第3話 『光強ければ影もまた濃い』(母と私達姉妹)
毎朝デイ・サービスに行く前に、山形新聞を隈なく読み込む母は私より時事に詳しいし、ショート・ステイで暇を持て余していた母にプルーストの『失われた時を求めて』を差し入れたところ、大層気に入ったらしく、その後半年で八巻目まで読み進んでいる(私は一巻目の半分にも達していない)。
真実を見極める判断力といった脳の深い所にありそうな能力はより研ぎ澄まされてきたようにさえ感じる。けれど母の認知症は、家の外壁塗料が剥げ落ちるように、生活力の低下という、一番見えやすいところで進行していった。家事や戸締まりといったことは連日ヘルパーさんに助けてもらってきたけれど、火の元確認や薬の服用といった命に関わる管理が怪しくなるに至り、十年前に父が他界して以来続けてきた一人暮らしは困難になったのだ。長女の私はニューヨーク、次女の百合は東京でそれぞれ家庭と仕事を持っている以上、第一の選択肢は母を施設に入所させることだった。ところが母は、断固として自宅以外の場所で生活することを拒否した。入居者の自由がきくサ高住(サービス付き高齢者住宅)だろうが、シェアハウスだろうが、全く受け入れようとしないのだ。
コロナ禍で、東京と山形の間の移動が難しくなったのを機に自宅勤務になった百合が、実家で母と暮らすようになった。百合が長期出張に出る時は、私がニューヨークから山形に里帰りし、母の介護をバトンタッチしている。双方の都合がつかない時だけ、母は渋々ショート・ステイ(要介護高齢者用短期宿泊サービス)を利用する。更に、母名義の賃貸店舗の管理や確定申告、一軒家のメンテナンスといった負担が重く私達にのしかかってきた。山形滞在中は、私も妹も夫とは別居状態、義理の両親の面倒もみれない。実家の飼い猫にも、母がショート・ステイにいる間は、キャット・シッターに餌をもらって自宅で何日も留守番してもらうか、東京の百合の自宅で義弟に面倒をみてもらったりと、随分苦労をかけている。
どれだけ周囲が犠牲になろうと、母は最終的に自分が欲するものを得てきた。厄介なのは、とんだ我が儘に見えた母の選択が結果的に我々にとっても最善であることに気づかされる事が多いということだ。母がTIAで倒れる半年前、私は散々悩んだ末に長年働いた会社を去り、フリーランスへ鞍替えした。母の介護という名目で生まれ育った場所で時折生活することは、若き日の自分へタイムスリップする贅沢とこれからの人生を豊かにするための人との出会いを与えてくれた。アメリカからズームで参加している山形小説講座の受講生仲間と親交を深めることができたこともその一つである。百合は、母校の小学校校舎を山形市が再開発して出現したシェアオフィスに、仕事場を賃借した。卒業後四〇年余りを経て、懐かしい教室へと通勤し、母の待つ実家に帰宅する生活は、彼女が高齢者になる前に神様がくれた束の間の休暇かもしれない。私達の人生は、母の介護により複雑化したけれど豊かにもなったのだ。
『光が強ければ影もまた濃い』とのゲーテの名言よろしく、母の老いに寄り添うということのダークサイドの闇も深い。十四時間のフライトで到着した初日から、時差で朦朧とする頭と疲労した肉体に鞭打って、実家の家事や雑事に駆けずり回るのは難業だ。コロナ禍も顧みず年に数回ニューヨークと山形を往復する健康リスクと経済的コストも馬鹿にできない。
それ以上に深刻なのは精神面でのダメージだ。認知症の母は、文学を楽しみ、物事を判断する力は健在だけれど、感情の抑制やコミュニケーションの能力は衰えを見せている。それが私を混乱させ不安にする。母は感情の機微を表情や仕草に簡単に出すようになったけれど、昔のように自分の気持ちを言葉で説明することが減った。外面の様子から彼女の内なる感情を想像(もしくは妄想)することは、時として私の心に嵐を巻き起こす。それは陰気な海鳴りが響く暗いものであったり、灼熱の砂漠での激しい乾きのようであったりする。私は、そうした嵐を心に隠しもつ自分自身が心底怖くなる時がある。
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