第2話 『悪霊』と『白痴』(回想)
四年前の早春、一人暮らしだった母はTIA(一過性脳虚血発作)で二週間入院した。家事支援にきてくれていたヘルパーさんが「いつもの恵理子さんと違う」ことに気づき、救急搬送を要請してくれたのだった。脳の血流が悪化することで神経脱落症状が現れるこの病気は一過性のもので、母の意識障害も数日のうちに改善した。
「画像診断上、脳は立派なものですが、認知機能判定テストの結果は初期の認知症。実際のところ大分前から認知症は始まっていたのでしょう」
というのが脳神経内科医の見立てだった。倒れる直前まで自分で確定申告の書類を整え、しっかりとしたEメールをパソコンから送ってきていた母に限って、そんなことはありえない、と反論した私に医師は
「離れて暮らしている貴方にはお母様の本当のことがわからないのでしょう」
と言い放った。さらに
「認知症は現実をシャットダウンしたいという願望から発症する、という説が根強く信じられています。認知症になったからといって、お母様自身が不幸だと感じているとは限りません。むしろ不幸は、この病気を受け入れられない身内が作りだすことも多いのです」
と私に諭した。その時はドクハラだと憤慨した彼の言葉を最近よく思い出す。
当時は、次回の読書会の課題図書なのだといってドストエフスキーの『悪霊』を熱心に病室で読んでいる母と認知症を繋げることはできなかった。
「お母さん、よりによって『悪霊』なんて縁起でもないものを病院に持ち込んじゃって」
と苦笑する私に
「あら『白痴』よりはましじゃない」
と冗談で返した母の知性の輝きは、現在もそれほど色あせていない。
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