第5話 母の鏡に映る鬼(回想)

 思えば、自分自身を怖いと感じたのは、これまでも何回もあった。いずれも母という鏡を通して自分の中にいる鬼を見たのだ。


 最初に鬼が現れたのは、東京で息子を出産した直後だった。初孫が生まれると張り切って上京した母は、私達の家に一ヶ月滞在する予定で身の回りのものを宅急便で送っていた。妊娠が判明した時、夫より先に母に報告した程、母を頼りにしていた私が豹変したのは、帝王切開で生まれた息子に病室で授乳させていた時だった。何かと脇から手と口を出し、息子を抱きかかえてしまう母に、子供を横取りされてしまうような恐怖を感じたのだ。

 

 子供の頃、家庭科の衣服の実習の度に、裁縫の上手だった母は私から布地を取り上げて、あっという間にミシンで綺麗に仕上げてしまった。「お母さんにやってもらったでしょう」と家庭科の先生に怒られるのも嫌だったし、それ以上に、友だちは皆苦労して取り組んでいるのに、自分だけ狡(ずる)をしていることが恥ずかしかった。下手でもいいから自分で服を作りたい、という思いが踏みにじられたことが蘇った。 三ヶ月後に産休が開けたら、我が子を置いて職場に戻らなくてはいけない。母が傍にいる限り、その短い期間に子供との絆をつくれないような気がした。何晩か眠れずに悩んだ末、母に山形に帰ってくれとお願いした。あの時の自分は出産後のホルモンシフトで精神的に不安定だったのかもしれない。病室中に光っていた『初孫誕生』という幸せのクリスタルを自ら叩きわった罪悪感に打ちのめされた。去っていく時の寂しそうな母の背中を見ながら、私は号泣し自分は鬼だと思った。


 二回目の鬼は、渡米する時に顔を出した。息子は三歳で可愛い盛りで、私も出産の時の心意気とは裏腹に、度々母に上京してもらっては育児をサポートしてもらっていた。まだ健在だった父が「人はこんなにも他人を愛せるものなのか」と関心する程、母は息子に深い愛情を注いでくれていた。一家で渡米することが決まった時、私は母に、息子が小学校に入学するまでには必ず日本に帰ってくる、と嘘をついた。当時、日本で様々なストレスに悩まされていた私達は、アメリカで息子に教育を受けさせたいと考えていたからだ。

 

 引っ越しトラックが荷物を詰め終え、家が空っぽになった時、山形から手伝いに来ていた母は大声をあげて泣いた。その姿に私の心は張り裂けそうだった。母は私の大きな嘘に気がついた上で、送り出してくれているのではないかと思ったからだ。母に真実を告げずに日本を後にする自分に鬼を見たが、渡米後、毎年一ヶ月以上も山形で夏休みを過ごさせてくれた母のホスピタリティーに私達家族は救われた。


 そして三回目の鬼は、ニューヨークに行って一年後、息子がキンダーガーテン(米国の義務教育はキンダーガーテンで始まる)に入学した時に出現した。その頃、息子は毎月母がSAL便で送ってくれるドラえもんの漫画本を心待ちにしていた。そこで意外な問題が持ち上がった。ドラえもん以外の本を全く読もうとしなくなったのだ。英語もまだ侭ならないのに、日本語の本ばかり読んでいたものだから、現地校では落ちこぼれたままだった。そのうちに、宿題をやっていても、いつのまにか机の上にドラえもんを広げてしまうようになり、一種のドラえもん中毒になってしまった。息子をドラえもんから遠ざけようとする私の努力をかき消すように、毎月新しい漫画本は届き続けた。


 全ての漫画本をクローゼットの中で隠した晩、息子は皆が寝静まったのを見計らって、漫画本を探しだし隠れて読んだ。その姿を見つけた時、私は苦渋の決断をした。ドラえもんの本を全て廃棄したのだ。家族に嘘をついてまで特定のものに依存する息子に不安を感じたからだ。二冊ずつ買っては郵便局からアメリカまで送ってくれた母の真心ごと、二十冊あまりのドラえもんコミック全巻をリサイクル・ペーパー収集場所に置き去った翌朝に見た、息子の顔を私は一生忘れないだろう。その落胆を目の当たりにした時、言葉も通じない外国でドラえもんは息子を励ましてくれていたベスト・フレンドだったことを悟った。その大切な友だちを息子から取り上げてしまった——取り返しのつかない過ちに震撼した。そして、ドラえもんの漫画本を送り続けることで、私を恐ろしい毒母にした母を恨んだ。


 けれどその絶望的な状況から私達を救ったのも母だった。ちょうどその頃、コミックブックとは別に『藤子・F・不二雄大全集』としてドラえもんが再出版されたのだ。まるで私達の状況を見透かしたように、捨ててしまった漫画本が装丁を変えて、また毎月母から届くようになったのだ。コミックブックを廃棄されたトラウマからか、息子は大全集のドラえもん本はある程度の節度を持って読むようになった。英語と日本語の本のバランスを覚えたのだ。

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