前の晩フランス料理レストランに行かなかったおかげで、公衆の場ではとても聞けないような話を打ち明けてもらえた。彼女がここまで話したのは、夕飯の食卓で私の中で起こった嵐が、少なからず母の心をも乱したからかもしれない。
聞き取りを終え、二人で母の大好物のコンビニのフルーツサンドイッチを頬張った。
「昨日は大人げないことで駄々こねてごめんね」
そう謝ると、母はどうってことはないという顔をして、
「涼子がいると安心してしまって、気を遣うことを忘れちゃうんだよ。悪かったね」
と言った。母は私に甘えてくれているんだ、信頼して我が儘を言ってくれているんだ、そう考えられなかった昨日の自分に鼻白んだ。
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