第4話 嵐(その日の晩 2023/09/01)
アオキの予約をキャンセルした晩、スーパーで買ったお寿司とお惣菜に合わせて、キューリとわかめの酢の物、冷蔵庫の残り野菜のサラダ、なめこのお味噌汁を手作りした。小食で偏食の母は、お寿司と出来合いのコロッケを食べたけれど、私が作った料理には箸をつけなかった。それはいつものことだったけれど、アオキの件があったからか、私のなかに小さな台風の目が発生しようとしていた。
——私がお母さんを喜ばせようとしてやっている事なんて、彼女にとってはどうでもいいことなんだ。
百合が三年前に母と同居を始めて以来、毎週金曜日は二人で息抜きがてら、美味しいものを食べに行くのが習慣になっている、ということを聞いたのは昨年のことだった。コロナ禍を境に、母との外食を止めていた私にとって、それは驚きのニュースだった。その話を聞いてから三回里帰りをしていて、折りをみて外食に誘ってみたけれど、母の億劫そうな顔を見ては取りやめにしてきた。今晩外食に拘ったのには理由があった。満州から引き上げてきた母から、終戦前後の現地での経験を聞きたかったのだ。以前からその問いかけはしてきたけれど、その度に母にはぐらかされてきた。母にとっては、日常から離れた場所の方が語りやすいのではないかと考えたのである。そして、もう一つ、百合とは普通に楽しんでいることを、私とはやらないことが気になっていたのだ。
よせばいいのに、私はレストランのキャンセルの件を蒸し返した。
「お母さんには、私が作ったものを食べてあげようとか、私に美味しいものを食べさせたい、とかいう気持ちはないんだよね、きっと。私は別にフランス料理を食べたかった訳じゃないよ。帰る前にお母さんと二人でゆっくり話したかったんだよ。できれば満州のこととか」
母は下を見たまま黙っていた。
「私はこの三年間、山形では、ターリーズでコーヒーとサンドイッチ食べる以外、一度も外食してないよ。蕎麦屋だって行ってないんだよ。正確にいうと、こないだ小説講座の懇親会で焼き肉食べてきたけどね。コロナには気をつけなきゃいけないし、外食は疲れるだろうし、おうちのご飯で全然いいと思ってた。でも百合とは毎週行くのに、私とはゼロ回っておかしくない?」
「百合ともそんなに行ってないよ」
そう母は小さく答えた。
私は九〇歳の老人に一体何を馬鹿なことを言っているのだろう? 今時期、中学生だってこんな駄々をこねないだろう。心の中でさめざめと雨が降り出した。私は夕立に見舞われた放課後、傘を忘れて昇降口に立ちつくしている小学一年生に戻っていた。お母さんが傘を届けてくれると信じ、じっと待っている可愛そうな女の子。
乏しい表情で私が作った酢の物をまずそうにつっつき出した母を見た時、私は母の心の声を盗み聞きした気持ちになった。
——外国暮らしが長いと、こんなにきつくなるのかしら? 涼子も昔は優しかったのに。まぁ、しょうがない。どうせ明後日にはアメリカに帰っていくのだし。それに明日には百合が戻って来る。
心の中の雨が大降りになった。自分が妄想した母の声に、心のなかで反論した。
——この家とお母さんを守っているのは百合だけじゃないよ。去年テナントが退去する時のトラブルを弁護士相手に解決したのも、セコムをつけたり、介護保険では賄えない家事サービスを自費でやってもらえるように交渉したり、そういうインフラ整備をやっているのは私なんだから。お母さんは何も知らないでしょうけど。
父から受け継いだ、時々激昂するDNAにスイッチが入りつつあった。
「明日は百合が来るから外食しようね。三人ならいいんでしょう」
私がそう言った後だった。
「すみません」
そのか細い声は私を現実に戻した。目の前にいるのは、猛暑の夜、家でご飯を食べたいと思ったばかりに、娘に怒られている老人だった。
——お母さん、ごめん。私のやっていることは虐待だ。
私は年老いた母を苦しめる自分自身が怖くなった。
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